<b>主人と僕</b>

2010年10月03日
ルカ17:7〜10  10年ほど前から、東京の秋葉原という所から始まったらしいのですが、そこには「メイド喫茶」、「コスプレ喫茶」、「女中喫茶」、というものが流行っているそうです。 喫茶店や軽い食事をする所、居酒屋もあるそうですが、そこで世話をしてくれるウエイトレスが、若い女の子がメイドさんの服装をして「ご主人さま、お帰りなさいませ」と言って迎えてくれるそうです。  そして、帰りには「気をつけてお出かけなさいませ」と言って送り出してくれるのだそうです。  そのような店が1998年ごろから始まって、急激に、東京の各地から地方の街にもたくさんできているといいます。  そこに来る客は、はじめはそのようなコスプレ(コスチューム・プレーヤー)と言われるマニアに受けたようですが、その後、話題を呼んで、ふつうのサラリーマンから、若い男性、そして女性まで、大勢集まっています。  おとながママゴトをしているような感じですが、しかし、男性でも女性でも、誰でもその心の奥には、「ご主人さま」と呼んでもらいたい、そして、従順に、かしずいてもらいたい、仕えてもらいたいという気持ちがあるのではないでしょうか。  聖書の中や、祈祷書のお祈りの言葉には、「主」という言葉、「僕」という言葉がよく出てきます。  「主」というのは、神さまのことであり、イエスさまのことだということは、私たちはよく知っています。そして、この主である神、イエスさまに対して、私たちは「僕」なのです。  これらの言葉の意味をほんとうに知るためには、イエスさまの時代の奴隷制度について知らなければなりません。  私たちは、奴隷制度というものは、映画や小説の中で知るぐらいで、今の世では考えられないことですが、イエスさまの時代のには、奴隷は、重要な労働力であり、市民生活は、奴隷によって支えられていました。  奴隷は、人間でありながら、人間として扱われない、道具や機械のように使われ、奴隷の子は奴隷、そして売買され、生かすも殺すも所有者次第という身分制度でした。  そのような身分関係に立って、主であり僕であると、聖書は言います。神さまと私たち人間の関係は、神さまが主であり、ご主人さまです。これに対して、私たちは僕であり、服従する立場にあります。  神さまと私たちとは、そのような関係なのだというのです。  奴隷制度という身分制度はない時代に生きていますが、その当時では、現実の社会であり、説明しなくてもよく分かる関係だったと思います。  そのような、ご主人と奴隷の関係を表す言葉を使って、神さまと私たちの関係を表しているのです。  さて、今日の福音書ですが、ルカ17章7節以下で、イエスさまは、一つのたとえをもって、神さまと私たちの関係について、改めて問われます。  あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかしている僕、屋外労働をしていあた奴隷がいたとします。  その僕が、一日の労働をして疲れて畑から帰って来ました。  すると、ご主人は「やあ、疲れただろう。お腹がすいただろう。さあさあ、手を洗って来て、すぐに食卓に着きなさい」というだろうか。  どんなに疲れて帰ってきても、相手は僕、奴隷なのですから、反対に、「早く、わたしのために夕食の用意をしてくれ。服装をちゃんと整えて、わたしが食事を済ますまで、そこに立っていて給仕しなさい。お前は、私が食べた後で食事をしなさい」と言うだろうと言われました。  僕は、命じられた仕事をしたからといって、主人は、「よくやった。ありがとう。ありがとう」と、その僕に感謝するだろうか。  だから、あなたがたも同じことだ。神さまとあなたがたとの関係は、神さまがご主人さまで、あなたがたは「僕」なのだから、神さまから自分が命じられたことをみなちゃんと果たしたら、「わたしたちは、取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさいと、教えられます。  旧約聖書のヨブ記22章2節、3節に、このような言葉があります。   「人間が神にとって有益でありえようか。   賢い人でさえ、有益でありえようか。  あなたが正しいからといって全能者が喜び   完全な道を歩むからといって   神の利益になるだろうか。」  どんなに立派な仕事をしても、どんなに正しいことをしても、完全な道を歩いても、そのことによって神が有益になるのではない。全能者である神が喜ぶのでもない。神にとっては、当たり前のことをしただけだと言っています。  どれほどよいことをしても、立派に務めても、神さまはご主人であり、私たち人間は僕なのだということです。その関係は変わることはありません。  アダムとエバの物語を思い出します。  