イエスの焼き印

2010年07月04日
ガラテヤの信徒への手紙 6:14〜18 �機.�リスチャンであることの印し  私たちに、クリスチャンであることのしるしが、どこかについていたら、どうでしょうか。クリスチャンは、額の真ん中に十字架のしるしをつけることとか、首から「私はクリスチャンです」と書いたプラカードをぶら下げなければならないとか、一目でクリスチャンであることが分かるようなしるしを付けなければならないと、強制されたらどうでしょうか。  世の中の人は、クリスチャンとは、こんな人たちだというある種の思い込みを持ってくれています。クリスチャンとは、いつも優しいくてニコニコしている、親切、行儀が良くて、質素で、正直で、大声を出したり、バカ笑いしない、誰にも好かれて上品で‥‥と、まるでクリスチャンみたい人と言われるようなイメージを持って見ている人たちがいます。  そのご期待に添えず、反対のこと、その逆なことを人の前に出すと、クリスチャンのくせに、とか、へーっ、クリスチャンとは思えないとか言って、厳しく非難されます。  私が、神学校を出て、しばらくして、執事になった時、初めて黒い背広にカラーをして、いわゆる聖職者の格好をして、阪急電車に乗った時のことを思い出します。電車の中の人、全員が私のことを見ているような気がするのです。高校生ぐらいの女の子が「神父さんや」と指をさしてささやいているような気がするのです。席が空いていても、座れない。座っていても、「どうぞ、どうぞ」と言ってすぐに立ってしまいます。歩いていても、座っていても、立っていても、人の視線が気になった時期がありました。  幼稚園の仕事をしていたので、銀行へ行って、お金の出し入れをするのですが、ロビーの椅子に座っていても、お金のことに関わっていることが悪いことをしているような気がして、カラーをして銀行に行くのが嫌でした。  馴れるとどうということはないのですが、自分がクリスチャンであること、聖職者であることを人前にさらして生きることは、窮屈であった時期がありました。    教会や家ではクリスチャンですが、一般社会では、すなわち職場や学校や、隣り近所のつき合いなどでは、宗教や信仰などといったことは話さないようにして、クリスチャンであることを隠して生活しているという人がよくあります。クリスチャンの匿名性と言います。その方が気楽ですし、人の目や噂を気にしなくてもいいからです。自発的隠れキリシタンをやっているような気がします。 �供―住�架のネックレス  私には、十字架のネックレスというものができません。この頃、繁華街を歩いていましても、若い人々で、男性でも女性でも、大きな十字架のネックレスをして歩いている人がよく目につきます。あの人たちはは、クリスチャンなのだろうかと思ってよく見るのですが、どうもそうではないようです。単なるアクセサリーで、その日の好みで着けているのだと思います。明らかに牧師だとわかる格好をして、見つめても、別に恥ずかしそうにする気配もありません。  十字架のネックレスぐらい、別に、クリスチャンの専売特許でもありませんし、その人の自由なのですが、しかし、私には気になります。私たちには、十字架というしるしや形に、特別の意味を感じているからです。2本の木が、十字になって重なっているだけですが、「あっ、十字架だ」と思うと、不用意にでもこれを跨いだり、蹴飛ばしたり、踏みつけたりすることはできません。ただ2本の木を組み合わさった木というだけではなく、「イエスさまの十字架」という、命にかかわるような特別の意味を、私たちは持っているからです。 �掘.ぅ┘垢両討�印  さて、今日の使徒書ですが、ガラテヤの信徒への手紙6章17節、ガラテヤの手紙の最後の結びの言葉に、パウロは、このように言っています。  「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」 「焼き印」とは、ギリシャ語で、「スティグマタ」と言います。英語で stigma は、聖痕、十字架の傷痕、さらにそこから汚名、恥辱、不名誉という意味があります。イエスさまの時代には、奴隷制度がありました。戦争に負けた民族や国の民は捕虜とされ、奴隷として働かせられました。また、奴隷の売買もされていました。奴隷が逃げ出したり、奪われたりしないように、その奴隷が、主人の所有物であることを表すしるしとして、焼き印を押したり、入れ墨を入れたりされていました。  パウロは、「わたしは、目に見えないイエス・キリストの焼き印をこの体に負っているのです」と言います。それは、わたしはイエス・キリストの奴隷です。わたしの所有者は、イエスさまですと言っています。  この言葉の裏側には、ガラテヤの教会の信徒にどうしてもわかってもらいたいことがあったのです。  パウロは、ガラテヤ地方に住むユダヤ人、ギリシャ人にキリストの福音を宣べ伝えました。ユダヤ人たちは、遠くイスラエルから離れて、ギリシャを始め、各地に住んでいました。パウロは、まず、ガラテヤに住むユダヤ人の所に行き、ユダヤ教の会堂で宣教を始め、ユダヤ人に福音の種を播きました。