「今日、救いがこの家を訪れた。」

2010年10月31日
ルカによる福音書19章1節〜10節  教会の暦では、11月1日が「諸聖徒日」という日です。キリストの福音伝道に 尽くした人々、キリストのために苦難を受け、殉教した人々、全ての聖人、聖徒と いわれる人々を覚えてお祈りします。  また、その次の日、11月2日は「諸魂日」と言われる日で、其の他のすべての 世を去った人々のために祈る日です。日本式で言えば、仏教の「お盆」のような日 です。今日は、私たちの胸にある、世を去ったすべての人々のために、その姿、そ のお顔、その言葉を想い浮かべながらお祈りしたいと思います。  さて、先日、1988年のランベス会議の「諸報告および諸決議」という記録を見て いました。このランベス会議というのは、世界の聖公会の主教さんたちが、イギリ スのランベス宮殿に集まって、10年に一度開かれる会議です。今から20年前の その決議録に、このような文章がありました。 「宣教に向かっての絶対要請は何か。」「教会は宣教に向うに際して何が求められ ているか」と問いかけています。  そして、「『癒し』と『救い』は、イエス・キリストが、この世でなさったこと のすべてを表わす。キリストの救いの業の中で、病める者の癒しは重要な位置を占 める。なぜなら、そのことによって神の愛が実証され、み国がご自身においてすで に到来していることを宣言なさったからである(ルカ7:21-22)。イエスは、弟子た ちに、神の国を説くと共に、病める者を癒し、悪霊を追い出すことを命じられた。 (ルカ9:1-2,6、10:9,17、マルコ6:12-13、マタイ10:7-8)」  さらに、「病める者がどんな心身の状態であろうとも、教会は彼らに癒しの奉仕 を行うように召されています。その愛の奉仕とは、具体的に言えば、次のことをめ ざしている。 (1) 神との、または共同体との、正しい関係を回復すること。 (2) 人の体に自然に備わっている癒しの力を確認すること。 (3) 回復を助けたり苦痛を和らげるため、すべての医療知識と技術を用いること。 (4) 私たちは、かならず死ぬべき者ですが、しかし永遠に向かって生まれる者で あることを確信し、心の平安を確かなものとすること。」  人々または私たちは、教会に何を求めているでしょうか。神さまは、教会に何を 求めておられるでしょうか。 そのことについて、このランベス会議の報告では、教会に求められているのは 「いやし」と「救い」だと言います。 「いやし」とは、体の病気、心の病気や傷を治すことです。悲しみや苦痛をなくす ことです。病気や傷を治すことだと言っても、教会が病院や医師の役割をしようと いうのではありません。「回復を助けたり苦痛を和らげるため、すべての医療知識 と技術を用いる」と共に、教会でなければできない教会の大事な奉仕の業がありま す。  それでは、教会の「いやし」「救い」とはどのようなものでしょうか。そこで、 今日の福音書、ルカによる福音書19章にあります「ザアカイとイエスさまの物 語」から学んでみたいと思います。  イエスさまが、エリコの町に入られた時のことでした。この町に徴税人のかしら をしているザアカイという人がいました。  この「徴税人」というのは、「税金取立請負人」というような職業で、ローマの 皇帝やユダヤの王から、税金を取り立てる利権を買って、その地域の人びとから税 金を取り立るという仕事です。請け負った一定の金額をローマ皇帝や王に納めると いう仕事です。その利ざやをかせいで生活しているのですが、ときには悪どい取り 立てをし、住民を苦しめては私腹を肥やす徴税人もいました。とくにエリコという 町は、エルサレムに上る人びとの交通の要所でしたから、取税所を設けて、そこを 通る人や荷物から税金を取り立てていました。  そのようなことから、当時のユダヤ人は、同じユダヤ人でありながら王やローマ 人の手先になって同胞を苦しめるというので、徴税人を嫌い、徴税人を、遊女や異 邦人と同じように「罪人」と決めつけていました。(ルカ5:30、7:34、15:1)  徴税人は、収入はあり、お金持ちだったかも知れませんが、人びとからは、差別 され、疎外され、近所つきあいもない、友人も持てない人たちでした。  しかし、イエスさまは、この徴税人、罪人と言われる人たちと、たびたび席を共 にし、一緒に食事もしておられました。  ザアカイは、大勢の徴税人を使っている徴税人の「かしら」で、お金持ちでした。  ある時、ザアカイが道を歩いていますと、「ナザレのイエスが来た!」という声に 急かされて、エリコの町の人々が通りに集まってきます。ザアカイも、ナザレのイ エスという人がどんな人かひと目見てみたいと思いましたが、ところがザアカイは、 背が低かったので、群衆に遮られて見ることができませんでした。  そこで、イエスさまを見るために、走って先回りし、道ばたに立っているいちじ く桑の木に登りました。ちょうど、イエスさまと弟子たちの一行がそこを通り過ぎ ようとしておられました。イエスさまは、ザアカイが登っているいちじく桑の木の 下までくると、立ち止まり、上を見上げて言わました。「ザアカイ、急いで降りて 来なさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたいのです。」  ザアカイは、びっくりしました。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスさ まを迎えました。  これを見たまわりのユダヤ人たちは、皆、心の中でつぶやきました。「あの人は、 徴税人、罪深い男のところに行って、食事を共にし、あんな男の所に泊まった」 と。  ザアカイは、できるかぎりのもてなしをしました。イエスさまと弟子たち、家族 や他の徴税人仲間も招いて食卓を囲んでいます。  その食事の最中に、ザアカイは、突然立ち上がって、イエスさまに言いました。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだま し取っていたら、それを4倍にして返します。」  それを聞いて、まわりの人たちは、びっくりしました。  すると、イエスさまは言われました。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、 失われたものを捜して救うために来たのである。」  