「わたしが愛したように」
2010年05月02日
ヨハネ福音書13:34〜35
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
私が神学生の頃、神学校の授業に「説教演習」という時間がありました。47、8年昔のことですが、この説教演習の時間には、一人ひとりにテーマが与えられ、みんなの前で説教をさせられます。
私に出されたその時のテーマは、マタイによる福音書22章の37節〜40節でした。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい」
という聖書の個所でした。
「隣人を自分のように愛しなさい。」よく聞いている聖書の言葉ですが、考えれば考えるほど、「自分にはそんなことはできない」という反論が自分の方に向かって突き刺さってきます。
「誰だって自分がいちばんかわいい。」「自分のために生きている。」自分が自分を愛さないでは生きていけない。」その私が、自分を愛するのと同じように、自分以外の人を愛する、そんなことなどできるのだろうか」と、自問自答して、苦しくなり、考えることも、原稿を書くこともできなくなりました。
いよいよ説教の時間になり、「私にはそんなことはできません」と言って投げ出したことがあります。今でもその時の苦しさが忘れられません。
キリスト教は「愛の宗教」だと言われています。どこが愛の宗教なのでしょうか。仏教にも、仏の慈悲、慈愛、憐れみという教えがありますし、その言葉はよく使われています。
キリスト教の愛と仏教の慈悲とは、どこがどのように違うのでしょうか。
宗教に関係なく、小説、演劇、映画、歌謡曲でも、「愛」は人生の永遠のテーマと言われ、「愛」という言葉が氾濫しています。
世界中の誰も、みんな「愛したい」「愛されたい」と願い、しかし「愛し合う」ことが出来ないで悩んでいます。
さて、今日の福音書ですが、ヨハネ福音書13章34節に、イエスさまは、「あなたがたに新しい掟を与える」言って「愛し合いなさい」と、あらためて命じておられます。
このイエスさまの教え、イエスさまの命令のどこがどのように新しいのでしょうか。何が新しい掟、律法なのでしょうか。
「互いに愛し合いなさい」という掟は、旧約聖書のレビ記19章18節にすでに教えられていて、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と古くから伝えられています。当時のユダヤ人の間では子どもでも知っている神の掟で、決してイエスさまが言い出した新しい教えではありません。
しかし、他の宗教にない、誰も教えたことのないような新しい教えが、ヨハネの福音書にあります。それは、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉です。
それでは、イエスさまは、私たちをどのように愛して下さったのでしょうか。どのような愛し方をすることが、「わたしがあなたがたにしたように」といわれることなのでしょうか。
ある時、ペトロがイエスさまのところに来て尋ねたことがあります。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」と。
これに対するイエスさまの答えは、「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい」ということでした。(マタイ18:21、22)
ペトロの問いは、「人が、わたしを裏切ったら、何回まで赦したらいいのでしょうか」ということでした。この言葉を言い直して「人が私を裏切って、愛せなくなりました。それでも愛さなくてはなりませんか。どこまで愛したらいいでしょうか」と尋ねたことになります。
そこで、イエスさまは、弟子たちに、神さまと私たち人間の関係を「天国のたとえ」として、たとえ話をなさいました。
あるところに王様がいました。王様は、大勢の家来たちにお金を貸していましたが、ある時、その家来たちに貸したお金の精算をしようとしました。
返済してもらう金額を計算し始めたところ、6千万円(ギリシャの通貨で1万タラントン、1タラントン=6000ドラクメ(ギリシャ)=6000デナリオン(ローマ)、1デナリオンは労働者の1日の賃金)も借金している家来が、王様の前に連れて来られました。
その家来は、その借金を返せと言われましたが、そんなに積もり積もった借金をすぐには返すことができません。そこで、王さまは、その家来に、自分も妻も子供も奴隷になり、また持ち物も全部売って返済するようにと命じました。
家来は王様の前にひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。涙を流して頼みました。王様は、その家来を憐れに思って、彼を赦してやり、その借金を帳消しにしてやりました。
喜んだ家来は、外に出て帰りましたが、その途中で、仲間の一人に会いました。
ところがその時、この家来は、その友人に100万円(100デナリオン)を貸していることを思い出しました。そこで、その金を貸している仲間をその場で捕まえて、首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。
仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼みました。しかし、家来は承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと言って牢に入れてしまいました。
