啓示によって知らされたのです。

2010年06月06日
ガラテヤの信徒への手紙1章11節〜24節  「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(12節)  本日の使徒書から学びたいと思います。  「ガラテヤの信徒の手紙」は、パウロが、ガラテヤ地方の教会の信徒に宛てて書いた手紙です。ガラテヤ地方というのは、現在のトルコのアンカラに近い所だったと思われます。  パウロは、3回に渡って、地中海沿岸の街や村を巡って伝道旅行をしました。使徒言行録によりますと、西暦46年頃、最初の伝道旅行で、ガラテヤ地方のデルベという所まで出かけて行き、第2回目、第3回目の伝道旅行でも、デルベ、リストラといったガリラヤ地方の町で伝道活動をしています。  パウロは、始めてガラテヤ地方に福音の種を播いたのですが、当時、その地方にはすでにユダヤ人が多く移住していて、このユダヤ人との間でいろいろな問題が生じていました。  パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒でした。パウロは、自分でこのように言っています。 「あなたがたは、わたしが、かつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と。(ガラテヤ1:13-14)  パウロは、小さい時から伝統的なユダヤ教の教育を受け、律法を守り、先祖からの言い伝えを守ることには熱心でした。それだけではなく、青年になると、その当時起こったキリストの集団、教会に対して徹底的に迫害する者であり、その熱心さにおいては、同じ年ごろの誰よりもユダヤ教に徹しようとしていました。  ところが、そのパウロが、ある時、突然、神さまからの「啓示」を受けたのです。「啓示」とは、「人の力では知ることができないことを神さまが教え示してくださる」ということです。ある時、パウロは、不思議な宗教体験をしたのです。  西暦37年頃のことでした、パウロは、青年の頃は、サウロと呼ばれていたのですが、サウロは、キリストの弟子たちを捕らえ、殺そうと、エルサレムの大祭司から許可を受けて、クリスチャンを見つけ出すと、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行しようとダマスコという街に向かっていました(ダマスコは、エルサレムから直線距離で約240キロほど北に行ったシリア地方の街でした)。  サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が差して、サウロの周りを照らしました。パウロは、ばったりと地に倒れました。その時、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声が聞こえました。 サウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」という声が聞こえました。 一緒に旅をしていた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていました。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えませんでした。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行きました。 サウロは3日間、目が見えず、食べることも飲むこともしません。  ところで、ダマスコに、アナニアという信仰深い人が住んでいました。  このアナニアに神さまの幻が現れて、「アナニア」と呼びかけました。  アナニアは、「主よ、ここにおります」と答えると、主は言われました。  「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。そのサウロの頭に手を置くと、サウロの目が元どおり 見えるようになる。」  しかし、アナニアは、幻の中で答えました。  「主よ、わたしは、そのサウロという男は、エルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんなひどいことをしたか、大勢の人から聞いています。このダマスコでも、あなたの御名を呼び求める人たちを、すべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けきているのです。」    すると、幻の中の主は言われました。  「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」  そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの頭に手を置いて言いました。  「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおりに目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」  すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになりました。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻しました。(使徒言行録9:1-19)  誰よりも熱心で、クリスチャンを捕まえては殺そうとしていたユダヤ教徒が、一夜のうちに、回心して、誰よりも熱心なキリスト教徒となり、キリストの使徒になりました。  ユダヤ人の間で、とくに教会の中では、このサウロと呼ばれていたパウロは、なかなか信用されず、命を狙われることさえありました。その後、サウロはエルサレムに帰り、弟子たちの仲間に加わろうしましたが、そこでも恐れられるばかりで、クリスチャンになったことは信じてもらえませんでした。  サウロは、バルバナに出会い、バルナバの紹介で、使徒たちに出会い、自由に行き来ができるようになりましたが、それでも教会には受け入れてもらえず、地中海岸のタルソスで息をひそめていました。バルナバはタルソスへ行ってサウロを見つけ出し、アンティオキアに連れていき、そこの教会で丸1年一緒に過ごして、そこではじめてキリスト者として迎えられるようになりました。  かつて、アナニアが見た幻の中で、神の声がアナニアに、 「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」と言われたように、パウロは、異邦人伝道に向かって進んで行くことになりました。  さて、パウロの回心の物語を語りましたが、パウロの信仰の原点には、つねに、この信仰体験があります。イエスさまが自分に現れて下さり、自分を生まれかわらせて下さったのだと信じています。  ガラテヤ地方の教会の信徒あての手紙に、「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(11-12節)とは、このことを言っています。     新約聖書は27巻の書物が集められています。この27巻の中、「ローマの信徒への手紙」から「フィレモンへの手紙」まで13巻は、パウロが書いたものです。  ここには、パウロの信仰を通して、キリスト教の教えの神髄、教理が展開されています。  パウロが言う「福音」とは、イエス・キリストのことを指しています。神の子イエスが、この世に来られたということです。  神の子イエスが、十字架にかけられ、死んでよみがえられたということです。そして、そのことによって、私たちが罪の鎖でがんじがらめになっている状態から、私たちを解放してくださったのだということです。私たちは、このキリストの恵みに招かれているのだということです。このことが、「福音」なのです。     ガラテヤ地方の教会に、この福音が伝えられました。キリストの恵みに招かれました。ひとたびは、人々はこれを受け入れたのです。  しかし、この地方に住むユダヤ人クリスチャンは、ユダヤ教の柵(しがらみ)からは出ることができません。律法を学び、律法や古い言い伝えを守ることが救われることだと、クリスチャンになってもその考えから出られないでいるのです。割礼を受けているかどうかということで、なお差別されていました。  律法は人間の手によって書かれたものです。律法や古いしきたりは、人から人へと伝えられたものです。それは、「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」と、人の生き方を縛りつけているだけです。ガラテヤの人たちが、一度は受け入れたキリストの恵みを離れてしまって、また「律法」の囲いの中に乗り換えようとしています。  パウロは自分の体験を通して、律法から福音へ、強制からほんとうの自由へ、そして、イエス・キリストへの信仰によってのみ救われるのだということを手紙の中で訴えています。  さて、私たちはどうでしょうか。パウロの時代のような、ユダヤ人のような律法やしきたりはないかもしれません。律法主義者でもありません。  しかし、「主よ、主よ」と言いながら、教会の習慣や、伝統にのみ縛られ、教会のムードを保つことが、それがキリスト教だと思い込んでいることはないでしょうか。  私たちは、ともすると、自分の思い込みがいちばん正しいと思っていることがあります。そのために、思い込みと思い込みが衝突し、人間関係が壊れてしまったりします。  パウロが、「わたしの信仰は、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と言うように、私たちもイエスさまから、イエス・キリストの恵みに直接招かれているのですと確信をもって言えるような信仰を持ちたいと思います。  祈りましょう。  あなたを愛する者のために、人の思いに過ぎた良い賜物を備えてくださる神よ、どうかわたしたちに何ものよりもあなたを愛する心を得させ、わたしたちの望みうるすべてにまさる約束のものを与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン       〔2010年6月6日 聖霊降臨後第2主日(C-5) 高田キリスト教会〕