「わたしは主を見ました。」

2011年04月24日
ヨハネ福音書20:1〜18  イースターおめでとうございます。イエスさまのご復活を祝い、心から感謝と賛美をささげましょう。  今年のイースターの福音書は、「ヨハネによる福音書20章」が選ばれていますので、ここからご一緒に学びたいと思います。  私たちは、聖書を通してイエスさまのことを知るのですが、その聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があります。 同じように、イエスさまのご生涯、活動、教えなどが書かれ、伝えられているのですが、それぞれに書かれた時代が少しちがいますし、背景の教会の状況や信仰に持ち方によって、伝えたいこと、強く訴えたいことが違っています。  ヨハネによる福音書は、西暦100年頃に編集され、書かれたものだと言われていますから、イエスさまが亡くなって約70年ぐらい経ってから書かれたことになります。  イエスさまは、十字架にかけられ、手と足に釘打たれ、苦しみもだえながら、「渇く」と言われ、最後に「すべて成し遂げられた」と言って、頭を垂れ、息を引き取られました。  その日は、安息日の前日で、夕方から安息日に入りますので、それまでに葬らなければなりません。 アリマタヤのヨセフという人が、ローマの総督ポンテオ・ピラトに願い出て、イエスさまの遺体を十字架から下ろし、香料を塗って亜麻布に包み、新しいお墓に納めました。 夕方、安息日に入る時間が迫っていたので、一緒にいた弟子たちや女の人たちも、涙にくれながら、それを見届け、悲しみと不安、そして、絶望のどん底に打ちひしがれながら、それぞれの家に帰っていきました。  1日おいて3日目、週の初めの日の朝早く、暗いうちから家を出て、マグダラのマリアは、イエスさまのお墓に急ぎました。  横穴式になったお墓には、大きな石で蓋がされていたのですが、ところがその石が取りのけられていました。 マグダラのマリアは、びっくりして、弟子たちのところに報せに走りました。  ペトロともう一人の弟子のところへ走って行って、  「イエスさまのお墓の石の扉が取りのけられていて、イエスさまがお墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 と息せき切って伝えました。  ペトロともう一人の弟子は、墓に向かって走りました。  二人が墓の中に入ると、イエスさまを包んだ亜麻布が脱ぎ捨てたように置いてあるのが見えました。    イエスさまの頭を包んでいた覆いは、少し離れた所に丸めておいてありました。    他の弟子たちも入って来て、見て、お墓が空っぽであるこの様子を確認しました。  かつて、イエスさまは、必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の預言の言葉を、語られたのですが、弟子たちはまだ理解していませんでした。  驚きと不安と恐れを抱きながら、弟子たちは家に帰って行きました。   弟子たちが帰って行った後、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。  泣きながら身をかがめてお墓の中を見ますと、イエスさまの遺体が置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。  一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。  天使たちが、  「婦人よ、なぜ泣いているのか」とたずねました。  マリアは、  「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」と言いました。  こう言いながら後ろを振り向くと、イエスさまが立っておられるのが見えました。  しかし、マリアには、それがイエスさまだとは分かりません。イエスさまは言われました。  「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 マリアは、園丁だと思って言いました。  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」  すると、そのイエスさまが、「マリア」と言われました。  彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言いました。それは「先生」という意味です。  イエスさまは言われました。  「わたしに、すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。  わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」  マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、  「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えました。  ヨハネによる福音書では、イエスさまのよみがえりの最初の出来事をこのように伝えています。  第一に、マグダラのマリアと弟子たちが、空っぽになったお墓を発見したという出来事(1〜8節)、  そして、第二に、泣きながらお墓に残ったマグダラのマリアが、よみがえったイエスさまにお会いしたという出来事(9節〜18節)が記されています。  ヨハネ福音書では、復活されたイエスさまに最初にお会いしたのは、弟子たちでもなければ、立派な学者や宗教家でもない、何人かの人が集まっている時でもない、マグダラのマリアという女性が、一人だけ居る時だったと伝えています。  では、このマグダラのマリアという女性は、どのような人だったのでしょうか。  ルカによる福音書(8:1-3)によりますと、    「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。