「見える」と言っている、だからあなたがたの罪は残る。

2011年04月03日
ヨハネによる福音書9章1節〜41  今日の福音書は、ヨハネによる福音書の九章全体から学ぶことになっています。「罪とは何ですか」ということがテーマになっています。  ヨハネによる福音書9章は、長い個所ですが、全体は、いろいろな人物が登場するドラマのようになっています。7つの場面、7幕からなっているドラマです。  第一幕  最初の場面は、イエスさまと弟子たち、そして生まれつきの盲人が登場する場面です。(1〜7節)  イエスさまは、ある町で、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。この人は、道ばたに座って物乞いをしていました。  この生まれつき盲人の人を見て、弟子たちがイエスさまに尋ねました。  「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」  この当時のユダヤ人の伝統的な信仰では、病気やさまざまな不幸の出来事が起こるは、その人が罪を犯したからだ、罪の結果だと信じられていました。  出エジプト記20章5節に、モーセの十戒の第二戒が記されていますが、そこで、偶像崇拝を禁じ、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」とあります。ユダヤ教の因果応報の教えとしてよく知られています。  そこで、弟子たちはこのような質問したのでした。  イエスさまは、お答えになりました。  「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」  こう言ってから、イエスさまは、地面に唾をし、唾で土をこねて、その盲人の目にお塗りになりました。  そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。  そこで、彼は、言われたようにシロアムの池に行って目を洗うと、目が見えるようになって、帰って来ました。  奇跡が起こったのです。  第二幕  第2の場面は、近所の人たちと、この盲人だった人が登場する場面です。(8〜12節)  この人は、小さい時から道ばたに座って物乞いをしていたことは、近所の人々もよく知っています。  その人たちが、  「この男は、道ばたに座って物乞いをしていた人ではないか」と言いました。  「そうだ。その人だ」と言う人もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う人もいました。  本人は、「わたしがそうなのです」と言いました。  そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と 尋ねました。  その盲人だった人は、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』  と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」と答えました。  人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、盲人だったこの人は「知りません」と言いました。  第三幕  第3の場面は、盲人だった人と、ファリサイ派の人々が登場します。(13〜17節)  近所の人々やこの人が盲人で道ばたに座って物乞いをしていたことを見て知っていた人々は、前に盲人であったこの人を、ファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。  イエスさまが土をこねてその目を癒されたその日は、「安息日」でした。  十戒の第四戒では、安息日には、「いかなる仕事もしてはならない」と厳しく戒められています。  そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねました。盲人だった人は言いました。  「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」  すると、ファリサイ派の人たちの中には、  「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、  「どうして罪のある人間が、そんなしるし(奇跡)を行うことができるだろうか」と言う者もいました。  このようにして、ファリサイ派の人たちの間でも意見が分かれ論争が始まりました。  それは、イエスとは誰なのだ、何者なのかという論争でした。  そこで、人々は盲人であった人に、もう一度尋ねました。  「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思っているのか。」  生まれつき盲人だった人は「あの方は預言者です」と言いました。  第四幕  第4の場面は、ファリサイ派の人々と、盲人だった人の両親が登場します。(18〜23節)  目を癒された本人が、「あの方は預言者です」と言っても、ユダヤ人たちは、この人について、 すなわち、イエスさまについて、ほんとうに盲人であった人の目を癒し、目が見えるようになった ということを信じませんでした。そこで、盲人であったその人の両親を呼び出して尋ねました。  「この者は、あなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかった者に違いないか。 それが、どうして今は目が見えるのか。」  盲人だった人の父親と母親は、答えて言いました。  「これは、わたしたちの息子で、生まれつき目が見えなかったことも間違いありません。 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、わたしたちには分かりません。  誰が目を開けてくれたのかも、わたしたちには分かりません。  どうぞ、本人にお聞きください。もう大人なのですから。自分の起こったことは自分で話すでしょう。」  両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからでした。ユダヤ人たちは既に、 イエスをメシアであると公に言う者がいれば、ユダヤ教の会堂から追放すると決めていたからでした。  盲人だった人の両親は、そのことを知っていました。 ですから「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのです。  第五幕  第5の場面は、再びファリサイ派の人々と、盲人だった人が登場します。(24〜34節)  そこで、ユダヤ人たち、すなわちファリサイ派の人々は、盲人であった人をもう一度呼び出しました。  そして言いました。  「神の前で正直に答えなさい。われわれは、あのイエスという者が、罪ある人間だということはわかっているのだ。現に安息日に律法に従わずに人の病いを癒したりしているからだ。」  