「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
2010年06月20日
ルカ9:18〜24
1 イエスはだれ? ヘロデの問いとイエスの問い
聖書のとくに新約聖書のいちばん大きなテーマは、「イエスさまという方は、何者か」ということにあります。
聖書は、物語や教訓や手紙など、いろいろな形で書かれていますが、その全体を通して一貫しているテーマは、イエスさまという方はどんな方で、わたしたちはこの方とどのように関わるか、どのような関係にあるべきかということが繰り返し記されています。
私たちが聖書を読むとき、単に良いことが書いてあるとか、人生の教訓を読むということだけではなく、聖書が指さしている、このことがいちばん大切だと言っていることを、先ず、しっかり受け取っていなければ、聖書をほんとうに読んでいることにはなりません。
今日の福音書は、ルカ福音書9章8節から24節ですが、同じ9章の7節から9節には次のような個所があります。
「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返ったのだ』と言う人もいれば、『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は』。そして、イエスに会ってみたいと思った。」
当時、ガリラヤ地方を治めていた領主は、ヘロデ・アンティパスといい、後にイエスさまから「あの狐」と呼ばれたずる賢い、王でした。この王が、兄、ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤと通じて結婚したために、バプテスマのヨハネは、そのようなことは許されないと、非難し、抗議しました。そのため、ヨハネはヘロデ・アンティパスに捕えられ、牢獄に入れられてしまいました。さらにヘロデヤの策略によって、ヨハネの首をはねられ殺されるという出来事がありました。(ルカ3:19-20、マルコ6:14-29)
このヘロデ・アンティパス王が、ナザレ出身のイエスという男の噂を聞いて戸惑いました。
その噂というのは、イエスは、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいました。さらに、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人たちがいたからでした。
ヘロデ・アンティパスは、その地方で絶大な権力を持っていて、そして、横暴で狡猾で残忍な王でしたが、自分以外の者に従い、大勢の人々がその人物の所に集まっているという噂を聞いて、心穏やかではありません。ましてや、自分が殺させたバプテスマのヨハネの生き返りなどと聞かされると、ただ事ではありません。不安と恐れとそして好奇心に満ちて、思わずつぶやきます。
「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主とは」と。
さて、一方、イエスさまの方ですが、ある時、イエスさまは顔を上げて弟子たちにお尋ねになりました。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。
弟子たちは答えました。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『預言者エリヤだ』と言う人もいます。『だれかわかりませんが昔の預言者の一人が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
イエスさまは、さらに尋ねられました。
「それでは訊くが、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
すると、弟子たちを代表してペトロが答えました。
「神からのメシアです。」
ヘロデ・アンティパスが聞いた噂と、イエスさまが弟子たちから聞いた人々の噂とは、全く同じものでした。しかし、ヘロデはこれに戸惑い、不安を感じ、恐れを感じ、そして、好奇心だけで、その人物に会ってみたいと思いました。
一方、イエスさまは、人々から受ける人気や評判を気にして、弟子たちに尋ねられたのではありません。ご自分が人々の間で、正しく受け取られているかどうかを気にしておられることがわかります。イエスさまが、弟子たちからこのような噂を聞いた時、さらに進んで「神からのメシアです」というペトロの信仰告白を引き出しておられます。
2 ピントが合った答え「神のメシヤです。」
人々のイエスさまへの噂は、「バプテスマのヨハネです」「預言者エリヤです」
「預言者の中の誰かの生き返りです」というもので、それは、「イエスとは何者か」という問いに対する答えとしては、漠然とした答えでした。ピントがずれています。
日頃のイエスさまの教えや行い、すなわち、多くの病気の人をいやし、嵐を静め、悪霊を追い出し、罪を赦し、5千人の人たちにパンと魚を与えるというような数々の奇跡、これを見たり聞いたりした人々は、この方は普通の人ではないということはわかります。
そこで、自分たちの民族の歴史の中に出てくる預言者たちの名を上げ、その再来だとか生まれ変わりだと考えました。今まで教えられた知識や自分たちの経験の範囲の中で、いわば、実在した過去の人物に置き換えて、イエスさまのことを知ろうとしました。
しかし、イエスさまという方は、過去の歴史の中のどのような人物にも当てはまりません。アブラハムも、モーセも、ダビデも、どの預言者たちにも当てはまらない方でした。
ペトロは、そのことをとらえ、しっかりと答えました。
「神からのメシアです」と。
「メシヤ」とは、「油注がれた者」という意味です。ユダヤの族長や王や祭司長が就任する時、「頭に油を注ぐ」という儀式が行われていました。そのことから、「油注がれた者」とは、民族を救う者、ほんとうの指導者、権威を持つ者を意味するようになりました。さらに後の預言者たちは、救世主、救い主の到来を待ち望み、これをメシヤと呼び、その方の来られることを預言していました。
