地の塩、世の光
2011年02月06日
マタイ5;13〜16
1 地の塩
塩は、多くの生物にとっても、私たち人間の体にとってもなくてはならないものであることは、私たちは、よく知っています。人間は、塩分を摂らないと死んでしまいます。
塩は、塩化ナトリウムが主な成分で、海水を乾燥させたり、岩塩の採掘によって得られる物質だということを、昔、学校で習いました。日本は、四方を海に囲まれていますから、私たちが使っている塩は全部海水から作っているのだと思っていましたが、日本の塩の自給率は約15パーセントで、大部分はアメリカやヨーロッパからのからの輸入に頼っており、採掘された岩塩を精製したものだそうです。
また、塩にはたくさんの役割があります。調味料として、料理の味付けには欠かせません。塩は、腐敗を防ぐのに使われます。塩漬けや塩倉に入れて、魚や野菜の保存のために使われています。殺菌効果があると言われます。ほかに工業用にも用いられていますし、氷を溶かしたり、雪を融かしたりすることにも使われます。
日本では、清めの塩として、神事や穢れを払うのに使われてきました。(相撲の清め塩、葬式後の清め、など。)
マタイの福音書によりますと、イエスさまは、山の上に集まった多く群衆に、そして近くにいる弟子たちに向かって言われました。
「あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(13節)
イエスさまは、地の塩すなわち岩塩を指して言われます。イエスさまは、「味付け」をする役割をたとえに取り上げて、話されました。
塩には、塩気という味付けをする役割がある、もしこの役割を果たせない塩があったら、何によって、塩味をつけることができるのか。それは塩ではなく、白い砂に過ぎない、投げ捨てられて人びとに踏みつけられるだけだといわれます。
塩には、塩が本来の「塩気」「味付け」という役割を持っている。
そして、同じようにイエスさまの話を聴いている人びと、一人ひとりに与えられているだいじな「役割」がある。神さまに与えられた「果たさなければならない役目」があると言われます。もしその役割を見失ってしまった人は、見捨てられてしまうだろうと言われます。
2 世の光
続いて、イエスさまは、「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(14-16節)
次に、イエスさまは、「光」を例にあげて話されました。私たちにとって、光もまたなくてはならないものです。人類をはじめ、あらゆる生物は、光なしには生きていけません。
私たちの周りには、光にもいろいろあって、太陽光線もあれば、ろうそくの光もあります。現代の科学が作り出す人口の光、蛍光灯やLED証明、レーザー光線にいたるまで、さまざまな光があります。
イエスさまの時代ですから「世の光」と言われるその光とは、部屋の中でともすロウソクやランプの光のような当時の家庭で使っていた灯火のことを言っておられます。当時は、素焼きの器に油をいれて、灯芯に火をつけて部屋の中を照らしていました。
真っ暗闇の中でも、山の上にある町は、人家の灯りがまたたいているのを見た時、そこに町があることがわかります。また、ともし火をともしても、上から升をかぶせるような人はいません。少し高い所、燭台のうえに置いて、部屋中を照らします。
マッチ一本のような小さな灯でも、その光は、部屋中を照らし、人や物を浮かび上がらせ、人に見えるようにさせます。
「あなたがたは、世を照すともしびになりなさい。太陽の光のような大きなものでなくても、小さなともしびとなり、それを高い所に置いて、真っ暗な部屋、すなわち暗闇のこの世にあって、すべてのものが見えるようにしなさい。」と言われます。「あなたがたは、小さなともしびとなりなさい。その役割を果たしなさい」と教えておられます。
3 それぞれに役割
イエスさまが語られた「地の塩、世の光」のたとえを教えを聖書の中で読みますと、いつも思い出す二つの出来事があります。
その一つは、私が、1983年(昭和58年)から6年間、平安女学院短期大学で、チャプレンをしていたその時のことです。
当時、この女子短大には、地方から来ている学生のために、学生寮がありました。150名ぐらいいたと思います。毎週一度、チャプレンがその寮に通って、晩祷をし、お話をしていました。女子寮ですから男子禁制です。チャプレンだけがこの寮に出入りすることができました。
クリスマスや新入生歓迎会やと、年にいくつかの行事があり、学生たちが計画してドンチャン騒ぎをすることもありました。
その当時、全国的に、ディスコ・ダンスが流行っていまして、繁華街では若者が大勢通っていました。女子寮でも何かのプログラムの最後には、みんなでホールに集まって、夜遅くまでディスコを踊ります。窓のカーテンを締め切って、真っ暗にし、蛍光灯には青や綠や紫のセロファンを張って、ムードを出し、大音響で音楽を鳴らして、全員踊り狂います。みんな、ダンスに熱中し、楽しんでいるのですが、ある時、ふと気がつくと、一人の学生が、壁ぎわに椅子を置いて、その上に立って、大型の懐中電灯を持って、踊っている人たちの頭の上を照らして、ぐるぐる回しているのです。いわゆるダンス・ホールによくあるミラーボールの変わりをやっているのです。懐中電灯の光りがチラチラして、ムードをつくります。
