弟子の条件
2010年09月05日
ルカによる福音書14章25節〜33節
今日の福音書、ルカによる福音書14章25節〜33節には、聖書では「弟子の条件」という見出しがつけられています。
イエスさまの弟子となるには、条件があると言われるのです。
私たちは洗礼の時、「あなたは神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕となり」と言って、水と聖霊によって洗礼を受けました。
そして、また「聖霊によってこの僕を強くし、ますます主に仕える者とならせてください」と言って、主教から手をおかれて堅信式を受けたのですから、ここで、もう一度、イエスさまが求めておられる「弟子である者の条件」について学び、自分自身の信仰をふり返ってみたいと思います。
イエスさまは、弟子となるために3つの条件を上げておられます。
第1に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(26節)
第2に、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(27節)
第3に、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(33節)
「なになにでなければ、わたしの弟子ではありえない。」という否定的な表現ですが、イエスさまの弟子になるためには、相当の覚悟が必要であり、難しさがあることが語られています。
まず、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」という第一の条件ですが、マタイによる福音書では、イエスさまはもっと厳しい言葉で語っておられます。
マタイによる福音書の10章34節以下で、イエスさまは、
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(10:34-39)と言っておられます。
私たちは、イエスさまは、「愛の人」だと思っていますし「平和をもたらすため」「ほんとうの安心と、人々が愛しあって仲良くするため」、「幸せになるため」に来て下さった方だと信じていますから、この言葉には、ショックを受けます。
しかし、これらの言葉の背景には、聖書が書かれた時代の事情があります。キリスト教への迫害が強くなり、初代教会のクリスチャンは迫害に苦しめられ、つねにおびえていました。イエスさまが亡くなって50年ぐらいが経った、この福音書が編集された時代には、クリスチャンであるというだけで捕らえられ、牢に入れられ、殺されるというようなことが、次々と起こっていました。そのために、一度はクリスチャンになっても、その苦難に耐えられず、教会の群れから離れていく人たちも大勢いました。教会の中でも人間関係が疑心暗鬼となり、またそれぞれの家庭においてさえ、その関係が壊れ、争いが絶えないというようなことが起こっていました。
イエスさまに出会わなかったら、イエスさまを信じなかったら、クリスチャンにならなかったら、こんなに苦しい思いをしなくてすんだであろうと思うようなことがあったにちがいありません。イエスさまがこの世に来られたから、平穏無事に過ごしていた生活に剣が投げ込まれた、仲良くしていた者の間に、夫婦や親子や兄弟という家族の関係にもひびが入り、敵対関係が生まれ、平和でなくなるというようなことが現実にあったのです。
そのことを考えると、キリストの僕となった者は、弟子の一人としてイエスさまに従おうとする者は、それ相当の心の準備と覚悟が必要だと言われます。
イエスさまがこの世に来られたことを、ヨハネの福音書は、「光が世に来た。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)と表現しました。暗闇の中では、正しいものも正しくないものも、善も悪も、混沌としてうごめいています。そこに一条の光が差し込みました。すると正しいものと正しくないものが、くっきりと浮かびあがり選り分けられ、悪いものがあぶり出されます。
別の言葉で言いかえますと、「新しい価値観」がもたらされたのです。何が正しいのか、何が正しくないのかという道徳的なことだけでなく、いかに生きるべきか、ほんとうの幸せとは何かを問い、その答えをもたらしたのです。
正しいことを正しいと言い、正しくないものを正しくないと言った時、そこには必ず抵抗が起こります。分裂が起こります。当然、争いも起こります。
平和だ、平和だと言い、何の問題もないと思っている家庭にも、イエスさまに従おうとする者と、従いたくない者とが、同じ屋根の下にいる家庭においては、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎むことになります。それだけの覚悟はありますかと、イエスさまは問われます。