「あなたは神からのメシヤです」。それは、「あなたこそ神の子です」「あなたこそキリストです」「あなたこそすべての人が待ち望んでいる救い主です」という意味です。ピントがずれて、周辺をぼんやり照らしていた光が、真ん中にピタッと焦点が合い、明るく照らし出された瞬間とも言い得る答えでした。イエスさまの問いに、ペトロは、真っ直ぐに答えました。
マタイ福音書16章16節では、並行して記されている個所があります。 ペトロが「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えると、イエスは、「シモン・ベルヨナ、あなたは幸いだ」と言い、このペトロの答えをおほめになりました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。そして、さらに「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。わたしはあなたに天国の鍵を授ける」と言われました。ペトロがした正しい答えを、百点満点の答えだと褒め、その信仰告白の上に教会を建てる、天国の鍵を授けると、教会の将来を予定される言葉を述べられました。
3 ペトロの信仰告白とその後の生き方
ペトロの答えは、イエスさまから褒められる百点満点の信仰告白だったのですから、「イエスさまは、何者か」という問いに、私たちの答えも「あなたは神からのメシヤです」、「あなたこそ神の子です」、「あなたこそキリストです」「あなたこそすべての人が待ち望んでいる救い主です」と答えるそのような信仰が求められます。
しかし、このような立派な信仰告白をしたペトロですが、その後、どのような生き方をしたでしょうか。その他の弟子たちはどのような態度を取ったでしょうか。
ペトロは、素朴な誠実な人でした。イエスさまを心から信頼し、イエスさまに従いました。しかし、一方では、人間的な弱さを持っていた人であったこともうかがえます。
マタイ福音書(16:21-23)によりますと、あなたは「メシヤ、生ける神の子です」と信仰告白をした直後、
イエスさまは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちに捕らえられ、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められました。
すると、ペトロはイエスさまをわきへお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と。イエスさまはペトロに言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者だ。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
また、イエスさまが捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれた時、ペトロは、人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって遠くからイエスさまを見守っていました。
するとある女中が、ペトロをじっと見つめて、「この人もあのナザレの男と一緒にいた」と言いました。ペトロは、あわててそれを打ち消し、「わたしはあんな人を知らない」と言いました。
少したってから、ほかの人もペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言いました。
また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張りました。しかし、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言いました。
言い終わらないうちに、鶏が鳴きました。イエスさまは振り向いてペトロを見つめられました。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスさまの言葉を思い出し、外に出て、泣き崩れました。(ルカ22:54-62)
これが、ペトロと肉体のイエスさまとの最後の別れでした。
「あなたが捕らえられるようなことがあれば、私も牢に入ります。あなたが死ぬようなことがありれば、私も死にます」と言ったペトロは、舌の根も乾かぬ間に、「あんな人は知らない」「関係ない」と、わが身に災難が降りかかるのを恐れて、イエスさまを否定しました。
日頃、いい格好をし、強いことを言っていても、いざ、自分の上に何かが降りかかってきそうになると、「知らない」「関係ない」と一目散に逃げてしまいます。ペトロもまた、私たちと変わらない弱さを持っていました。
イエスさまが十字架に懸けられ、苦しみもだえている時、ペテロと弟子たちは、なすすべもなく遠くから見つめているだけでした。
しかし、この弟子たちが変わったのです。生まれ変わりました。
それは、主イエスが、よみがえられたという知らせを聞いて、驚いて墓まで走って行き、空っぽの墓を見た時からです。そして、復活された主イエスにたびたびお会いし、「聖霊を受けよ」と言って、彼らは聖霊経験をした、そのことによって、命がけで主イエスに従う者になったのです。ガリラヤ湖のほとりで漁をしていた漁師であったペトロが、イエスさまに出会い、「わたしに従いなさい」と言われて、何もかも捨ててイエスさまに従いました。これを、ペトロの第一の召命、イエスさまとの出会いだとしますと、復活された主にお会いし、聖霊によって押し出されたのは、第二の召命、第二のイエスさまとの出会いとなりました。
今日の福音書の最後の個所(ルカ9:23,24)の言葉、
「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
弟子たちは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、主イエスに従う者となりました。主イエスのために自分の命を失うことによって、ほんとうに救われる者となりました。
〔2010年6月20日 聖霊降臨後第4主日(C-7) 岸和田復活教会〕