だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
2010年08月29日
ルカによる福音書14章1節、7節〜11節
今日の福音書のテーマは、神の前に「謙遜、謙虚」であるということです。
主イエスは、ここで謙遜でありなさい、謙虚な人でありなさいと教えておられますが、それは、私たちが小さい頃から教えられている道徳として、謙譲の美徳とか、あの人は謙遜な人だ、謙虚な人だと言われるようなこととは違います。
神との関係で、謙遜であること、ほんとうの信仰を持つためには、神の前に謙遜でなければならないということが教えられています。その結果、人と人との関係においても、謙遜であることが求められます。反対に、謙遜、謙虚であることの反対は、傲慢、高慢であり、高ぶることにあります。その姿勢が、信仰生活の妨げになることがきびしく教えられています。
イエスの時代のユダヤ教には、ファリサイ派(律法学者)、サドカイ派(神殿の祭司たち)、熱心党、ヘロデ党など、いくつかのグループがありました。
その中でも、ファリサイ派は最大の派閥でした。彼らは、旧約聖書全体を律法とし、それ以外に、有名なラビ(教師)が行った律法の解釈、昔からの言い伝えなど、膨大な量の掟を律法として守っていました。
ファリサイ派の人たちには、小さい時から徹底した律法教育が義務づけられ、律法を暗記し、これを守りました。自分たちだけが律法を守るだけではなく、人にも律法を守ることを強要し、律法を守らない人、律法を知らない人を罪人と断定して赦さない、そのような人を軽蔑したり、差別したりしていました。
ユダヤ民族の長い歴史の中で、律法を守ることには先祖代々長い伝統を持ち、誇りを持ってこれを守ってきました。律法を守ることに命をかけ、律法を守ることが信仰であり、掟を守ることが神によって救われる唯一の道であると信じていましたから、そこに「律法主義」と言われる考え方に陥っていきました。
彼らは、律法を守っている自分たちは「いつもでも正しい」とし、それ以外の人たちを非難しました。神の掟、律法を守ることは正しいことです。しかし、イエスの時代には、彼らの考えや行動は、「これさえ守っていればいい」「自分たちだけが正しい人だ」という考え方になり、律法を守ることが、形式化し、形骸化し、偽善者的になっていきました。
安息日論争などはいい例で、主イエスは、たびたび彼らと論争し、彼らの考え方や姿勢を徹底的に攻撃し、非難しました。彼らを「偽善者だ」と言い、「犬どもを警戒せよ」と言い放って、弟子たちには、ファリサイ派的な考えに陥らないように厳しく教えました。
ある時に、主イエスは、ファリサイ派の議員の家の食事の席に招待されました。同じようにその席に招かれている人たちは、招待者が議員であるという立場からすると、それなりの地位や立場にいる人たち、その多くはファリサイ派、律法の専門家たちであっただろうと思われます。
今、言いましたように、「われこそは正しい」「自分こそは誰からも尊敬されるべきだ」「自分は信仰深く、先生と呼ばれている人なのだからそのように扱われるべきだ」と考えている人たちばかりでした。
そのような人たちの集まりでですから、まず食事の席につく時の状況が想像されます。「イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいる様子に気づいて、彼らにたとえを話された」とあります。(7節)
「結婚の宴会に招かれたら、自分で上席に着こうとするな。末席に座るようにしなさい。もし、自分より身分の高い人が招かれていて、その宴会に招待した主人が来て、「この方に席を譲ってください」とみんなの前で言われたら、大勢の人々の前で恥をかくことになる。自分で末席に座っていると、主人が来て、「もっと上席に進んでください」と言われると、反対に大勢の人々の前で面目を施すことになる。」(8節〜10節)
このようなたとえを語られて、最後に「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)と言われました。
わたしたちの社会でも、このような情景はよくあります。日本人の場合、反対に自分が先に下座に座り、「どうぞ、どうぞ」と、上座を譲り合う風景がよく見られます。
しかし、それを素直に聞いて、誰かが自分より上座に座ると、内心そのことが気になります。「あの人よりわたしの方が上に座るべきなのに」と、口には出しませんが心の中でこだわっていることがあります。
主イエスの教えは、単に食事の席での上席、末席の問題ではなく、ファリサイ派の人たちの考え方や日頃の生活の姿勢について非難し、いかにあるべきかを教えています。
また、別の場面で、主イエスの教えを一部始終聞いてあざ笑ったファリサイ派の人々に対して、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」(ルカ16章5節)と言われました。
ファリサイ派の人々が「自分の正しさを見せびらかす」「自分を正しい」と思いこんでいるところに問題があると言われるのです。
主イエスが語られたこのたとえの結びの言葉、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」について考えてみますと、それでは、誰が高ぶる者を低くし、誰がへりくだる者を高くされるのかということです。
