イエスさまと祭り
2010年09月19日
ヨハネによる福音書7:1〜14
今日は、「岸和田のだんじり祭り」の日ということで、町中が、だんじり一色で、気もそぞろという方もあるでしょうから、短いお話をします。
そして、とくに、「イエスさまと祭り」というテーマで考えたいと思います。
イエスさまは、ユダヤ人でありましたし、当時のユダヤ教の社会で生活しておられました。イエスさまの時代のユダヤ教には、毎年さまざまな祭りがあり、その祭りの祝い方が、旧約聖書に細かく記されています。
とくにその中でも、「過越の祭り」と「三大巡礼祭」という大きなお祭りがあり、この三大巡礼祭とは、「種入れぬパンの祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」を言い、最も重要な祭りとされていました。過越の祭りは遊牧生活に由来する最も古い祭りで、三大巡礼祭は、主に農耕生活、収穫感謝の祭りでした。
いずれも、決められた時期に決められた場所で、イスラエルの神さまに結びついた人々の祝いと感謝をあらわす祭りでした。エルサレムには大きな神殿があり、全国に散らばっているユダヤ人が、毎年、この地に帰ってきて、祝いました。そこで、人々は、新しく神の民となり、また、神は民の神となるという、祭りは、神と人々の間の契約を新たにする、契約を強める契約更新の性格をもっていました。
ヨハネ福音書7章に、このような出来事が記されています。
イエスさまは、パレスチナの北の方のガリラヤ地方を巡って、宣教活動をしておられました。南のユダヤ地方では、イエスさまを殺そうとするユダヤ人がイエスさまの命をねらっていたので、あまりユダヤ地方には近づこうとはされませんでした。
ちょうど、ユダヤ人の「仮庵の祭り」が近づいていました。
イエスさまの兄弟たちが、イエスさまに言いました。「ここから出て、南のユダヤ地方に行き、あなたがしている業(奇跡)を弟子たちにも見せてやりなさい。人々の前で、宣教活動をしていながら、隠れて行動するような人はいません。こういうことをしているからには、自分でもっと広い世間に出て、もっと大勢の人々の前ではっきり示してはどうですか」と。
兄弟たちも、イエスさまがなさろうとするほんとうの気持ちを理解できませんでした。そこで、イエスさまは言われました。
「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の人々が行っている業は、悪いことだと証ししているからだ。あなたがたは、祭りに行きたかったらエルサレムに上って行きなさい。しかし、わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからだ。」
こう言って、イエスさまは、ガリラヤにとどまられました。
しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後、イエスさま御自身も、人目を避け、隠れるようにしてエルサレムに上って行かれました。 エルサレムでは、イエスさまを捕らえようとするユダヤ人たちが、祭りの群衆の中で「ガリラヤのイエスという男はどこにいるのか」と言ってイエスさまを捜しまわりました。
群衆の間では、イエスさまのことがいろいろとささやかれていました。「あの人
は、良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者たちもいました。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスさまについて公然と語る者はいませんでした。
祭りも既に半ばになったころ、イエスさまは、神殿の境内に上って行って、教え始められました。
イエスさまが、仮庵の祭りのためにエルサレムの神殿に行かれたという聖書の場面ですが、大勢の人々の前で教え始めたので、ユダヤ教の指導者たちは、役人を遣わして捕らえさせようとしました。イエスさまの祭り参加は、命がけの祭り参加でした。
イエスさまが、この祭りに参加しようとなさったのは、肉親の兄弟たちの勧めや命令によるものではなく、これからなさろうとする神さまのみ心に従うことでした。「その時はまだ来ていない」と言われたは、そのことを意味しています。あくまでも救いのみ業の主導権は神さまにあるとのだということが強調されています。
「その時が来た」時、イエスさまは捕らえられ、苦しみを受け、ゴルゴタの丘で十字架に懸けられて、殺されました。
どんなに小さな民族でも、祭りを持っています。どんな宗教にも祭りがあります。古代から、「祭り」のない民族、祭りを持たない宗教はないと言われます。昔の人々の生活は、自然の営みに密接に繋がっていましたから、自然の災害による難から逃れられますように、疫病の流行を恐れ、季節の収穫の時期には、豊作を願い、収穫の感謝をしました。静かに神さまに祈りや供え物をささげる行事から、神さまの目を醒まさせて、こちらに向いてもらおうと激しい動きをするお祭りまで、さまざまな活動や行事が行われ、伝えられてきました。
キリスト教にも、クリスマスやイースターがあり、いろいろな記念の日があります。しかし、忘れてはならないのは、毎主日行っている「聖餐式」も、「祭り」だということです。
祈祷書155頁、聖餐準備の式の6.「感謝・賛美の備え」の最後に「わたしたちはこの恵みのみ業を感謝し、喜びよろこんで記念の祭りを献げよう」と司式者が言い、会衆は「その業に動かされ、すべてを献げて主の愛にこたえよう」と応答します。
聖餐式は、感謝と喜びの記念の祭りです。「この恵みのみ業を感謝し」というこの恵みとは、神の子イエスさまが「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分に負われた」ということです。
イエスさまの十字架の苦しみによる恵み、この恵みに感謝し、賛美をささげるのです。「いいお天気に恵まれた」「思わぬことが起こった」「病気が治った」というようなお恵みではないのです。
イエスさまの十字架の苦しみとそのことによって私たちが救われた、このことを記念するために弟子たちと共に食卓につき、聖餐を定められました。
さらに、祈祷書159頁の「聖餐式」の最初、小さい文字の冒頭に
「聖餐は主イエス・キリストがお定めになった感謝・賛美の祭りであり、教会はこれを主からお賜物として受けた」と説明しています。 この他にも、「感謝・賛美の祭り」という言葉が繰り返し出てきます。
今日は、この地方の岸和田だんじり祭りの日ですが、私たちも、「感謝と賛美の祭り」をささげ、主の恵みに感謝と賛美の祭りの声を挙げましょう。
〔2010年9月19日 聖霊降臨後第17主日(C-20) 於・岸和田復活教会〕