あらたに生まれなければ
2011年03月20日
ヨハネ3:1〜17
去る3月11日に起こった、東北関東大震災のために、亡く
なった人びと、今なお、行方不明の人びと、愛する人を失い悲しみの中にある人び
と、今なお助けを求めている人びと、避難生活の苦しみの中にある人びとを覚えて、
神さまに心から祈りをささげたいと思います。
ある時、イエスさまの所へ、ファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員でるニコデモという人やって来ました。
夜にやって来たとありますから、人目をはばかって、こっそりやって来たにちがいありません。
そして、イエスさまに言いました。
「ラビ(先生、律法の教師)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるし(奇跡)を、だれも行う
ことはできないからです。」
わかったような言い方をしていますが、イエスさまのことを全然信じていません。
イエスさまは、この人のことを見抜いて、皮肉っぽく、突然、まったく別のことを言
われました。
「はっきり言っておく。人は(だれでも)、新たに生まれなければ、神の国を見るこ
とはできない。」
「神の国」とは、天国、永遠の命という意味です。
神さまとの関係によって得られるほんとうの「しあわせ」、死んでも死なない命と
でもいうのでしょうか。
ニコデモは、びっくりして言いました。
「(人が)、年をとった者が、どうして生まれかわることができるのですか。もう一
度母親の胎内(お腹の中)に入って生まれるというようなことができるでしょうか」と
聞き返しました。
すると、イエスさまは、お答えになりました。「はっきり言っておく。だれでも水
と霊とによって生まれるのでなけれ、神の国に入ることはできない」と。
ニコデモと、イエスさまのこの問答は、完全に噛み合っていません、話しているこ
との次元が違っていることが
わかります。
ニコデモは、「オギャーッ」といって生まれてくる赤ちゃんのことを思っていま
す。動物的な、生物的な誕生、目に見えて肉体的に生まれかわってくる姿を頭に描い
ています。
しかし、イエスさまは、まったくちがう次元のことを言っておられます。そして、
こう言われました。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入る
ことはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
わたしが、『あなたがたは、新たに生まれなければならない』とあなたに言ったこと
に、何を驚いているのだ。風を見てみなさい。風は思いのままに吹く。あなたはその
音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も
皆そのとおりである。」
するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。
旧約聖書が書かれたヘブライ語で、ルアハッ(ruah)、新約聖書が書かれたギリシャ
語で、プネウマ(puneuma)という言葉があります。
両方とも、そのもとの意味は「風の動き」「風」という意味で、「霊」という意味
もあります。
鼻や口から出る風という意味から「息」とも訳されています。
霊とは、一言で定義することは難しいのですが、「神さまから出る目に見えない
力」というような意味を持っています。
昔から、神さまの息が人に吹きかけられると、人は「生きる者になった」、神の生
命の息によって生きる者とされるという信仰がありました。
イザヤ書42:5 に、預言者イザヤはこのように告げています。
「主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。」
イエスさまは、ここで、「風を見てみなさい。風は思いのままに吹く。あなたはそ
の音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者
も皆同じである。」と言い、「プネウマ」という言葉が、「風」と「霊」という両方
の意味を持っていることから、一種の語呂合わせをしておられます。
風は目に見えません。しかし、風には力があります。木の葉をそよがせ、砂を巻き
上げます。台風のように家を吹き飛ばしてしまうような強い風もあります。
風そのものは目に見えなくても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らなくて
も、誰でも風の存在は認めています。
しかし、神さまから与えられる霊の存在は認めようとしません。神さまの霊は、
命であり、風よりももっと大きな