気になって見ていますと、30分も40分も、もくもくと一人で懐中電灯を回し続けているのです。
私は、その学生に近づいて「疲れるでしょう。私が代わって回すから、ちょっと降りて、みんなと一緒に踊ってあなたも楽しんで来たらどうですか」と言いました。「いいえ、結構です。これは私の役目ですから、それに、みんな楽しそうに踊っているのを見るのが好きなんです。」と言い、何度言っても降りてきません。結局、最後まで、2時間ぐらい、ずっとミラーボールをやっていました。
それだけの話なのですが、イエスさまが「あなたがたは世の光である」と言われたこの言葉を聞くと、いつもその時の女子学生を思いだし、どんな奥さんになっているだろう、どんな子育てをしているだろうと思い出しています。
もう一つの思い出す話があります。
さらに、私がもっと若いときの出来事です。
教会の礼拝で、「あなたがたは、地の塩、世の光である」というこの聖書の個所から説教をしました。「誰にも、みんな、この世に生まれてきた限り、神さまから与えられた役割があります。自分の役割をしっかり果たしましょう」というような話をしたのだと思います。
その後、しばらくして、元気にしていた一人の信徒の婦人が脳溢血で倒れました。60歳半ばだったと思います。入院していたのですが、半身不随、いや全身不随のような姿で自宅に帰ってきました。2階の窓際にベッドを置いて、上を向いたまま、身動きもできない状態で寝たきりでした。私は、たびたびその方を見舞っていたのですが、ある時、やっと聞き取れる状態で、その婦人は言いました。
「朝から晩まで、一日中、毎日、上を向いたまま寝ています。見えるのは、天上と窓の外の空だけです。私は、子供たちに面倒をかけるばかりです。生きていても何の役にも立ちません。早く死んだ方がいい。死にたい。先生は、前に、どんな人にも神さまから与えられた役割があると言われました。だけど、今のわたしには何もできません」と。
私は、返事に困りました。何と答えればいいのか分からなくて、長い時間沈黙が続きました。その後、ふっと口から出た言葉がありました。
「そうですね。だけど、奥さんにもまだまだできることがあります。自分以外の人のために、お祈りすることができます。まず息子さんや娘さんのために祈ってあげて下さい。そして、教会のために祈って下さい。教会のメンバーの一人ひとりの顔を思いだしながら、一人一人のために祈ってください。そして、牧師のためにも祈って下さい。奥さんは、体は不自由ですが、お祈りする時間だけはいっぱいありますよね。誰よりも神さまにお祈りをするという役割を果たすことができます。奥さんがお祈りして下さらないと、私たちはしっかりしません。家族のため、親戚の人びとのために、教会のため、毎日、お祈りしてください。お願いします。」
息子さんによりますと、お母さんは、亡くなる直前まで、私との約束を守って下さっていたということでした。
4 主イエスの生き方
イエスさまは、「あなたがたは地の塩、世の光となりなさい」と教えられました。塩の効き目をしっかりと生かし、灯りが発する光を輝かせなさいと言われました。そのような生き方を群衆にまた弟子たちに勧めました。
では、イエスさまご自身の生き方は、どうだったでしょうか。
塩は、溶けて流れ出して、すべての食材に塩味をつけます。塩気をつけて食材のうまみを引き出します。塩は、塩そのままのかたちで鍋に残っていては、その役割を果たせません。
イエスさまは、口で人びとに話をするだけでなく、ご自分で、実際に、ゴルゴタの丘で十字架に懸けられ、死んでよみがえり、そこから流れ出したイエスさまの塩味は、世界中の人びとに伝わり、人びとの生きざまを変えました。命を与えることによって、世の人びとを生かす役割を果たされました。イエスさまご自身が地の塩となられました。
ヨハネ福音書の記者はこのように証ししています。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすので ある。」(ヨハネ1:1,4,5,9)
イエスさまは、世の光となって、世界中の隅々まで、照らしました。暗闇と光をくっきりと浮かび上がらせました。
「あなたがたは、地の塩、世の光である。」
「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
私たちが、今、置かれた状況の中で、塩味を発揮して塩の役割を果たす、小さな光を掲げて、世を照らす、そのことを通して、人びとが神さまをあがめることができるようになりますように、小さいことを実行していきたいと思います。
〔2011年2月6日 顕現後第5主日(A) 高田基督教会〕