豊かさのために神を忘れるな。

2010年08月01日
ルカ12:13〜21  イエス・キリストの時代から遡って、1270年ぐらい昔の出来事です。  モーセに率いられたイスラエルの民が、荒れ野を放浪して新しい地にたどり着こうとしていました。  12部族の一つマナセ族に、ヘフェルの子ツェロフハドという人がいました。このツェロフハドには、5人の娘がいました。娘たちの名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァといいました。 この娘たちが、主の幕屋の入り口にいるモーセと祭司エルアザル、その他の指導者および民族一同が集まっている所にやってきて、預言者モーセ言いました。 「わたしたちの父、ツェロフハドは、荒れ野で死にましたが、この一族を継ぐべき男の子がありません。男の子がないからといって、どうして父の名がその氏族の中から削られてよいでしょうか。父の兄弟たちと同じように、新しい地にわたしたちにも所有地をください。」このように訴えました。  モーセは、この娘たちの訴えについて、神さまにお伺いを立てました。 神さまは、モーセに言われました。 「ツェロフハドの娘たちの言い分は正しい。あなたは、必ず娘たちに、その父の兄弟たちと同じように、嗣業としての所有地を与えねばならない。娘たちにその父の嗣業の土地を渡しなさい。あなたはイスラエルの人々にこう告げなさい。ある人が死に、男の子がないならば、その嗣業の土地を娘に渡しなさい。」  神さまがモーセに命じられたとおり、イスラエルの人々はこれを法の定めとしたとあります。(民数記27:1−11)  今日のように、法律で、財産相続や、土地の所有権などについて、細かく定められていない時代には、そのような裁きは、民族の指導者たちが、神さまにお伺いを立て、神さまの意志を聞き、神の命令として決定されていました。  イエスさまの時代には、ラビと呼ばれる律法学者や、祭司たちが裁きをしたり、調停をしていました。  イエスさまは、「先生」と呼ばれ、その当時のラビの一人として見られていましたから、群衆の中でイエスさまの話を聞いていた一人の人が言いました。  「先生(ラビ)、わたしにも遺産を分けてくれるように、わたしの兄弟に言ってください」と。  この人は、遺産相続のことで、頭がいっぱいになっていました。たぶん、寝ても覚めても兄弟との財産争いのことで休まる時がありません。そこで、イエスさまに救いを求めたのですが、イエスさまは、その人に言われました。  「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」  わたしは、あなたの裁判官でもなければ、調停人でもないと、その訴えに対する答えを拒絶されました。  その上で、そこにいる群衆一同に向かって言われました。  「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は、財産によってどうすることもできないからである。」  そして、一つのたとえを語られました。  「あるところに金持ちがいました。その年、天候もよくその金持ちが持っている畑は豊作でした。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしました。やがて言いました。  『こうしよう。今ある倉を壊して、もっと大きい倉を建てよう。そして、そこに穀物やぶどう酒やオリーブ油など、収穫物と財産をみんなしまい込んで、「さあ、これから先、何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』    しかし、神さまは、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した財産は、いったい誰のものになるのか』と言われた。」  このようなたとえの話をした後で、イエスさまは言われました。  「自分のために、使いきれないほどの富、財産を積んでも、神の前に豊かにならない者は、このとおりだ。」  もうこれで安心だ、生活の保障はできた、のんびり幸せに暮らそうと、好きなだけ食べて飲んで楽しもうと、自分のことだけしか考えない、どん欲な金持ちでした。  命は、神さまからの借りものであることを忘れてしまっています。命は神さまからの預かりものです。  ですから私たちの思いに関わりなく、神さまは突然命の返還を要求されます。 「お前の命は取り上げられる」とはこのことです。命をお預かりしている神さまのことを忘れてしまっています。すると突然、空しい人生の結末を迎えることになります。  私が、まだ30歳代の若い牧師の頃でした。兵庫県の尼崎市で、尼崎聖公会という教会で牧師をしていました。  当時、市内のあちこちに住む信徒の家庭で、家庭集会を開いていたのですが、その集会に、そこでは割合に年配の婦人が多く集まる集会でしたが、誰かに誘われて、一人の婦人が出席していました。月に一回のこの家庭集会を楽しみにして、一緒に聖書の勉強をしていました。  その内に、私の家でも家庭集会をしてくださいと申し出られて、その家庭に伺って驚きました。  尼崎でも、山の手の方には、大きな家が建ち並んでいるのですが、その中でも、豪邸で、お家に案内されても、うろうろと迷子になりそうなほど大きなお家でした。  広い庭には、大きな池があって、今まで見たこともないような大きな鯉が何匹も泳いでいます。ご主人の趣味で、錦鯉の近畿の品評会で最近一位を取ったという鯉がいて、その当時で200万円はすると聞いて驚きました。その鯉の世話をするために男の人を一人雇っていると聞きました。  そこで聖書の勉強をして、いろいろご馳走になって帰ったのですが、それを機会に、この老婦人からいろいろと話を聞き、相談にのることになりました。  