ザアカイは、なぜ、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、 だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」などと、こんな ことを言ったのでしょうか。  第1に、まず、ザアカイは、あのいちじく桑の木につかまって居る時に、突然、 自分の名前を呼ばれてびっくりしました。自分の名前を知っていて下さる。それだ けで感激しました。感動しました。  第2に、自分の家に来て下さる。食事を一緒にして下さる。泊まって下さる。 差別され、話す人もなく、友だちのいない淋しい思いをしているザアカイにとっ て、イエスさまの言葉や行いは、天にも昇るような一大事であり、そのことでも感 激、感動したに違いありません。  ザアカイは、じっとしてはいられませんでした。誰かに促され、突き出されるよ うに、思わず立ち上がり、叫びました。  「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。まただれかから何かだま し取っていたら、それを4倍にして返します。」と。  イエスさまの時代には、貧しい人々に「施し」をするということは、信心深い人 たちのだいじな義務の一つとされていました。  イエスさまも、ある金持ちの議員に、「あなたに欠けているものがまだ一つある。 持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天 に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(ルカ18:22)と教えられ ました。  また、「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた」 と、パウロが伝えています(使20:35)。  「だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と言ったの は、これは、罪の償いをするという意味です。  出エジプト記には、掟として、「人が羊を盗んでこれを屠るか売るかしたならば、 羊一匹の代償として羊4匹で償わなければならない」と定めています(21:37)。  ザアカイは、罪の償いを申し出たのです。  これを聞いたイエスさまは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハ ムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と 言われました。  何が、ザアカイをこのように言わせたのでしょうか。イエスさまは、ザアカイに こんこんとお説教をし、諭されたからでしょうか、何か特別の奇跡を行なって見せ たからでしょうか。  そうではありません。  ザアカイは、イエスさまに出会ったからです。イエスさまと、ほんとうに向かい 合ったからです。このイエスさまとの「出会い」が、ザアカイを変えました。生ま れ変わらせました。  人と人の「出会い」には、さまざまな姿があります。「初めまして」「どうぞよ ろしく」という出会いから始まり、表面的な名前やど住所を知っているぐらいから、 深く人格に関わり、愛し合い、尊敬し合うなど、その深さ、程度において、ほんと うにさまざまな出会いがあります。  私は、若い頃によく感じたことですが、ある人の前に出ると自分が小さく見える、 外見ではなく、なんて自分はダメなのだろうと、いつも反省させられるような経験 をしたことがあります。誰かに影響を受けるとか、励まされたとか、誰にもそのよ うな「出会い」を経験したことがあるのではないでしょうか。  ザアカイは、イエスさまに出会って、癒されました。人間関係の中で、淋しいさ や、悔しさや悲しみが渦巻いていました。その心が、イエスさまとの出会いによっ て癒されました。単に、イエスさまとの人間関係だけではなく、罪の告白、罪の償 いにまで至ったのです。イエスさまの後ろにある神さまとの関係にまで突き抜ける 「出会い」だったのです。  そして、イエスさまは、ザアカイとその家族に対して、「救い」を宣告されまし た。「今日、救いがこの家を訪れた。アブラハムの子孫なのだ。この人たちも神さ まから選ばれたユダヤ人なのだ。わたしがこの世に来たのは、失われた者、神との 正しい関係を回復させ、群れから離れている者を、捜して救うために来たのだ」と 宣言されました。  最初のランベス会議が教会に投げかけた問い、「宣教に向かって、神の絶対要請 は何ですか。」「神は、教会が宣教に向うに際して教会に何を求めておられるので しょうか」という問いかけに、このような言葉が紹介されています。  (1) 私たちの中に生き、私たちのために死ぬべきみ子をお遣わしになり、このイ    エス・キリストによって示されたこの世に対する深い神の愛によって、私た    ちは感動させられます。(�競灰螢鵐�5:14,16)    (2) 神は、人を召し(選び)出し、お遣わしになる神であるということを知ること    によって、私たちは強く促されます。  (3)「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15) と言われ、神    の国を開始されるイエスの宣教の模範によって、私たちは挑戦されます。    イエスは、まず、説教し、教え、人々を癒すことを通して、またご自分の生    と死と復活を通して、その目的を実現されました。イエスご自身が宣教に対    する教会の模範となられたのです。  (4) 私たちは、聖霊によって、宣教のために力づけられます。癒され、立ち直ら    され、赦され、解放されたという経験の中から、溢れるばかりの喜びのを        もって、私たちはみ国の良きおとづれを宣言し、証しする者となるのです。  神さまが、教会に求めておられることは、「いやし」と「救い」です。  それは、牧師だけができるというものではありません。特定の信徒にだけ出来る ものでもありません。教会が群れとして、またメンバーの一人一人が、ほんとうに イエスさまに出会う時、ザアカイがそうであったように、私たちは、まず感動させ られます。そして、私たちは強く促されます。イエスさまによって挑戦されます。 そして力づけられます。  そこに、「いやし」と「救い」があります。     〔2010年10月31日 聖霊降臨後第23主日(C-26) 聖ルシヤ教会〕