「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

2011年03月06日
マタイ17:1-9   教会の暦では、今日は「大斎節前主日」という主日で、今週の水曜日、9日から、「大斎節」に入ります。 今年は、復活日が遅く、4月24日に、「復活日」イースターを迎えます。  「大斎節前主日」には、毎年、今、読みましたように、山の上で主イエスのお姿が変わられたという出来事を述べた聖書の箇所が読まれます。  イエスさまは、約3年間、宣教活動をされ、ある時突然、顔をまっすぐにエルサレムに向け、弟子たちを連れてエルサレムに進んで行かれました。  「イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっていると、弟子たちに打ち明け始められた」(マタイ16:21)と、弟子たちに最初に死と復活を予告された直後のことでした。  イエスさまは、12人の弟子たちの中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて高い山に登られました。  この山は、ガリラヤ地方のイエスさまが育たれたナザレの町から10キロほど南東にタボル山というお椀を伏せたようななだらかな山があります。  見渡す限り平らな平原の中に、ぽつんと立った山なので、588メートルの高さの山ですが、高い山に見えます。聖書には、イエスさまがこの時に登られたという山の名前は出てきませんが、このタボル山がそうだろうと古くから伝えられています。  さて、その山の頂上で、弟子たちの目の前で、イエスさまのお姿が変わったという事件がおこりました。どのように変わったのかと言いますと、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記されています。真っ白になり太陽のように光り輝かれたのです。  そして、さらに弟子たちは不思議な光景を目にしました。  そこにモーセとエリヤが現れ、イエスさまと話し合っておられたというのです。  モーセは、イエスさまの時代からさかのぼって、1300年ぐらい昔の人です。エリヤは860年ぐらい前の預言者です。  イスラエルの人たちは、神の律法はモーセを通して与えられたことを知っていますし、エリヤは預言者たちが活躍した王国分裂時代の北イスラエルの最初の預言者です。預言者の中の預言者として知られています。  写真も肖像画もない時代に、弟子たちにその人たちがモーセとエリヤだということがどうしてわかったのか不思議ですが、弟子たちは、その光景からイエスさまが、律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤと一緒に親しく語り合っておられると、とっさに思ったのです。  ペトロは思わず口走りました。  「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と言いました。  ユダヤには、3大祭りの一つで「仮庵の祭り」という祭りがありました。秋の収穫祭で、ぶどうやオリーブの収穫が終わった後、畑に木の枝で編んだ小屋を造り、そこに7日間寝泊まりをするという祭りのしきたりがありました(レビ記23:39)。これは、神に収穫を感謝する祭りでした。  ペトロは、舞い上がってしまって、頭が真っ白になり、自分が何を言っているのかわからなくなり、口走りました。 「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです」と言いました。  そのうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。  すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。  3人の弟子たちはこれを聞いて、思わずひれ伏し、非常に恐れを感じました。  彼らは頭も上げられずひれ伏していると、イエスさまが近づき、彼らに手を触れて言われました。  「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ますと、そこにはイエスのほかにはだれもいませんでした。  主イエスと弟子たちが山を下りてきたとき、イエスは、「わたしが死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちにお命じになりました。  これが、山の上で主イエスのお姿が変わられたという非常に神秘的な出来事です。  マタイだけでなく、マルコ(9:2-13)もルカ(9:28-36)もこの出来事を伝えていますから、初代教会の時代から、イエスさまのことを伝えるだいじな出来事だったに違いありません。  イエスさまが、エルサレムに向かわれるということは、十字架に近づかれるということです。    