弟子となるための第二の条件は、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われます。
キリストの弟子となったために、それが原因で、家の中にゴタゴタが起こり、もめごとが絶えない、熱心であろうとすればするほど、いろいろな難題が持ち上がります。しかし、それは、一人一人が担わなければならない「自分の十字架」です。
私たちは、教会の群れに加えられました。神の民とされています。しかし、目で見える形では、人々の集まりです。そこには意見の違いもあれば、感じ方の違いも生まれます。そこには、言い争いが起こったり、気まずい思いをしたりすることがあります。それも、キリストのために、私たち一人一人が担わなければならない「私たちの十字架」であり、「自分の十字架」です。
それだけではありません。それぞれにもっともっと大きな、誰にも言えないような重い十字架を抱えています。その十字架を全部背負って、息絶え絶えに、それでもイエスさまについて行く、従う覚悟がなければ、ほんとうのキリストの弟子にはなれません。
イエスさまは言われます。
「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」そして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と。
わたしに従うのですか、従わないのですか、考え方、生き方、日々の生活において、イエスさまに従うのか従わないのか、どちらですかと迫っておられます。
まあまあとか、そのうちにとかいうあいまいな答えはありません。
自分の力で命を得ようとする者、自分の力で幸せになれると思っている人、自分が、自分で、自分のためにと思って、自分の力に頼ってやみくもに走っている人は、その命は得られませんし、かならずそれを失ってしまいます。反対に、イエスさまのため、イエスさまに命をささげようとする者は、ほんとうの命、幸せ、天国を得ることができるのだと言われます。
イエスさまは、自分自身、あの重い十字架を背負いながら、ゴルゴタへの道を歩かれました。その姿を見つめながら、「自分の十字架」から逃げようとせず、最後の最後まで、つまづきながら倒れながらでも従おうとする私たちを、イエスさまは見つめておられます。
第三の条件は、自分の持ち物を一切捨てなければ、あなたがたの誰一人としてわたしの弟子ではありえない。」と言われます。
「自分たちの持ち物」とは、財産とか土地家屋とかお金とかもあります。言いかえれば、私たち大事だと後生大事だと抱えているもの、欲望や野心も含めて、すべてのものを言います。
とくに、私たちは、現代という物質文明の中に生きています。目に見えるもの、目に見える効果、数字で表されるようなものを求めています。それは目で見えるから、数字で表されるから絶対に確かなものだと信じています。しかし、それはほんとうに確かなものなのでしょうか。「これを一切捨てなければ、キリストの弟子にはなれない」と言われるのです。キリストのために自分の命をも捨てることさえ求められます。
キリスト教の神髄は、キリストに従おうとすることです。私たちにとってすべて価値観の中心は、キリストにあります。クリスチャンとは、キリスト中心主義者とも言われる者です。
ローマの信徒への手紙14章7節以下にパウロは次のように言っています。
「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
私たちは、キリストのために人を愛します。それは、神が私たちのために独り子を与え、キリストが私たちを愛してくださったからです。
私たちは、キリストのために人に仕え、人に奉仕します。それは、キリストが、まず、私たちのために仕えてくださったからです。
私たちは、キリストのために生きます。神が私たちに命を与えてくださったからです。
私たちは、キリストのために死にます。それは、その前に、私たちのために、キリストが十字架に懸かって死んでくださり、よみがえって下さったからです。
私たちは、キリストのために礼拝をささげます。それは、私たちに、神が特別の恵みを与えて下さり、私たちが神に感謝し、神を賛美する方法を示してくださったからです。
私たち一人一人の肩にかかる自分の十字架、重い十字架を背負って、よたよたしながら、つまずいたり倒れたりしながら、しかし、どんなことがあっても、どこまでもキリストに従いましょう。イエスさまについて行きましょう。
イエスさまが示される「イエスさまの弟子となる条件」に少しでも近づくことができますよう、願い祈りましょう。
〔2010年9月5日 聖霊降臨後第15主日(C-18) 於・高田基督教会〕