やもめと裁判官のたとえ

2010年10月17日
ルカ18:1〜8  今日の福音書から学びたいと思います。  イエスさまは、「やもめと裁判官」のたとえを話されました。このたとえで言おうとしていることは、ひとくちに言えば、最初に書かれています。 「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と。そのためにイエスさまは、弟子たちにこのたとえを話されたと記されています。  「気を落とさずに」とは、あきらめないで、失望しないで、ということで、どんなことがあってもあきらめないで、失望しないで祈り続けなさいということです。  南米チリ北部のコピアポにあるサンホセ鉱山に作業員33人が落盤事故のために閉じ込められ、その救出作業については、毎日、テレビや新聞で、報じられていました。皆さんももうよくご存じだと思います。  8月5日に、落盤事故が起こり、17日目、8月22日に、全員が生存していることが確認され、救出作業が続けられました。そして、69日目、10月13日、33名全員が救出されました。 そのニュースは世界中に流れ、無事救出を祈ると共に、昨日は、世界中に大きな喜びと感動が伝わりました。  チリという国は、伝統的にローマ・カトリックの国で、2002年の統計では、人口の70パーセントぐらいがカトリック教徒で、プロテスタントの信徒が15パーセントぐらいと言われています。  地下700メートルの空洞で救援を待つ33名の人々、地上で心配する家族、同僚、すべての国民は、どれほど祈ったことでしょう。彼らは絶望のどん底から一筋の希望を見失わず、イエスさまが教えられるように「気を落とさずに絶えず祈り」続けたに違いありません。  ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。  とんでもない裁判官で、神を恐れない、人のいうことも聞かない、わがままな明らかに正しい裁判をしない裁判官でした。  このような裁判官のところに一人のやもめ(未亡人)が来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えました。  このやもめが訴えている訴えの内容については何もわかりません。  わずかなお金を取り上げられようとしているとか、長年住み慣れた家から追い出されようとしているとか、このやもめにひどい仕打ちをしている人がいたのだと思います。  これを止めさせてほしいと訴えました。  この裁判官は、人を人とも思わない裁判官ですから、そのようなやもめのいうことなどには、耳を傾けようともしません。  最初は、放っていました。やもめは、朝でも昼でも晩でも、しつこくしつこく訴えてきます。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうともしませんでしたが、あまりにしつこく訴えてくるものですから、とうとう最後には、思わずこのような独り言をつぶやきました。  「わしは神など畏れないし、人を人とも思わない裁判官だ。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわない。夜もおちおち眠れない。仕方がないからあのやもめのために裁判をしてやろう。そうでないと、いつまでもひっきりなしにやって来て、わしをさんざんな目に遭わせるにちがいない。」  聖書のたとえには、どのような結末になったかは記されていません。  このとんでもない裁判官は、すぐに関係者を呼び出して裁判を開き、このやもめの有利なような裁判をしてやったと想像することができます。  イエスさまは、このようなたとえを話されてから言われました。  「この不正な裁判官の言いぐさ(独り言)を聞きなさい。  このような神を恐れず、人を人とも思わないとんでもない裁判官でも、しつこくしつこく訴え続けたやもめには、耳を傾け、心を動かしたではないか。  まして、神は、正しい方で、すべての人びとの声に耳を傾けておられる。  さらに、選ばれた民と言われる人びとの昼も夜も叫び求めている声を聞き、裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれるはずがあるだろうか。  神は速やかに裁いてくださる。」  私たちは、洗礼を受け「神の子」とされ、選ばれた者となったものです。 私たちが朝も昼も晩も、祈り願うことは、必ず聞いてくださる。あきらめず、このやもめのようにしつこく、願い求めなさい。  これが、今日、聖書を読む私たちへの教えです。  しかし、最後に、少し気になることを言われました。  「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と。  弟子たちの時代には、世の終わりの時が来ると信じられ、それを間近に感じていました。  世の終わりの時は、神の裁きの時であり、「人の子」すなわち主イエスが再び現れる時だと信じていました。  不安と恐怖とともに、主イエスにもういちどお会いできるという喜びに希望を持ち、不安と期待が入り交じった興奮をもってその時が来るのを待っていました。  そのような世の終わりの時を見据えながら、今、この時をどのように生きるかということが、初代教会の信仰の中心でありました。  私たちには、その時がいつ、どのように来るかわかりませんが、世の終わりと共に、私たち一人一人に自分自身に、かならず「終わりの時」があるということを知らなければなりません。  私たちに与えられている「時」は、いつまでも続くのではなく、それぞれに「限られた時」であることに目を背けることはできません。    本日の福音書、「裁判官とやもめのたとえ」の最後のイエスさまの言葉、  「しかし、終わりの時、人の子が来るとき、すべてを神さまにゆだね、神さまの裁きとともに永遠の命につながるというほんとうに希望、果たして地上にそのような信仰を見いだすことができるだろうか。」  これは、私たちに向かって投げかけられた言葉です。  ?テサロニケ5:17、18 「絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 〔2010年10月17日 聖霊降臨後第21主日(C-24)〕