そして、さらに、ギリシャ人にもキリストの福音を説き、多くの人たちが洗礼を受け、クリスチャンになりました。  しかし、ユダヤ教徒であったユダヤ人クリスチャンは、イエス・キリストを受け入れたのですが、なかなか律法主義、ユダヤの古い掟や習慣から抜け出すことができず、ギリシャ人クリスチャンに対して割礼(ユダヤ教の儀式)を受けることを求め、ガラテヤの教会の中で対立が起こっていました。「福音のユダヤ化主義者」と言われます。  パウロは、そのガラテヤの教会の信徒に、この手紙を書き送り、切々と訴えました。あなたがたは、キリストの福音を、もう一度ユダヤ教化しようとしている。あなたがたは、昔の律法主義の教えに苦しめられ、律法の奴隷だったのではないか、それが、イエス・キリストの十字架によって、解放され、自由の身になった、あのイエス・キリストを受けいれることによって救われたのではなかったのか。それが、わたしがガラテヤを離れると、また、律法のしがらみの中に戻ろうとしていると叱っています。  14節に戻りますと、  「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」  律法を守ることが出来るか、出来ないか、良い行いを積んで、人に良く見せることが、大切なのか。人が救われるのは、良い行いによってではなく、イエス・キリストの十字架によって、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる、義とされるのです。わたしたちは、キリストの刻印を、目に見えない焼き印を負っているイエスさまの奴隷になったのですと言います。 �検〇笋燭舛旅鎔�  さて、私たちも、イエス・キリストの刻印を押されたキリストの僕です。  洗礼を受けた時のことを思いだしてください。(幼児洗礼を受けた人もおられると思いますが)  司式者は、「父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と言って、洗礼を受ける人の頭に水をかけます。  そして、司式者は、洗礼を受ける人の額に十字架の形を記して言います。  「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪お力に向かって戦うことを表します。」 そして、会衆は、みんなで、「アーメン」と唱えます。(日本聖公会祈祷書281頁) わたしは、文語の祈祷書で洗礼を受けたという方に、文語の言葉でもご紹介します。司式者は、受洗者の額に十字架の形を記しながら、  「我、この人(幼な子)をキリストの群れにに受け、その額に十字架の形をしるす(ここで額に十字架の形をしるす)。このしるしは、キリストの十字架を恥とせず、生涯キリストのしもべとなり、また忠義なる兵卒となり、その旗もとにありて、勇ましく罪と世と悪魔とに向かいて戦うことを表すものなり アーメン」(文語祈祷書408頁)    この時に、目に見えない十字架の刻印を、キリストの焼き印を額の真ん中に記されたです。消えることのない焼き印を負わされたのです。昔から、礼拝中や自分の祈りの中で、十字を切る人がいます。十字を切る習慣の始めは、洗礼の時に受けた額の十字架を忘れることなく、いつも動作に表して覚えるようにということだったと聞いたことがあります。  わたしたちの額にしるされた十字架は、アクセサリーではありません。その日の気分で着けたり外したりできる十字架のアクセサリーではありません。  私たちが体に押されている「イエスの焼き印」は、目には見えません。  しかし、聖パウロと同じように、  「わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものはありません。この十字架によって、新しく創造されたのです。生まれ変わったのです。何が大切か、何が大切でないのか、この世の価値観に戻ってしまうようなことがないように、わたしたちは、キリストに生きるのです。わたしたちは、一人ひとり、イエスの焼き印を身に受けているのです。」  街を歩く時も、電車に乗っている時も、職場でも、家庭でも、近所つきあいの中でも、そして、教会の中でも、「イエスの焼き印」が「キリストの十字架の刻印」が、わたしたちの額にくっきりと焼き付いていることを忘れない生涯を全うしたいと思います。  お祈りしましょう。  「天の父よ、わたしたちは、洗礼によってみ子イエス・キリストに結び合わされ、罪に死に、神に生きる新しい命を与えられました。 どうか、わたしたちが洗礼の時、額に受けた十字架のしるしを忘れることなく、主の忠実な僕として、ますますみ心にかなう者となりますようにお導きください。また、さらに信仰の業を励み、み名を証することができますように、み子イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」       〔2010年7月4日 聖霊降臨後第6主日(C-9) 高田基督教会〕