すべての人を一つにしてください。
2010年05月16日
ヨハネ17:20〜26
ヨハネの福音書によりますと、イエスさまは、最後の晩餐の時、弟子たちの足を洗い、イスカリオテのユダの裏切りを予告しました。
そして、弟子たちに、14章から15章に渡る長いお別れの説教(訣別の説教)をなさました。そして、その後、17章1節から26節まで、長いお祈りをなさいました。
今日の福音書の個所は、そのイエスさまの最後のお祈りの部分です。迫ってくり苦難、十字架を前にして、「神の子の祈り」をささげておられます。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
(21節)
弟子たち、そして弟子たちの言葉を聞いて信じた人たちが一つになりますように。父である神さまとイエスさまが一つであるように、彼らも一つになりますようにと祈られます。イエスさまが目に見える姿でこの世を去るに当たって、最後に祈られたことは、弟子たち、信徒たちの一致でありました。言いかえれば、「教会の一致」です。
ところが、2千年の教会の歴史、世界の教会の現実をふり返って見てみますと、分裂の連続であり、今なお教会は、分裂、分派の中にあります。
初代教会と言われるころから、教会の中で分裂があったようです。パウロの手紙によりますと、コリントの教会では、「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」と言って、妬みや争いが絶えなかったことが記されています。
パウロは、その状況を知って、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この2人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(第一コリント3:3-7)と言って叱っています。
東方教会と西方教会、カトリック教会とプロテスタント教会、プロテスタント教会では、いくつの教派に別れているか分かりません。
教会の分裂、分派は、イエスさまの御心を痛めています。神さまの御心に背いています。このような私たち教会の姿を見るとき、ほんとうに悔い改めなければなりません。
イエスさまが、頭に描いておられる「一つになる」という姿は、どのような姿でしょうか。「父である神さまが、イエスさまの内におられ、御子であるイエスさまが、父である神さまの内にいるように」、すべての人を一つにしてくださいと祈っておられます。
私たちの親子関係を当てはめてみますと、実際の親子の関係で、「一つになる」ということは、なかなか難しい問題だと思います。子供がずっと小さい時には、完全に親の懐の中にいました。食事を食べさせてもらい、お風呂に入れてもらい、服を着せてもらいます。親の手がなければ、子どもは片ときも生きていけません。親も保護を必要とする子供のことで頭がいっぱいです。その状態こそ子が親の内におり、親が子の内にいる状態だということができます。
ところが子供が成長し、自我が芽生え、自己意識が強くなると、親子の間で反発が起こり、逆らったり、喧嘩が絶えないという状態になり、最後には、親子の断絶という悲しい結果になることがよくあります。
イエスさまが言われる「父の内にいる子、子の内にいる親」という関係は、人間の関係でいえば、子供が赤ん坊か幼児までの頃の姿ではないでしょうか。私たちにもそのような時代があったように思うのです。
しかし、自我とか自意識の塊のようになった私たち、おとなである私たちが、赤ん坊や幼児のようになることは、非常に難しくなります。イエスさまは、母親や父親と、その母親や父親に抱かれている子供のような一体感、親のふところの中で、ほんとうに安心しきっている姿、そのような親子が一体となっている姿を頭に描いておられるような気がします。
しかし、私たちと神さまとの関係に目を向けてみますと、大人になり自我に芽生え、利己心(エゴ)が支配する私たちは、神さまの意志から離れ、自分独りで歩いていこうとします。実際は、神さまの大きな御手の中にあり、神さまの恵みから離れては、一歩たりとも自分で歩くことは出来ない幼子のような私たちなのです。しかし、自分で歩いていけるように、私たちは思っています。神さまを無視し、神さまに反抗し、最後には断絶の状態になっています。
イエスさまは、おとなでありましたけれども、徹底的に父である神さまに服従されました。
イエスさまは、捕らえられる前に、ゲッセマネの園で、祈られました。弟子たちの所から少し離れた所に行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈られました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。(マルコ14:35-36)
ルカによりますと、その時の苦しみは、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:44)と記されています。
自分に迫ってくる十字架を前にして、「アッバ(お父ちゃん)」と呼びかけ、「あなたは何でもおできになります。今、目の前に迫っているこの苦い杯をわたしから取りのけてください。」と血が地面に滴るような汗を流し、苦しみもだえておられます。
イエスさまも私たちと変わらない人間です。私たちと同じ肉体を取ってこの世に来られました。なぜこんな苦しみを受けなければならないのですか、なぜこんな死にかたをしなければならないのですか。何もかも投げ捨てて、どこかへ逃げてしまうことも出来たはずです。
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と言って、神さまのみ心に従われました。
また、十字架の上で、息を引き取られる直前に、イエスさまは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを上げました。(マタイ27:46) しかし、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られました。
私たちは、調子のいいとき、都合のいいときには、一緒にやりましょうとか、あなたと私は一体ですとか、愛し合いましょうとか言えますが、ひとたび、自分が不利になったり、痛みや苦しみを受そうになったり、自分の思うようにならなくなると、一致とか一つになるとかいうことはできません。袂を分かつ、絶交などと口走ってしまいます。
イエスさまは、「わたしが父なる神の御心に、最後まで従順であったように、一つであったように、あなたがたも私と一つになりなさい、母親の懐に抱かれる赤ん坊のように、親の内にある子、子の内にある親となることが出来ますように」と、最後に祈っておられます。
イエス・キリストを頭に仰いでいる教会、イエスさまが真ん中におられる教会、イエスさまの愛が満ちあふれた教会であるはずですが、現実の教会、実際の教会では、どの教会もどこの教会でも、さまざまな問題を抱え、信徒一人一人もそれぞれに人間関係や家庭の事情など難しい問題をいっぱい抱えています。
しかし、私たちには、イエスさまが求めておられる、祈って下さっているヴイジョンがあります。イエスさまご自身が、神さまとの関係の中で示し、模範となって下さった具体的な姿があります。私たちがそのヴィジョンを、ほんとうにこれを共通のヴィジョンとする時、私たちが、そのヴィジョンに近づこうとする時、私達の教会は祝福され、目に見える形で「神の国」となることができます。
最後に、聖パウロの教えに耳を傾けたいと思いましょう。これは、パウロがフィリピの教会の人々に書き送った手紙です。
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたし(パウロ)の喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。
それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:1-8)
〔2010年5月16日 復活節第7主日・昇天後主日(C) 岸和田復活教会〕