それは、神です。その文章の主語は「神」だということを忘れたはなりません。人ではありません。人がどれほど褒めてくれるか、偉いといってくれるかではありません。「人の前で、どんなに謙遜そうな格好をしてみても、正しさを見せびらかしても、神は、あなたたちの心の中をご存じである。人には立派そうに見えても、尊ばれていようとも、神にはそのような人は忌み嫌われるのだ」と言われるのです。
箴言16章5節、「すべて心に高ぶる者は主に憎まれる。確かに罰は免れない。」
イザヤ書2章11節、「その日には、目を上げて高ぶる者は低くせられ、おごる者はかがめられ、主のみ高く上げられる。」
イザヤ書5章15節、「人はかがめられ、人は低くせられ、高ぶる者の目は低くされる。」
ローマの信徒への手紙12章16節に、パウロは、「互いに思うことを一つにし、高ぶった思いを抱かず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分たちが知者だと思い上がってはならない」と教えています。
ヤコブの手紙4章10節、「主のみ前にへりくだれ、そうすれば主はあなたを高くしてくださるであろう。」
今日の旧約聖書で読まれた「旧約聖書続編」シラ書(集会の書)にも、このように述べられています。
「高慢は、主にも人にも嫌われ、不正は、そのいずれからも非難される。高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである。高慢の初めは、罪である。高慢であり続ける者は、忌まわしい悪事を雨のように降らす。それゆえ、主は想像を絶する罰を下し、彼らを滅ぼし尽くされた。主は、支配者たちをその王座から降ろし、代わりに、謙遜な人をその座につけられた。人間は、高慢であってはならず、女から生まれた者は、激しい憤りを抱いてはならないのだ。」
謙遜であること、謙虚であること、それは、私たちが正しい信仰を求める者の姿勢として、最も初歩的な、最も基本的な条件です。
「もっともっと、神を信じる強い信仰を持ちたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と問われたら、それは、何よりも、まず「神の前に謙遜になること、謙虚になることだ」と言うことができます。謙遜、謙虚でなければ、神のみ言葉を聴き、神のみ心に従うことはできません。
反対に、傲慢、高慢、それは、私たちの信仰の敵だということです。それは、自分が、神でない自分自身が神のようになってしまうことになるからです。
その一方で、謙遜そうな顔をする、へりくだった言葉づかいをする、立ち居振る舞いをするということと、ほんとうに「謙遜、謙虚」であるということは違います。顔や口先では謙遜そうな姿勢をとりながら、心の中では反対のことを考えていたり、単に社交辞令であったりすると、これは、反対にもっと大きな傲慢の罪を犯していることになります。
私たちは、まず、神の前に、ほんとうにへりくだる者でなければなりません。
人には分からなくても、私たちの心の中まで見通しておられる、すべてをご存じの、神の前に「謙遜」でなければなりません。神の前に、ほんとうに謙虚であることができる者が、人の前でも、人と人との関係においても、はじめてほんとうの謙遜、謙虚さを持つことができます。
私たちの信仰が、ファリサイ派の人々が信仰だと思っているもの、主イエスから「偽善者だ」と言われた、そのような信仰になっているようなことはないでしょうか。私たちの日頃の生活の中での言動、発想が、ファリサイ派と同じようになっていないでしょうか。
「神よ、神よ」、と口先で言いながら、ほんとうに神を畏れ、神のみ心に従う気がない。自分の思いや気持ちを、自分の意志を、神のみ心だとしてしまっていることはないでしょうか。
私たちの信仰生活や礼拝が、見せかけのうわ辺だけで、偽善的になってしまっていることはないでしょうか。
ふり返ってみますと、私たちはお祈りをする時でさえ、神にとんでもない傲慢なことを願い、祈っていることがあります。
主イエスは、「求めなさい。どんなことでも願いなさい。祈り求めなさい」と言われました。それで、どんな祈りをしてもいいのですが、とんでもない傲慢な高慢な祈りをしていることがあります。
あまりにも身勝手な祈り、それは、自分を正当化し、神に自分の願いを強制し、神を脅迫し、神に命令し、神に教えてあげているようなお祈りをしているようなことはないでしょうか。
祈りをささげるということは信仰深い行いですが、そのような時でさえ、とんでもない傲慢に陥っていることがよくあります。
私たちの祈りは、「主イエスよ、憐れみをお与えください。キリストよ、憐れみをお与えください」を繰り返すことに尽きます。私たちが神の前に立つとき、ただ言えることは、この言葉を繰り返すだけです。
私たちが、神に向かって、どんなにいろいろなことをお願いしても、最後には「主のみ心が、行われますように」でなければなりません。
神は、だれに対しても、「高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高め」られます。
〔2010年8月29日 聖霊降臨後第14主日(C年特定17) 於・聖ルシヤ教会〕