神は、アダムとエバを、エデンの園に置かれた時、園の中央の木を指して言われました。「園のどの木からも実を取って食べてもよろしい。しかし、この園の中央に生えている木の実だけは、取って食べてはいけません。これを食べると、目が開けて、神のように善悪を知るものとなる」と。  誘惑する者、ヘビがやってきてエバに言います。「いいじゃありませんか。目が開けて、賢くなって、神のようになる。いいじゃありませんか。」と、誘惑します。  神でない者が、神になってはいけない者が、「神のようになる」、これほど大きな誘惑はありません。  エバが、そして、アダムが、この誘惑にまけて、頭ではわかっていたのですが、手が出て、これを食べてしまったのです。ここに人間の本質が語られています。  私たちにも、アダムやエバと同じのDNAを持っています。その誘惑にさらされ続けているのです。  口では、「主よ、主よ」と言いながら、それが口先だけになってしまっていて、私が神の「僕」であるという関係を忘れしまい、自分が神になっています。  自分が、主人になってしまって、無意識のうちに、立場を逆転させてしまっているのです。  神さまとのつきあいが長くなればなるほど、言いかえれば信仰生活が長くなるほど、神さまとの関係が慣れ親しみすぎて、主人と僕の関係があいまいになってしまいます。  本来、厳しい方で、強い方で、すべてのことをご存じの、全知全能の神を、生きて働いておられる神さまだと知っていながら、いつのまにか、その神さまをないがしろにし、自分のレベルにまで引きずり下ろしてしまうのです。  主である神さまを無視し、神さまを恐れない。神さまを神としない、そして、いつの間にか自分が神のようになってしまう、そのことが警告されています。  自分が、自分が、と、毎日の生活の中で、自分のことしか考えない、自分の野心や欲望を満足させることしか考えられない私たちは、なかなか自分の言葉や行いをふり返ってということができません。そして、いつの間か自分が主であり、神のようになっています。  お金や物に執着している人、寝ても覚めても、自分の得になることばかりを求め続けている人は、お金や物を神にしてしまい、偶像崇拝に陥り、やはり、ほんとうの「主」を離れてしまいます。  神にお祈りやお願いをしていても、いつの間にか、自分の心を神さまに押しつけるばかり、「神なら、私のいうことを聞け」と言わんばかりに、神さまに強制し、脅迫しているようなお祈りになっています。  どちらが主でどちらが僕かわからなくなっていないでしょうか。どんなお願いをしても、すべて最後には、「あなたは主です。あなたのみ心のようになりますように」とお祈りたいと思います。  神の国、天国を知るということは、神さまを絶対的な主とし、私たちは、神さまの絶対的な支配を受ける「僕」であることを、はっきりさせることです。  その時こそ、神さまの支配が完全に行われます。私たちが、「ご主人さま、ご主人さま」と言って、たとえ、疑似的な関係ででも、ママゴトのような関係ででも、瞬間的にでも、自分が「ご主人さま」になって、かしづかれたい、服従されたい、仕えられたい、神さまのように扱われたいと思ってはならないのです。そして、その誘惑に気づかなければなりません。  神は、主と僕、神と私たちとの、ほんとうの関係を教えるために、そのひとり子をこの世に遣わし、その命を十字架に架けて、神の恵みと愛をお与えになりました。  教会は何のためにあるのでしょうか、教会の目的、教会の使命は、人々の「いやしと救い」にあります。  それは、イエス・キリストが、人々をいやし、ほんとうの救いをお与えになったからです。  教会がその使命を果たすためには、まず、大前提として、神さまと私たちとの関係が正しくなければなりません。  私たちは無意識の内に、人を裁いてしまっていることがあります。私たちが人を非難し、人を憎しみ、人を裁いている時、私たちは、神になっています。「神のようになるから、主になっているから、人を裁くことができるのです。それは、自分を絶対化しているからです。  私たちに愛が満ちているとき、イエスさまが私たちを受け入れてくださったように、私たちが互いに受け入れ合うことができたとき、ほんとうに仕えあうことができます。そこに愛があります。  教会の中に、私たち一人一人に、愛が充ちていなければ、教会の使命は果たせません。神さまを知らない人々に神さまを証しすることができません。  私たちは、いつも神に感謝し、神の栄光をほめたたえ、生涯、神に奉仕する者でありたいと思います。  そして、「わたしどもは取るに足りない僕です。ただしなければならないことをしただけです』と、ほんとうの主、私たちの主に申し上げることができる毎日を送りたいと思います。     〔2010年10月3日 聖霊降臨後第19主日(C-22) 於・高田基督教会〕