真理の霊が導いて、あなたがたに悟らせる。
2010年05月30日
ヨハネ16:13
「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)
1 三位一体主日
私たちの教会の暦では、毎週の日曜日すなわち主日に、それぞれ名前がつけられています。
私たちが信仰生活を続ける時、ともするとマンネリに陥ってしまいます。これを避けるために、主日やシーズンに意味を持たせ、そのことについて学んだり、自分を見直したりする助けとなるために先輩たちが遺してくれた遺産です。
先週の主日は「聖霊降臨日」(ペンテコステ)という日でした。今日の主日は「聖霊降臨後第1主日」という日で、さらに同時に「三位一体主日」と言われる主日です。
私たちは、「三位一体の神を信じます」と信仰告白をいたします。
使徒信経でも、ニケヤ信経でも、「私たちは父なる神を信じます。子なるイエス・キリストを信じます。そして、聖霊である神を信じます」と、毎主日、また毎日の礼拝の中で私たちの信じるところを告白します。
父である神、その子であるイエス・キリスト、聖霊である神を信じているのですが、それでは、私たちが信じている神は、3つあるのかというと、そうではありません。神は一人、神は一つです。「唯一である神を信じる」というのが、私たちの正しい信仰告白の内容なのです。
3つの格を持つ一つの神を信じる、そのことが「三位一体の神を信じる」ということなのです。
「三位一体の神」という言葉は、聖書の中には直接出てきません。
初代教会において、教会の中で生まれてきた言葉です。なかなかひと口には説明できない難しい神の真理なのですが、しかし、「私たちは、三位一体の神を信じる」という信仰を堅く守ります。
「三位一体主日」という今日のこの主日は、私たちが、正しく神さまのことを理解し、正しく神を信じているかどうかという、私たち一人一人が自分の信仰の内容を吟味する時なのです。
2 ある体験
私が、牧師になって間もなくの、若いころの失敗談をいたします。
大阪の十三にある聖贖主教会で牧師をしていた時のことでした。
ある日の午後、「先生、キリスト教のお話を聞きたいといって、男の人が来てますけど‥‥‥」と、施設の事務所から牧師館に電話がありました。
教会の牧師室に来てもらって、向かい合って座りました。40歳半ばぐらいの人で、溶接工をしているということで、子どもが一人いるのですが、奥さんとは離婚したということでした。
身なりも言葉使いも、どこかくずれたところがあって、昼間から少し酒に酔っている様子でした。その人は大西さんと名のりました。
大西さんは、自分の生活のことなどいろいろ話をしていたのですが、突然、顔を上げて言いました。
「先生、わしをキリスト教にしとくんなはれ。」
「えっ」と、あまりに突然だったので、聞き直しました。
「わしをキリスト教の信者にしとくんなはれ。」
「わしは、たいていの宗教は、行きましたや。どこも同じようなことを言うてますが、あんまり効きめがおまへん。よう考えたらキリストだけはまだやってない。この前を通りかかったら十字架がみえましてん。いっぺんキリストやってみようと思いますねん。キリストにしとくんなはれ。」
しつこく頼みました。私は、その人の顔をしばらく見ていたのですが、こう言いました。
「いちばん最近、やってた宗教は何ですか。」
「学会だんねん」
「学会って、創価学会のことですか。」
「そうだんねん。あれは2年ほど前にやめましてん。」
「創価学会では、一生懸命、熱心に信心してはったんですか」
「始めは一生懸命やってましたんやけど、途中からいやになってやめましてん。」
「なんでですか。聞くところによると、創価学会では、朝晩、毎日、南無妙法蓮華経と、お題目を一生懸命唱えたらきっと救われると、教えているらしいですけど、あんた毎日、お題目を唱えて心から信心してはったんですか。一日に千回も二千回も唱えたらかならず救われると言うてはりますよ。あんたは、お勤めを毎日熱心にしたんですか。」
「してまへんね。」
「そら、あかんわ。創価学会でちゃんとできんかった人が、キリスト教に来ても、ものにならんわ。キリスト教は、創価学会よりも難しいし、きびしいんやで。そやから、もういっぺん創価学会に帰って、始めからやり直しなさいよ。そんなんではキリスト教にはなれませんよ」と、繰り返し問答しました。
