「主の祈り」が自分の祈りになるために

2010年07月25日
ルカ11:1〜13 1 主の祈りの暗唱  今日の福音書、ルカ福音書11章1節から、ご一緒に学びたいと思います。私たちがよく知っている「主の祈り」について、ちょっと立ち止まって、考えてみたいと思います。  私は、最近、ここの「双葉幼稚園」に、時々、伺い、幼稚園の雑用をお手伝いさせて頂いています。子どもたちの「おれいはい」に出席して、一緒に礼拝をするのですが、驚いたことに、今年4月に入園した3歳児が、みんなで声をそろえて「主の祈り」を唱えるのです。先生が、「主の祈りをご一緒に唱えましょう」と言って、「天におられる私たちの父よ」と唱え始めますと、大きな声で、「み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり地にも行われますように‥‥‥」と、元気いっぱいの声を出して、合唱するように唱えます。4歳児、5歳児となると、ほんとうに、喜んで、大きな声を張り上げています。  3歳、4歳、5歳では、お祈りの意味は、たぶん分からないと思うのですが、「三つ子の魂、百まで」と申しますが、この年令の時に覚えたもの、刷り込まれた知識、神さまへの思いは、大きくなってから、年をとってからでも、どこかで思いだしていただけるのではないかと思いますし、すばらしいことだと思っています。  さて、私たち大人は、どうでしょうか。私たちは「主の祈り」とどのように関わっているでしょうか。どのような思いで、主の祈りを唱えているでしょうか。 2 主の祈りの意味  さて、この「主の祈り」ですが、聖書では、マタイの福音書とルカの福音書に記されています。マタイ5章9節〜13節では、山上の説教と呼ばれ、イエスさまが、山の上で多くの群衆に向かって教えられた時、「祈るときは、このように祈りなさい」と言って語られた中にあります。  一方、ルカ福音書では、今日の福音書の個所にありますように、イエスさまが、ある所で祈っておられ、その祈りが終わった時に、弟子の一人がイエスさまに、「主よ、(バプテスマの)ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも、どのように祈ればよいのかを教えてください」と言いました。それに応えて、イエスさまが、「祈るときには、このように言いなさい」と言って教えられた「祈り」が記されています。 このように場面は異なりますが、イエスさまが語られた言葉には違いはありません。その言葉が、伝えられていくうちに2つの版ができたのであろうと言われています。    この「主の祈り」と呼ばれるお祈りは、短いお祈りで、その内容は、5つの大きな柱からなっています。  第1は、「天におられるわたしたちの父よ、」という、神さまに対する「呼びかけ」の言葉です。神さまに対して「父よ、お父さん」と呼びかけなさいと言われます。神さまに向かって、ほんとうに「お父さん、父よ」呼びかけることができるのは、イエスさまだけです。  ルカ10章22節に、  「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」と喜びにあふれて語っておられます。  神さまに、「父よ」と呼びかけることができるのは、神の子であるイエスさまの特権です。そして、イエスさまは、私たちのために十字架に架けられ、その命をもって、私たちの罪を贖ってくださいました。そのことによって、イエスさまを信じ、イエスさまを受け入れた私たちにも、「子」となることがゆるされたのです。  私たちはイエスさまと同じように、お祈りの初めに「私たちの父よ」と言って、神さまに親しく呼びかけることができる者にされているのです。だからまず「天におられる私たちの父よ」と呼びかけなさいと言われます。  第2に、「み名が聖とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり地にも行われますように」と、お願います。  「み名」とは、神の名前です。「名は体を表す」と言います。名は、そのものの実態を表します。私につけられた名は、その名を呼ばれる時、私のすべて、私の正体を表しています。  聖とされますようにの「聖」とは、けがれがない、清らかで尊いさまを言いますが、私たちが住む、日常的な世界のことを「俗」と呼ぶ時、その俗とはっきり区別された向こう側の世界が「聖」なる領域です。神の側に属するものという意味で、聖人とか聖書とかいう言葉を使います。  神さまの実体が、俗なものと切り離され、神が神として崇められますようにと、第一に願います。 「み国が来ますように」の「み国」とは、神の国、神の王国です。神の国の支配者、統治者は、神さまです。神が絶対の権限をもって支配される国です。神が支配されるこの宇宙が、何ものにも妨害されずに、神さまの力によってのみ支配されますように、宇宙の隅々まで、世界の隅々まで、神さまの支配が行き渡りますように、そのような神の国の到来を待ち望みます。 「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」とは、私たちが住む、この世では、私たちの罪が、神さまにみ心を見えなくし、神さまのみ心に背き、神さまがなさろうとすることを妨げています。神さまの意志に反して、自分が神のようになり、神さまを無視して、人間の思いが通ることを願っています。  「神さまのみ心が、この地上においても徹底して行われますように」と祈ります。  この「み名が聖とされますように」、「み国が来ますように」、「み心が行われますように」という3つの祈りは、同じ一つのことを祈っています。神さまが神さまであることができますように、神さまを引きづりおろして、神さまを無視したり、背いたり、神さまのみ心を妨害することがありませんように」と祈ります。  