その様子を見ていた仲間たちは、非常に心を痛め、王様の前に出て事件を残らず告げました。そこで、王様はその家来をもう一度呼びつけて言いました。「お前は何と不届きな家来だ。お前があんなに泣いて頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのではないか。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか。」
そして、王様は、怒って、借金をすっかり返済するまではと、その家来を牢役人に引き渡した。
このたとえの最後に、イエスさまは、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われました。
このたとえのテーマは、「赦し」ですが、これを「愛する」ということに置き換えてみたらどうでしょうか。
イエスさまが語る愛の論理、神さまと私たち人間の関係は、このようなものだと教えておられます。
神さまが、私たちの罪を、お金に換算すると6000万円以上、赦してくださっているのに、私たちは、隣人に貸した100万円を赦すことができない。
神さまが、私たちを、お金に換算すると6000万円分以上、愛してくださっているのに、私たちは、隣人に対して100万円分さえ愛することができない。
ここにイエスさまが言われる愛の論理があります。
ヨハネ福音書は、イエスさまの愛とは、「十字架に懸けられたキリスト」にあると、十字架を指さしています。
ヨハネの第一の手紙4章9節以下に、このことを解説してくれる言葉があります。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
神さまが、私たちのために、そのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪を赦すために、その命を与えてくださいました。ここに神の愛があると言います。
「愛」は、目には見えません。これほどあなたを愛していますと言って、胸の中から愛のかたまりを取りだして見せることはできません。
しかし、神さまは、私たちに見えるかたちで、神の愛を示してくださいました。
イエス・キリストこそ、神の「愛」の目に見える形であり、神の愛そのものなのです。それは十字架と復活によってはっきりと示されました。
神さまは、私たちを愛してくださいます。その証拠として、最も愛する独り子を与えて下さいました。それほど私たちを愛してくださっているのです。それに対して、私たちは、はたしてそれほど愛される値打ちがあるのでしょうか。
神の子の命と引き換えにするほどの価値が、私たちにあるのでしょうか。
よいところなど少しもない、ほんとうに弱い、醜い者です。神さまに背いているばかりいる私たちです。そのような私たちを、神さまは受け入れてくださっているのです。
神さまは、その弱い、醜い、神さまに背いてばかりいる私たちを、そのままの姿で、受け入れてくださっているのです。その弱さも醜さも罪も、これを全部引き受けて、その償いのために、独り子の命を与えてくださいました。それが十字架であり、そこに神の愛があります。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
この「わたしがあなたがたを愛したように」というお言葉の向こうには、イエスさまの十字架があるのです。十字架によって示された神の愛が指さされているのです。
他の宗教や世間一般に言われている「愛」との違いは、ここにあります。
「互いに愛し合いましょう!」「お互いに仲良くしましょう!」「みんな仲良くしましょう!」と、標語に書いて、これを暗記して、さあ「愛するぞッ」と言って、自分で決心して始めるような「愛」ではありません。
6000万円の負債を赦してもらったあの家来ように、6000万以上の愛を受けている私たちが、神さまからすでに大きな憐れみを受け、かけがえのないイエスさまの命を代償として、帳消しにして頂いているのです。
そのような愛され方をしていることを忘れてしまって、隣り人を愛せないでいるのです。最も身近にいる隣人を愛せないでいるのです。
言いかえれば、人を愛せないのは、私たちが神さまから受けている愛を忘れてしまっているからだと言うことが出来ます。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
これは、イエスさまが弟子たちに与えた新しい掟です。弟子の集団、ひいては教会に対する掟だということです。イエスさまがそうなさったのですから、イエスさまに従う者、従おうとする者は、それにならいなさい。 神さまが、私たちを愛してくださったのですから、その上に立って、イエスさまが、私たちに互いに愛し合いなさいと命じておられるのです。
私たちが、この教会が、イエスさまが教えられるほんとうの愛で満ちた教会になりたいと願い、求めたいと思います。
祈りましょう。
人類を深く愛し、救い主・み子イエス・キリストをこの世に遣わされた全能の神よ、み子はわたしたちと同じ肉体をとり、おのれを低くして死に至るまで、十字架の死に至るまであなたに従われ、十字架の上に神の愛を示されました。どうかわたしたちがこの恵みをつねに覚え、み子の模範に従って、互いに隣人を愛することができる者とならせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
〔2009年5月2日 復活節第5主日(C) 於・高田基督教会教会〕