夕方になると、教会に電話がかかってきます。その婦人は、夕方、夕暮れ時になると「淋しくって、淋しくって」と言って電話をして来られます。訪ねていって、立派な庭に面した座敷で話を伺いました。  ご主人は、建設会社の社長さんで、仕事が忙しくって、毎日、夜遅くしか帰ってこない、子どもは2人いるが、二人とも結婚して、関東の方に住んでいる、孫もいるが、邪魔にならないように、あまり訪ねて行ったり、電話をかけるのも遠慮している。  家の中の仕事は、食事も洗濯も掃除も、お手伝いさんが全部してくれて、何もすることがない。大きな家に住んでいて、あまり出かけても行かない、お友だちもいない。何もすることがない。そして、とくに、夕暮れになると気持ちが落ち込んで、何の理由もなく淋しくなって、辛抱できなくなると訴えられました。  ある時期、私は、夕方になると、毎日のようにその老婦人を訪ねました。  ある時、ふと思いついて、手内職の仕事を見つけて、運びました。  一匹、何百万円もする鯉を飼っている大金持ちの、豪邸に住む老婦人が、一枚何円にもならないような手内職の仕事をしている。何とも矛盾を感じます。奇妙な生活ですが、それでも生き甲斐を感じると言って精を出していました。  お家の事情があって、すぐには洗礼や信仰とまではいきませんでしたが、私は、このお金持ちの老婦人が、毎日訴えておられた、「夕暮れになると、淋しくって、淋しくって」という言葉が忘れられません。  その婦人は、決してどん欲でもなければ、豊かさを誇っていたわけでもありません。しかし、衣食住が足りて、なに不自由なく過ごしていても、決して心の中まで満たされ、喜びにあふれた生活ができるかというと、そうではない、何か「大切なもの」が欠けていると、その結果、何ともいえない空しさを感じるものだということを知りました。  イエスさまの時代と比べますと、現代では、ずいぶん時代が変わっています。  政治の形も違いますし、制度や習慣もがらっと変わりました。生活様式も違いますし、価値観も違っています。科学が進み、便利な時代になり、少なくとも私たちはその便利さを当然のように受け取って生活しています。  とくに、現在は、経済、お金というものが世の中の価値観を支配する時代になっています。そして、私たちは、その中にとっぷりと浸かって生活しています。    今まで手に入らなかったものが、科学の力で、またはお金の力で、誰でもすぐに手にすることができる時代になりました。  しかし、一方では、そのために失ってしまったもの、親子の関係や家族の関係をはじめとする人間関係がうまくいかなくなり、思いやりがなくなり、人の心を平気で傷つけ、自分のことしか考えない、そんなぎすぎすした時代になりつつあることにも気がつきます。  イエスさまが、群衆に戒められた時代、イエスさまがおられた時代と比べて、私たちのこの時代の人々は、はるかに強烈に、何十倍も、何百倍も、強く、そして例外なくみんな、「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいな倉を建てよう。そこに、自分だけ、自分の家族だけが、楽ができるような財産を貯めてしまい込み、「さあ、これから先、何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。さあ、もう安心だ、ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう」と言っている、または「言いたい」と思っているのではないでしょうか。  今、言いましたように、時代が変わり、制度や生活様式も変わりました。人に迷惑をかけないぐらいの蓄えや、病気や何かの災難の時のための備えも必要であることはよく分かります。  しかし、今だからこそ、私たちは、もう一度、イエスさまの言葉に耳を傾けなければなりません。  「『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と神さまは言われる。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」  聖書の中の「愚かな者」とは、ギリシャ語で、アフローンという言葉です。これは「神を忘れた者」「神を知らない者」を意味します。「この世の秩序は神によって成り立っていることを知らない者」という意味で、賢者「賢い者」の反対の意味に使われています。  自分は豊かになったと言い、どれほど豊かさを誇ってみても、どれほど大きな倉を建て、そこに財産を詰め込んでも、人間の命は、瞬間にして奪い取られる存在なのです。  そのことは、昔も今も、少しも変わっていません。あなたの大事な、その命が取り上げられたら、そんな財産は何の価値も持たない。それは、神を忘れた者、愚か者だとイエスさまは言われます。  私たちの命は、神さまによって貸し与えられているものに過ぎません。神さまからお預かりしているにすぎません。ある時、突然、「返しなさい」と命じられます。そのような存在であることを忘れて、財産のことや遺産のことに心を奪われ、そのことで頭がいっぱいになり、争ったり命を縮めたりしてしまいます。  物の豊かさによって、神さまのことを忘れてしまうことの愚かさが戒められています。  ルカ12章32節〜34節  「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」  「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」  わたしの富は、あなたの冨はどこにあるでしょうか。      〔2010年8月1日 聖霊降臨後第10主日(C-13) 高田キリスト教会〕