主の御降誕を迎える心の準備

2010年12月05日
マタイ3:1~12 「降臨節第2主日」を迎えます。あと2回の主日を経て、25日、クリスマス、 降誕日を迎えます。 毎年言われていることですが、「降臨節(アドヴェント)」とは、主イエスが来ら れることを待ち望み、主イエスを迎えるために、私たちの心の準備をする期間で す。  さて、聖書によりますと、私たちが、イエスさまにお会いする出来事が、2回 あります。  1度目の出来事(出会い)は、マタイとルカによる福音書に記された「イエスさ まの誕生物語」にあります、幼子イエスとの出会いの出来事です。  2度目の出来事(出会い)は、イエスさまが30歳ぐらいになられたときで(ル カ3:23)、突然、人々の前に姿を現し、ヨルダン川で、バプテスマのヨハネから 洗礼をお受けになり、荒れ野で祈り、悪魔の誘惑を経験され、そして、会堂で、 人々の前で教え始められたという、青年イエスとの出会いです。 しかし、33歳でこの世を去ってしまわれました。  聖書によりますと、3度目の出会いというものがあるのですが、それは「わ たしは、すぐに来る」(ヨハネ黙示録3:11、22:20)と約束された「キリストの 再臨」「よみがえったイエスさま」にお会いすることで、それはまだ体験して いません。それを待ち望む未来にあります。  聖書では、そのように、何回かの出会いがありますが、私たちは、それぞれ、 自分自身は、イエスさまとちゃんと出会っているかどうか、ふり返ってみなけ ればなりません。降臨節というのは、そのことを強く思うときだと思います。  さて、今日の福音書は、30歳ぐらいになり、人々の前に突然、姿を現され た時のことが記されています。  イエスさまが、人々に姿を現される前に、あらかじめ準備されたことが2つ ありました。  その一つは、イエスさまが来られるということは、旧約聖書にある預言の成 就であったのだということです。受け取る人々の間に、何の知識も経験もない、 白紙の状態で、誰も期待していない、関心を持っていない所に、イエスさまが 突然現れても、「あなたは誰?」と言われるだけで、何の意味もありません。  旧約聖書の預言者たちが預言していた、人々が切に切に待ち望んでいた「そ の方」、メシヤ、救い主が、今、ここに来られるのだという予告が必要でした。  バプテスマのヨハネは、その呼出し役、露払いの役割を果たしました。 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改め よ」と言って、悔い改めた人々に、ヨルダン川で洗礼を授けていました。その ヨハネが言いました。 「預言者イザヤによってこう言われている人である。  「荒れ野で叫ぶ者の声がする。  『主の道を整え、  その道筋をまっすぐにせよ。』」(マタイ3:1~4)  これは、イザヤ書40:3~4 に記されている言葉です。  預言者イザヤは、このように言いました。  「呼びかける声がある。   主のために、荒れ野に道を備え   わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。  谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。   険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」  これに続いて、イザヤはさらに叫びます。(9節~11節)  「良い知らせをエルサレムに伝える者よ。   声をあげよ、恐れるな   ユダの町々に告げよ。   見よ、あなたたちの神   見よ、主なる神。   彼は力を帯びて来られ   御腕をもって統治される。 見よ、主のかち得られたものは御もとに従い   主の働きの実りは御前を進む。   主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め   小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」  バプテスマのヨハネは、預言者イザヤが、告げた「その方」が、今、来られ る。預言者イザヤが預言していたことが、今、ここに、実現したのだ。 この方のために、道を真っ直ぐにせよ。道を平らにせよと、人々に宣言しまし た。  イエスさまが、人々に姿を現されるその前に、もう一つの準備の役割を果た したことは、バプテスマのヨハネが、「わたしは、悔い改めに導くために、 あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来られる方は、わたし よりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。 その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持 って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることの ない火で焼き払われる。」(マタイ3:11~12) このように言ったことにあります。 バプテスマのヨハネという人について、少し紹介しますと、  ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物と していた。このような、仙人のような姿かたちをして、修業僧のような、禁欲 生活をし、ユダヤの荒れ野で、「悔い改めよ」と宣べ伝えていました。エルサ レムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、大勢の人々が ヨハネのもとにやって来て、罪を告白し、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼を受 けていました。  当時の民衆は、メシア(救い主)が現れるのを待ち望んでいて、ヨハネについ て、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆、心の中で考えているほどでし た。(ルカ3:15)    このヨハネが、バプテスマのヨハネが、自分のあとから、現れる方を指さし て、自分の口で「わたしのあとから来る方は、わたしよりも優れておられる。 