生まれつき盲人だった人は答えました。  「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つわかっていることは、 生まれつき目が見えなかったわたしが、今は見えるようになったということです。」  すると、ファリサイ派の人々は言いました。  「あの者は、お前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」また同じことを尋ねました。  生まれつき盲人だった人は答えました。  「もうお話ししたのに、あなたがたは、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。 あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」  これを聞いて、ファリサイ派の人々は、この男にののしって、たいへんな剣幕で言いました。  「お前はあの者の弟子だが(あの者の側の者、あの者の味方だが)、われわれはモーセの弟子だ。 われわれは、神がモーセに語られたことを知っている(神がモーセを通して与えられた律法を知っているし、 それを忠実に守っている)が、しかし、あのイエスという者が、どこの出身でどこから来たのかはわからない。」  すると、盲人だった人は言いました。  「あの方は、わたしの目を開けてくださったのに、あの方がどこから来られたかわからないとは、 実に不思議なことです。 神は、罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは教えられています。 しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えない者の目を開けた人、そんな不思議を行った人がいるということなど、 これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ (神によって遣わされた方でなければ)、生まれつき目が見えなかったわたしの目を見えるようにするなどということは、おできにならなかったはずです。」  ファリサイ派の人たちは、「お前は、全く罪の中に生まれた明らかに罪人なのに、われわれに向かって教えようというのか」と言い返し、盲人であったこの人を、会堂の外に追い出してしまいました。  彼は、ユダヤ教の会堂から追放されてしまいました。  第六幕  第6の場面は、イエスさまと、目を見えるようにして頂いた盲人が登場します。(35〜39節)  イエスさまは、盲人だった人が会堂の外に追い出されたことをお聞きになりました。  そして、その盲人だった人に出会うと、  「あなたは、あなたの目を癒した人を信じるか」と言われました。  盲人だった人は言いました。  「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」  イエスさまは言われました。  「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」  盲人だったこの人は、「主よ、信じます」と言って、イエスさまの前にひざまずきました。  イエスさまを礼拝する者となりました。  第七幕  最後の場面、第7の場面になります。イエスさまとファリサイ派の人々が向かい合っています。(今日の福音書には省略されています。)(40〜41節)  イエスさまは言われました。 「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」  イエスさまと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、この言葉を聞いて、  「われわれは、ちゃんと見えている。それともわれわれも見えないとでも言うのか」と言いました。  イエスさまは言われました。  「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』と、あなたたちは言っている。  だから、あなたたちの罪は残る。」 弟子たちが、イエスさまに「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。 本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねたことがきっかけになって、「罪とは何か」というテーマで、長い7つの場面が展開されています。  イエスさまがお答えになった、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」という言葉の意味が、それ以降の、盲人だった人への質問と答えから説明されていきます。  「生まれつき盲人だった人」は、最初、「その方が誰か知らない」、「分からない」と言い、その次に、「預言者です」と言い、さらに「分からないはずがありません」と言い、そして「信じたいのです」と言い、最後には「信じます」と告白して、イエスさまの前にひざまずきました。  一方、ファリサイ派の人たちは、イエスさまを、肉眼の目だけで見ようとします。  自分たちの思い込みだけで判断しようとします。  「安息日を守るか守らないか」、言い換えれば律法の物差しでしか、神のみ心を知ることが出来ません。  「あの者はどこから来たのか」と言って、血統や出身地で人を見ようとします。  「罪人であるお前がわれわれを教えようとするのか」と面子と体裁にこだわります。  そして、最後には、自分たちの意見に合わない者を追放してしまいます。  「見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなる。」  イエスさまは、同じヨハネの福音書の3章17節では、  「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と 言われました。  イエスさまご自身が来たのは裁くためではない。しかし、イエスさまがこの世に来られることによって、来られたこと自体が「裁き」となってしまうのです。  イエスさまを前にして、この方が誰であるか、見えるか見えないか、この方を信じるか信じないかで、より分けられることになるということです。  ほんとうのイエスさまは、肉眼の目だけでは見えません。むしろ、イエスさまが誰だかわからないとへりくだって素直に認める者には罪がありません。イエスさまの方から現れて下さって、分かるようにしてくださいます。  しかし、見えないのに「見える」と言い張る、「見えている」と思い込んでいる、 自分たちの理解こそが正しいと言い張るところに、かえってほんとうのイエスさまが見えなくなってしまうのです。  そこに罪があります。    「罪とは何ですか」 今日、私たちに問われています。             〔2011年4月3日 大斎節第4主日(A年) 於・京都聖マリア教会〕