めとることも嫁ぐこともない。
2010年11月07日
ルカ福音書20章27節〜38節
教会の暦では、11月1日は「諸聖徒日」という日でした。キリストの忠実な僕
として、キリストに従い、キリストのために苦難を受け、殉教した全ての聖人、聖
徒を覚えてお祈りする日です。
また、その次の日、11月2日は「諸魂日」と言われ、その他のすべての世を
去った人々のために祈る日です。
日本式で言えば、仏教の「お盆」のようなシーズンす。
11月の第1主日、今日は、私たちの信仰の先輩、私たちの胸にある世を去った
すべての人々を覚え、その姿を想い浮かべながらお祈りをささげます。
さて、人は死んだらどうなるのでしょうか。
どこへ行くのでしょうか。
復活の信仰を持つということは、どういうことでしょうか。
私たちも、ほんとうに復活することが出来るのでしょうか。
永遠の命というのはどういうものなのでしょうか。
堅く信じていますが、もう一つわかりにくいところがあります。
私も、この歳になりますと、いろいろと死ぬ準備のことを考えますが、死ぬ瞬間
には、いちばん最後になんと言って死のうかと考えたりします。
辞世の句を詠むというような才能もありませんし、「皆さん、天国でまた会いま
しょう」とか「先に行って待っていますから」とか、「いろいろ有難う」とか、
「もっと光を!」とか、ぼちぼち練習をしておかねばならないと思っています。
あるとき、イエスさまが、エルサレムの神殿におられるとき、祭司たちの集団、
サドカイ派の人々が、イエスさまに近寄って来ました。
このサドカイ派の人々というのは、日頃から、人が死んで復活することはないと
主張している人たちでした。
明らかにイエスさまに議論を吹きかけて試そうとしていることがわかります。
彼らは言いました。
「先生、モーセは、律法の書に『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と教えていま
す。(申命記6-10)
ところで、7人の兄弟がいました。
長男が妻を迎えましたが、子がいないまま死にました。
次男、三男と、次々にこの女を妻にしましたが、7人とも同じように子供を残さな
いで死にました。
最後にその女も死にました。
すると、人が死んで復活するというのでしたら、復活したその女は、いったいだれ
の妻になるのでしょうか。7人とも、その女を妻にしたのですが。」
復活を否定しているこのサドカイ派の人たちは、イエスさまにこのような屁理屈
をこねて、無理難題を吹きかけてきました。
イエスさまは言われました。
「この世に住んで生きている人たちは、妻をめとったり、嫁いだりするが、次の
世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁
ぐこともない。
この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者
として、神の子だからである。」
と答えられました。
死後の世界というものは、今、私たちが住んでいるのと同じような世界が、どこ
か向こうの方にあるのではないのだと言われます。
ですから、復活したからと言って、今と同じような姿かたちをした人がいて、夫婦
や親子や兄弟姉妹や友だち関係や、社会の上下関係のような、人間関係をそのまま
引き継いで生活するようなものではないと言われます。
復活した人たちは、もう一度死ぬようなものではない。天使に等しいものであり、神の子となると言われます。
私たちは、あの世とか、天国とか言って、目に見えるようなかたちで、絵に描い
たような姿で、いろいろな場面を想像して、確かなものにしたいという気持ちはわ
かりますが、それは、この世にいる私たちの誰かが想像して語ったり、描いたりし
たものであって、誰も実際に見た人はいません。
そんなことを言われたら困ります。
「天国でまた会いましょう」、「お先に行ってますからね」と言って、天国での再
会を約束したことはどうなるのでしょうかと言われるかも知れません。
しかし、絵に描いて「この世」をコピーしたような「あの世」での再会は無理か
も知れませんが、「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、もはや
死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だから
である。」と約束されているのです。
そのためには、「復活するのにふさわしいとされた者」でなければなりません。
イエスさまは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる
者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことは
ない。このことを信じるか」と。(ヨハネ11:25-26)
パウロも、このように言っています。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者が
いるかもしれない。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないで
はないか。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに
復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときに
は弱いものでも、力強いものに復活するのです。
つまり、自然の命の体(肉の体)が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体(肉の身体)があるのですから、霊の体もあるわけです。
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではあ
りません。
わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るととも
に、たちまち、一瞬のうちにです。
ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず
着ることになります。」(�汽灰螢鵐硲�5:35-26,42-44,51-53)
パウロもこのように、蒔くる種と、新しくうまれかわる植物の芽生えにたとえて
説明しています。
4世紀の人で、西方教会の最大の教父、思想家、宗教家で、アウレリユス・アウ
グスティヌスという教父がいます。
この人は、古代から中世にいたるまでの、カトリック信仰の思想的基礎を築いたと
言われ、42歳で司教になった人です。
若い時から新興宗教であるマニ教に走り、思想的にも宗教的にも劇的な遍歴を繰り
広げました。
このアウグスティヌスの洗礼にいたるまでは、母モニカの祈りと並々ならぬ心遣
いがあったと言われます。母モニカは、親の代からの熱心なキリスト教徒でした。
アウグスティヌスの有名な著作「告白」の中に、母モニカについて書かれた言葉
があります。
アウグスティヌスは、西暦387年の復活日に、ミラノで洗礼を受けました。33歳
でした。
その直後、母の身体が思わしくなかったので、故郷である北アフリカ、タガステ
に連れて帰ろうとして、オスティアという港町で、アフリカに渡る船を待っている
時でした。
母が言いました。
「わが子よ。私は、この世での望みはもう十分に果たしてしまいました。
この世には、まだしばらく生きていたいと望んでいた一つのことがありました。
それは、死ぬ前にキリスト信者になったお前を見たいということだったのです。
しかし、今、神さまはこの願いを十分にかなえてくださいました。
お前が地上の幸福を捨てて、神さまの僕となった姿まで私は見たのだもの。
もうこの世の中で、何おのぞむことはありません。」
このことを言ってから5日目に母モニカは高熱を出して意識を失い、最後の少し
意識を回復した時に、悲しみにくれているアウグスティヌスと弟を見て言いまし
た。
「お母さんをここに葬っておくれ。」
弟は、母親をこんな旅先で死なせたくないと言いました。
二人の母モニカは言いました。
「この体はどこにでも好きなところに葬っておくれ。
そんなことに心を患わせないでおくれ。
ただ一つ、お願いがある。どこに居ようとも、主の祭壇のもとで私を想い出してお
くれ。」
このようにして、病んで9日目、母が56歳、アウグスティヌスが33歳の時、
その信仰深い敬虔な魂は、身体から解き放たれました。(「告白」第9巻第11章)
私たちは、イエス・キリストの復活を信じます。
そして、私たちも、キリストによって、死んでよみがえることを信じます。
死んで死にっぱなしではありません。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。死んでよみがえった
人も、今、この世に生きている人も、すべての人は、神によって生きているからです。」
一方、私たちには、キリストによるよみがえりを信じる私たちには、神さまから
与えられた特別の恵み、特権とも言えるような恵みが与えられています。
それは、今もこの世にあって生きている私たちは、世を去った人々と「交わる」
ことができる、その方法が与えられているということです。
アウグスティヌスの母モニカが言いました。
「どこに居ようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」
「どこに居ようとも、わたしに会いたくなったら、主の祭壇のもとで、わたしを想
いだしておくれ。そうすると、かならずわたしに会えるから」
私たちは、ただ、自分の思い出の中でだけ、亡くなった方を思い出す、偲ぶだけ
ではありません。
「主の祭壇のもとで」すなわち、イエス・キリストの名によって、祈る時、イエス
・キリストの体と血に与る時、聖餐に与るとき、私たちは、世を去った同じ信仰を
持つ人たちと交わることができます。交流することができるのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
と、イエスさまは教えられました。
イエスさまという「道」を通ってのみ、父である神のもとにいくことができま
す。
神は、すべての者の神です。
イエスさまと神さまを通して、世を去った人々と交わりをもつことができます。
これこそ、私たちに与えられた特別の恵みです。
信仰の遺産を残して下さった、すべての逝去された信仰の先輩との交わりの豊かなひとときを持ちましょう。
〔2010年11月7日 聖霊降臨後第24主日(C-27) 高田基督教会〕