第3は、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ります。「わたしの」ではありません。「わたしたち」、それは、世界中のすべての人々を表します。世界中の人々が、今日一日の食べるものを与えられますようにと祈ります。わたしだけが、誰よりも美味しいものを沢山食べて、蓄えて、きれいな服を着て、立派な家に住んでという、自己中心、利己主義、欲望のみを満足させようとする生活を戒めています。 「地球上のすべての人々に、一日分の食べ物を、今日も与えてください」と祈りなさいと、イエスさまは教えられます。  第4は、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈りなさいと言われます。  私たちが覚えている「主の祈り」では、「罪」となっていますが、  マタイ6:12では、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように」となっています。 「負い目」とは、負債のことを言います。神さまに対する負債、負い目とは、「神に対して犯している罪」を言います。神さまの前に積み上げられる罪は、毎日の生活の中で貯まっていくゴミのように、どんどん積み上がっていきます。しかし、神さまの前に積み上がった莫大な量の自分の負債については、忘れてしまって、身近な人間関係の中で起こった隣人の負い目はゆるせないと言い続けています。これに対して、イエスさまは、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と祈りなさいと教えられます。  第5は、最後の願いは、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と祈りなさいと教えられます。  このお祈りの言葉からは、あの創世記の最初、創造物語にあります「アダムとイヴの物語」を思い出します。  神さまは、食べてもよい果実と食べてはならない果実をちゃんと教えて、そして手の届くところに果実を置いて、自分の意志で選ぶことができる自由を人間にお与えになりました。ヘビこそ、誘惑する者、そそのかす者、悪魔の働きをしました。イヴは、ヘビにそそのかされて、取って食べてはならないほうの木の実を食べました。そして、イヴは、アダムを誘って同じように食べてはならない木の実を食べさせました。  古代の人々は、神さまと人間の関係を、このような「神話物語」で描きました。人間とは、こんなものですよ。人間の本質というか、人間の遺伝子の中に脈々と受け継がれている性質がありますよと、見事に見抜いています。  神さまのみ心に背く、神さまの命令に従うことができない、その原因に、誘惑に陥る私たちの姿があります。頭では、分かっているのです。しかし、誘惑に負けて、神さまのみ心に背いてしまいます。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と、いつも祈りなさいと教えられます。 3 祈りにに対する確信  さて、主の祈りの意味と内容を大急ぎで見てきましたが、イエスさまが、私たちに、このように祈りなさいと教えられたこの「主の祈り」と、私たちがそれぞれ自分でしているお祈りとを比べてみますと、いかがでしょうか。  私たちのお祈りは、あれをして下さい、これをして下さいと、神さまに対する要求ばかり、お願いごとばかりになっていないでしょうか。主の祈りの内容は、神さま中心で、神さまの御心にかなうことが、先ず第一に祈るべきであると言っておられることに気がつきます。それに対して、私たちのお祈りは、自分中心で、先ず第一に、願いごとがあり、感謝や賛美を神さまに申し上げても、その内容は、私たちの側の都合からくる感謝であったり、賛美であったりします。神さまの思いに、み心に思いを馳せながらお祈りしたことがあるでしょうか。  それでも、イエスさまは、おっしゃって下さいます。  ルカ11章9節、10節に、 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と。それでもいいから、求めなさい、求め続けなさい。しつこく、しつこく祈り求めなさい。そして、その祈りは、かならず聞かれると。 4 「主の祈り」をわたしの祈りとする。  「主の祈り」は、キリスト教のお経ではありません。意味もわからずに、ただ唱えていればいいというものでもありません。  イエスさまは、「祈るときには、こう言いなさい」と、私たちに示された、教えられた「祈りの模範」です。  そんなに難しいお祈りは、私にはできませんという人がいるかも知れません。では、主の祈りはなかったほうがよかったのでしょうか。あまり意味を考えずに、なんとなく唱えていたほうがよかったのでしょうか。  大切なことは、私たちに合わせて、私たちの考えや、やりやすさに合わせて「主の祈り」を変えることではなく、私たちが、主の祈りを唱える時、そのたびに、私たち自身が変えられていくことです。  主の祈りの内容をよく理解して、私たちの信仰が、少しでも主の祈りに近づくように変わっていくことです。一歩でも二歩でも、私たちの祈りが、主の祈りに近づくことを願うことだと思います。  イエスさまが教えて下さったこの祈りが、ほんとうに私たちのものになり、自分の声で、自分の祈りとして、心からこの祈りを唱えることができる時、私たちの生き方、人生が変えられてくのではないかと思います。 天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。 み国が来ますように。 み心が天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。 国と力と栄光は、永遠にあなたのものです アーメン 〔2010年7月25日 聖霊降臨後第9主日(C-12) 西大和聖ペテロ教会〕