わたしは、その方の前に出ると、ひざまづいて履物をお脱がせする値打ちも ないほどの方なのだ」と言いました。 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、 その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、この方は、 良いものと悪いものを、はっきりと選り分け、裁くことのできる方である」 と言いました。  当時、メシヤだと評判されていたヨハネが、「わたしより優れたかたが現 れる」と言って、後から現れるイエスさまを紹介したのです。  ここで、言いたいことは、イエスさまを迎えるのあたって、バプテスマの ヨハネが重要な役目を果たし、人々に、イエスさまを受け入れるのに相応し い心の準備をさせようとしていたということです。  ユダヤ教のファリサイ派も、サドカイ派も、この言葉を聞いて、ヨハネの 洗礼は受けに来たのですが、真っ直ぐにイエスさまに向き合ったときには、 「お前たちは偽善者だ」「お前たちは神のことを思わないで人の顔色ばかり を伺っている」と、はっきり言われると、いわゆる「総論賛成、各論反対」、 「たてまえとほんね」の問題で、頭ではわかっていても、自分の損得、地位 や立場、人気や名声にかかわることとなると、そこに矢が向けられると、 イエスさまを受け入れることが出来ませんでした。そのために、イエスさ まの歩まれる道は、平らな真っ直ぐな道ではなく、受難と十字架への道と なっていきました。  それでは、どのようにして、私たちは、イエスさまをお迎えしたらいいの でしょうか。どのような心の準備が必要なのでしょうか。  ここで、イエスさまが語られた「10人のおとめのたとえ」をもう一度思 いだして頂きたいと思います。(マタイ25:1-13)  神さまと私たちの関係は、このようなものですというたとえです。  当時のユダヤ人の間では、結婚式は、夜おこなわれていました。夕方から 花婿と花婿の友人たちが、家を出て、花嫁の家に花嫁を迎えに行きます。 そこでしばらく宴会があって、夜中に、花婿は花嫁を連れ、花嫁や花嫁の両 親、親戚や友人と共に行列を作って、花婿の家に向かいます。花婿の家に到 着すると、そこですぐに、婚礼の儀式と宴会が始まることになっていました。  真っ暗な夜道ですから、花婿の家からともし火を持って、途中まで迎えに 出て待つという習慣がありました。それは、その町や村のおとめたちの役割 でした。  10人のおとめが、それぞれともし火を持って、花婿を迎えに出かけて行 きました。そのうちの5人は愚かなおとめで、5人は賢こいおとめでした。 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたたが、予備の油を壷にいれ て用意をしていませんでした。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一 緒に、予備の油を壺に油を入れて、持って行きました。ところが、花婿たち の到着が遅れたので、夜中ですから、皆、眠気がさして眠り込んでしまった。  夜が更けた頃に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしました。そこで、 おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えました。ところが愚かな おとめたちのともし火は、油が切れて火が小さくなっています。賢いおとめ たちに言いました。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消え そうです。』すると、賢いおとめたちは答えました。『わたしの壷には、分 けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来 なさい』と。  愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿たちが到着し、用意ので きている5人のおとめたちの先導で、花婿と花嫁の一行は花婿の家に着き、 おとめたちも一緒に婚宴の席に入り、戸が閉めらてしまいました。  その後で、油を買いに行っていたおとめたちも帰って来て、『御主人様、 御主人様、開けてください』と言いました。しかし主人は、『わたしは、 はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えました。  このたとえの最後は、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、 その日、その時を知らないのだから」というイエスさまの言葉で終わって います。 「油断するな」「油断大敵」などと言います。油断とは、油が切れるこ とです。あらかじめ予備の油を準備しておきなさいという昔のことわざか らきているのでしょうか。  イエスさまは、このたとえの最後に、「目をさましていなさい」と言わ れます。油断をするなということは、いつも心の目をさましていなさいと いうことだと思います。  イエスさまをお迎えする、イエスさまに出会うために、いちばん大切な ことは、心の目を覚ましているということです。  だいじなだいじなお客さんをお迎えする時のことを考えてください。  部屋を片付けて、掃除して、きれいに飾って、玄関も、居間も台所も トイレも、きれいにして、お客さんの来られるのを迎えます。  それと同じように、私たちの心の部屋を片付けて、心の部屋をきれいに 掃除して、心の部屋をきれいに飾って、どうぞいつでもお出でくださいと、 戸を開け放して、どうぞお入り下さいと、イエスさまが来られることをお 待ちすることです。  そのためには、心から悔い改めることであり、謙遜になることであり、 さまざまな欲望やこだわりを捨てることであり、ほんとうに、信仰によ って生まれかわりたいという願いではないでしょうか。  わたしたちの心の部屋に、主が、ほんとうにお生まれ下さるのでなけれ ば、わたしたちが、何度クリスマスを迎えても、私たちの心は空しいまま です。  「良いクリスマスを迎えることができますように!」 〔2010年12月5日 降臨節第2主日(A) 高田基督教会〕