力をもってあらゆるものを動かす力を持っているのに、神さまから送られてくる霊の
働きを認めようとしません。
ニコデモが、イエスさまから「生まれかわらなければ」と言われると、生物的に、
肉体的にしか思いいたることができませんでした。
これに対して、イエスさまは、神さまとの関係で、神さまから出る永遠の生命に至
る霊によって生まれなければ、ほんとうの生まれかわりにはならないのだと言われま
す。
私たちは、洗礼を受けました。父と子と聖霊のみ名によって、水と霊による洗礼を
受けた者がキリスト教信徒と呼ばれます。
洗礼(バプテスマ)は、イエスさまの時代の以前から、ユダヤ人の社会で行われてい
ました。
イエスさまが現れる少し前に現れたバプテスマのヨハネは、ヨルダン川で、人びと
に悔い改めを迫り、悔い改めた人びとに洗礼を施していました。
水によって洗い清めるということから、人の罪や汚れを洗い流すということのしる
しに水が用いられていたと考えられます。
バプテスマのヨハネ以前の預言者たちが勧めた洗礼は、あくまでも「悔い改め」の
洗礼でした。
これに対して、イエスさまは、悔い改めるだけではなく、「生まれかわる」「新し
い生命に生きる」「神の国、永遠の生命を得る」という新しい意味をお与えになりま
した。
神さまを信じると告白し、洗礼を受けた者は、すべてイエス・キリストに与えられ
る永遠の命につながれると言われるのです。
「神さまは、その独り子をお与えになったほどに、この世を、私たちを愛されまし
た。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。
神さまが、御子エス・キリストをこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くた
めではなく、御子によってこの世が救われるためです。」 (16,17節)
どの時代にも、世界中のどこにでも、苦しいこと、悲しいこと、理不尽なこと、私
たちの理屈では説明できないようなことが起こります。
「神も仏もないものか」と、思わず叫びたくなるような時があります。
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分、関東大地震(マグニチュード7・9)が起
こりました。東京市内を中心にあちこちで火災が発生し、津波が襲来しました。東京
では、通信、交通機関、ガス、水道、電燈すべて停止し、流言が飛び交い人心は動揺
しました。
今の時代と社会の状況が違いますから、比較はできませんが、死者9万1344名、全壊
消失した家屋は、約46万5千戸だったと言います。
それは。ウイリアムズ主教が大阪から東京に宣教の拠点を移して、ちょうど55年
目。ウイリアムズ主教が辞任し、アメリカ聖公会の第2代目の主教として、ジョン・
マキム師が、北東京地方部の主教に就任してから30年目のことでした。
母国からの援助を受け、土地を購入し、礼拝堂や会館を建て、やっと聖公会の教会
も形が整えられてきたと思われる時期でした。
この関東大地震によって、東京市内、横浜地方の教会とその関係施設は倒壊し、ま
たは火災によって、失われてしまいました。
聖三一教会、深川真光教会、聖救主教会、聖パウロ教会、聖ヨハネ教会、諸聖徒教
会、聖愛教会、神田基督教会、月島教会など焼失してしまいました。
この時、失意のどん底にあって、マキム主教は、母国アメリカの聖公会伝道局に向
かって電報を打ちました。
「全ては失せたり、残るは主にある信仰のみ」( All gone but faith in God. )
と、電報を打ちました。
「すべては失ってしまった。残っているのは主にある信仰のみ。」
この「主にある信仰のみ」という信仰とは、「神さまは、その独り子をお与えにな
ったほどに、世を愛されました。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を
得るためです。神さまが、御子エス・キリストをこの世にお遣わしになったのは、こ
の世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためです」という、神の愛
と救いに対する信頼であり、いいかえれば十字架と復活の信仰を意味します。
ゆるぎない神への信頼、信仰を、全身全霊をもってそのことを心の底から確信する
ことができるためには、「水と霊によって、新たに生まれかわら」なければなりませ
ん。それこそが、神の国を見ることなのです。
もう一度、今なお、東北、関東にあって、地震、津波、原発により、苦しみ、悲し
む人びとに、思いを馳せ、心を向けて、神さまによる慰めと力づけが与えられますよ
うお祈りしたいと思います。
〔2011年3月20日 大斎節第2主日(A) 聖アグネス教会〕