イエスさまを待っているのは、逮捕され、引き回され、裁判にかけられ、鞭打たれ、いばらの冠を被せられ、ののしられ、嘲りを受け、十字架を担いでゴルゴタの丘まで歩かされ、十字架に釘付けにされ、十字架の上で、苦しみもだえながら死ぬということでした。  いよいよその苦しみの道を歩み出そうとされる時、父である神さまと、み子イエスさまが交信をしておられる場面です。  人となった神の子に、父である神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と、神の愛の確認をし、エールを送っておられます。  どこかで「GPS」という言葉を聞いたことはないでしょうか。  最近の自動車には、運転席の横に、小さなテレビの画面のようなものがついていて、地図が出てきます。  運転者に、車が走っている今の位置を報せてくれたり、行き先をセットしておくと、目的地への道順を教えてくれたりする装置です。  「カーナビゲーション・システム」と呼ばれ、略して「カーナビ」と呼ばれています。この頃は、タクシーなどにもついています。画面だけではなく、女性の声でいろいろ教えてくれます。  このカーナビは、GPSと連動していて、自分の今居る位置を報せてもらっています。 GPSとは、「グローバル・ポジショニング・システム」(Global Positioning System) といい、日本語で 「全地球測位システム」というのだそうです。  現在、地球の周りを80個ぐらいの人口衛星が飛んでいて、30個ぐらいのGPS衛星が、私たちの頭の上、20キロメートルぐらいのところを回っているそうです。その衛星には、正確な原子時計がついていて、いつも地球に向かって電波を送っているのだそうです。 この頭の上にある3つとか4つの衛星からの信号を、GPS受信機が受け取り、受信機に組み込まれた地図の上に位置を報せるという仕組みなのだそうです。  このGPS受信機が、車にあるカーナビであり、この頃では、携帯電話ででも利用することができます。便利な世の中になったものだと思います。  宇宙から発せられる電波信号によって、今居る自分の位置がわかり、そして目的地に向かって、進むべき道を示してくれます。  山の上で、イエスさまは、律法を手にするモーセと、預言の書を手にするエリヤと、親しく語り合っておられました。  ほんとうに一瞬の出来事だったかも知れません。しかし、地図の上に、自分の位置が印されるように、イエスさまの立場が、果たそうとする使命がしっかりと裏付けされ、ご自身の立場を確認しておられたのだと思います。そこには自分の寄って立つ位置を再確認しておられる瞬間だったのではないでしょうか。  さらに、主イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。  光り輝く雲に覆われました。その光景は、イエスさまが神の栄光をお受けになった姿です。  人間となられた神が、一瞬、神となられた、神が神に戻られた瞬間でした。  「すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえました。」  人口衛星から電波信号が送られてきて、GPS受信機が、それをしっかりと受けとめ、あらためて自分の今居る位置を確認するように、天からの声が、神さまの信号が、イエスさまに向かって真っ直ぐ発せられ、イエスさまは、しっかりとこれをお受けになりました。  神さまは、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者。」「おまえこそ、わたしが愛するひとり子、わたしのかけがえのない愛しいひとり子」と、イエスさまのほんとうの姿を、そのすべてを、その立場を、もう一度確認しておられます。  そして、イエスさまも、また、これから果たそうとするご自分の使命を、ここで、はっきり確認されたのです。  「わたしは、わたしである」ということを明らかにすることを、英語で、「アイデンティティ(identity)」と言います。本人であること、自己の存在証明、自己認識、身元、正体などと訳されます。  身分証明書のことを「identity card」と言います。  さて、私たちの「わたしである」、アイデンティティは、どこにあるでしょうか。  「わたしは、わたしである」という、自分が寄って立つ確信はどこにあるでしょうか。  山の上で、イエスさまが神さまとの関係、ご自分の立場、行くべき道を確認されたように、私たちも、イエスさまとの関係を、自分の立場を、生きるべき道を、ぶれないように、つねに確かめなければなりません。  イエスさまからの電波信号は、絶えず、私たちに向けて送られ続けています。私たちは、私たち一人一人が持つ GPS受信機の精度を上げ、しっかりとこの信号を受けとめなければなりません。  水曜日から始まる、「大斎節」は、私たちの信仰生活のぶれを修正する時です。このことに集中し、この時を有意義に過ごしましょう。               〔2011年3月6日 大斎節前主日(A) 高田キリスト教会〕