その人は、しばらく黙ってうつむいていました。
また、突然顔を上げて言いました。
「やっぱり、キリストにしとくんなはれ。わしは、キリストになりまっさ。」
「あかん、あかん。創価学会へ帰ってもういっぺんやりなおし。」
「いや、キリストにしとくんなはれ。」
「あかんて言うてるのに、なんでそんなにキリスト教になりたいんや。」
「わしは、たいていの宗教へ行ってみた。どの宗教も、みんな、どうぞ、どうぞ、いうてやさしゅうしてくれる。そやけど、中へ入ってみると、がらっと変わるや。そやけど、ここの先生は、はじめから『あかん』て言わはった。こっちのほうが、ほんまもんと違うかと思う。そやから、やっぱりキリストになりまっさ」と言う。
とうとう根負けして、言いました。
「わかった。それやったら、教会に来てみなさい。だけど、条件がある。一つは、絶対に酒を飲んだらいかん。酒をやめられますか(その人が酒で失敗を繰り返していることを聞いていたから、そう言いました)。
それから毎週、日曜日、朝10時半に、礼拝に休まず出席すること。それから、木曜日の晩、7時から聖書研究会をしてますから、それに出席すること。これを守れますか。」
「わかりました。絶対に守ります」と言って帰って行きました。
次の日曜日から、毎週、日曜日、きちんと時間までに来て、礼拝堂のいちばん後ろに座って、渡された聖歌集や祈祷書を持って一緒に礼拝しています。
木曜日の聖書研究会にも、休まず出てきました。毎週10人ぐらいの信徒が出席し、一緒に聖書を読んで、話し合います。私が黒板を使って話をします。大西さんは、隅のほうに座って、黙って聞いています。お茶の時間にも、だいぶうち解けて、ぼちぼち他の人と話をするようになりました。
3ヶ月ぐらい続いたと思います。
ある木曜日、いつものように聖書研究会が終わって、他に何か質問はありませんかと、尋ねた時でした。今まで、黙って、一度も質問などしたことがなかった大西さんが、手を挙げて言いました。
「先生、キリスト教の神さんって、いったい何の神さんだんねん。」
そこにいた他の人たちはびっくりした顔をしています。
「わしは、毎週、日曜日の礼拝に出席して、この聖書研究会というもんにも休まんと出てきましたんやけど、キリスト教の神さんって、何の神さんか、さっぱりわかりへんねん。先生は、黒板使うて、なんじゃかんじゃ難しいこというてはるけど、もっとはっきり言うとくんなはれ。キリスト教の神さんって何の神さんだんねん。」
「わしも、たいていの神さんのことは知ってますねん。キリスト教の神さんは、お伊勢さんの神さんといっしょやとか、出雲の神さんといっしょやとか、住吉さんの神さんといっしょやと、ひとこと言うてくれたら、あーそうだっかと、ぴーんとわかりまんねん。キリストの神さんって、何の神さんといっしょだんねん。」
この質問には、一同びっくりしました。私は、またまた黒板など使いながらキリスト教の神について、説明したのでしょうが、何をどう説明したのか覚えていません。
三位一体の神を信じると言ったのかもしれません。しかし、大西さんを失望させたことはたしかです。大西さんは、二度と教会に、姿をあらわしませんでした。一生懸命救いを求め、教会の門をたたいた一人の人をつまずかせてしまった、牧師として、忘れられない若いころの失敗談です。
3 私たちが信じる神
キリスト教の神とは、どんな神さまか。どのような神を私たちは信じているのか。世に無数の宗教があります。それらの他宗教が掲げる神と、キリスト教の神は、どこがどのように違うのでしょうか。
あの時、大西さんに何と答えればよかったのでしょうか。今だったら何と答えるでしょうか。
「神」という言葉は、旧約聖書では、「エル」、「アドナイ」、「ヤーウェ」とかいう言葉が使われています。新約聖書では、「セオス」、ラテン語では「デウス」、英語では「ゴッド」と、さまざまな言葉で呼ばれ、さまざまな用いられ方をしています。
1549年に、ポルトガル人であるフランシスコ・ザビエルによって、始めてキリスト教が日本に伝えられたのですが、このザビエルがラオスで始めて会った日本人がアンジロウという鹿児島出身の人でした。
アンジロウは、ザビエルに日本語を教え、聖書の要約らしいものを始めて書いたと言います。聖書を日本語で紹介する時に、日本に居る時にはアンジロウは真言宗でしたから真言宗の言葉を多く当てはめて訳したと言われます。ラテン語の「デウス」を大日如来から「ダイニチ」と訳しました。日本にやって来たザビエルは、「ダイニチを拝みましょう」「ディニチをおがみあれ」と言って布教したといわれます。その後、「天主」と呼ばれました。
長い鎖国時代が過ぎ、再び日本にキリスト教が伝えられた時、やはりこのセオス、ゴッドという言葉を日本語でどのように表すかということが大きな問題になりました。1837年、日本語で最初に聖書を翻訳されたのはギュツラフの「約翰福音之伝」と言われていますが、そこには、「カミ」にあたる言葉は「ゴクラク」と訳されていました。1850年頃、日本に宣教活動を繰り広げた各国から来たプロテスタント宣教師は、そのことを決めるのにたいへんな時間を費やしています。
最後に、「神」と「上帝」と、そしてカトリック教会が使っている「天主」という言葉が残りました。次々と聖書の日本語訳が出され、さらに中国での聖書翻訳の影響などを受け、「神」という言葉が定着していきました。日本語の「神」は、霊とか魂という意味が強く、創造主、全知全能の神というニュアンスには合わなかったので、最初は敬遠されたと言います。愛を「お大切」、パンを「餅」、無花果を「柿」と訳されていました。
このように考えますと、神という言葉は、日本人が神社仏閣で、また民間信仰の中で、古来から使ってきている言葉を、キリスト教が使っているわけですから、お伊勢さんや出雲の神さんや住吉の神さんと混同されても仕方がありません。
それよりも、大きな問題は、私たちが、天地を創造し、宇宙を支配し、生命を支配し、全能である方、目に見えない神を、私たちの自分の力で、頭で捕らえようとする、理解しようとしていることです。
そうすると、どうしても、過去において仕入れた知識や経験に基づいて、それに当てはまるものだけを、わかった、わかったといい、神のことは全部わかっている思っているわけですから、人がそれぞれ生きてきた背景によって、違ってくるのも当然だと言えます。
4 真理に導く聖霊
イエスさまは、ご自分に迫ってくる十字架の死を間近に感じながら、弟子たちに最後の「訣別の説教」「お別れの説教」をされました(ヨハネ14:1〜31、15:1〜16:33)。
今日の福音書ヨハネ16:12〜15は、その中の一部です。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」
「その方」というのは、聖霊です。イエスさまは、ご自分がこの世を去り、あなた方には見えなくなるが、その時には、父である神、子であるイエス・キリストから出る「聖霊」が、あなた方の所に来てくださり、あなた方を導いてくださる。聖霊があなたがたを導いて真理をことごとく悟らせてくださると、言われるのです。
聖霊は、神が、イエス・キリストを通してご自分の意志、み心を表された、そのことに何かをつけ加えるのではなく、主イエスの栄光の意味を解き明かしてくださると言われます。
私たちは、イエス・キリストの生きざま、イエス・キリストの死にざま、イエス・キリストを見て、イエス・キリストを、神さまが私たちの送ってくださった御子として信じることによって、はじめて神を知ることができます。そのことを後押ししてくださるのが聖霊です。
私たちは、神さまを信じます。しかし、はたして、その信仰の内容は、聖書が求めていることにかなっているでしょうか。
自分の思い込みで、我流の考え方で、それが、神だと思い込んでいないでしょうか。そうだとすると、偶像礼拝になってしまっていることになります。
同じように、「神さま、神さま」と、お祈りしていますが、いつのまにか、お祈りしている対象が、お伊勢さんや出雲の神さんや住吉の神さんと同じになっていないでしょうか。私たちがお祈りしている神さまは、神々の神ではありません。唯一の神、主イエス・キリストが指し示して下さった、父である神さまなのです。そこにきちんとピントが合っているでしょうか。
私たち一人一人に、聖霊が働いてくださり、キリストの真理に導いてくださいますように、私たちの目が開かれますように、真剣に祈りたいと思います。
今日は、「三位一体主日」です。私たち自身の信仰の姿を謙虚に振り返り、聖霊の導きを祈る日です。
〔2007年6月3日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日 聖ルシヤ教会〕