12人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」とあります。  「7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」とは、悪霊にとりつかれた苦しんでいた女性で、その前の個所では、「罪深い女なのに」と思われていた人だった(8:39)とも言われています。  しかし、イエスさまに出会い、イエスさまに救っていただき、イエスさまに従って仕えていた女性だったことがわかります。    もう一度、マグダラのマリアが空っぽになったお墓の前で立ちつくしている場面に目を向けてみますと、  空っぽの墓の第一発見者であるマリアは、墓の外に立って泣いていました。  泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が見え、神の声を伝えました。  「婦人よ、なぜ泣いているのか」と。  マリアは言いました。  「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」  こう言いながら後ろを振り向くと、男の人が立っているのが見えました。しかし、マリアには、それがイエスさまだとは分かりません。  イエスさまは言われました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、この男の人が園丁(庭師、墓守)だと思って言いました。  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」  その時、イエスさまが、マリアの後ろから「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」(先生)と言いました。  今日の聖書の個所の中で、マグダラのマリアには、「わたしにはわかりません」と3回も繰り返されています。  マリアは、イエスさまに出会い、イエスさまに悪霊を追い出していただいて救っていただき、それ以後、ずーっとついて歩いていました。イエスさまを慕い、尊敬し、救い主だと信じて、イエスさまのことは何でもわかっているつもりで、従ってきました。  しかし、ここで、マリアは、イエスさまを見失ってしまったのです。  あの十字架の死によって、そして、空っぽになったお墓によって、イエスさまは、完全にマリアから姿を隠してしまわれました。  イエスさまからすると、マリアがイエスさまを探しているそのこと自体を拒絶されました。  「誰を捜しているのか。」イエスさまを捜していることはわかっています。  この問いは、さらに「どんなイエスを捜しているのか」「おまえが捜しているのは、どんなイエスなのか」と、問い続けられます。  マグダラのマリアが知っているイエスさま、やさしい方、いつも自分を癒してくださる方、愛してくださる方、主と仰ぎ、この方のためならどこまでも従おうとしていた方でした。  それは、マグダラのマリアが目で見、耳で聞き、身体で感じたイエスさまでした。  マリアの小さな頭の中の知識と経験に基づいた、人間の頭の中で管理できるようなイエスさまでした。  今、ここで、マリアは、そのようなイエスさまを見失い、途方にくれ、絶望的になり、立ちすくんで泣いています。  そして、その時、「よみがえったイエスさま」が、マリアの後ろに立っておられるました。  しかし、マリアには、それがイエスさまだとは分かりません。  マリアは、園丁(庭師、墓守)だと思って、言いました。  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」  この言葉は、まだ過去の経験と知識の延長線上にあって、自分の頭の中で管理できるように思っていることを表しています。引き取ってお世話できると思う程度のイエスさま捜しでした。  イエスさまは、マリアが見ている方向とは180度反対の方向におられます。  イエスさまを見失って自己中心的な発想を捨てきれないマリアに、ここで、イエスさまが、「マリア」と、マリアの名前を呼ばれました。マリアは、その声に振り向いて、よみがえられたイエスさまに向かい合いました。  ここで、マリアにとって、大転換が起こりました。  「マリア!」 イエスさまは、マリアを固有名詞で呼ばれたのです。  眠っている子どもを呼び起こすように、意識がここになく、ぼーっとしている人に、ハッとさせて気づかせるように、その人の名を鋭く呼ばれたのです。「マリア!」と。  マリアがびっくりして振り向き、180度視線を転回した所に、よみがえったイエスさまが居られたのです。その姿を、マリアは、はっきりと認めたのです。 「ラボニ」(先生)と応えました。  親子でも、夫婦でも、友人でも、何でもすべてわかっているつもりだったのに、わからなくなったというようなことがよくあります。  いつまでも自分の頭の中で、小さな子どもの世話をし、管理しているのと同じように思い込んでいて、裏切られた、わからなくなったと、私たちの人間関係の中でも、ショックを受けたり、落ち込んだりすることがよくあります。  イエスさまとは誰なのですか。イエスさまとは何者なのですか。弟子たちも、イエスさまに従った女性たちも、主であると言い、救い主である、メシヤである信じて従ってきました。イエスさまと弟子たちとの間には愛と信頼の交わりが成り立っていました。  しかし、イエスさまが十字架につけられ殺されたその時、弟子たちは逃げ去ってしまい、女の人たちは、ただ遠くから見守っているだけでした。  この時、弟子たちとイエスさまとの交わりは断たれてしまいました。イエスさまの死によって弟子たちや女の人たちは絶望し、イエスさまとの関係は切れてしまったのです。  人間たちは、イエスさまを見失ってしまったのです。人間は、十字架によってイエスさまを見失ってしまいました。  マグダラのマリアの姿は、そのことを代表しています。  マグダラのマリアが今まで知っていたようなイエスさまは、十字架によって、ここで完全に否定され、「分からなく」なり、180度視線をめぐらし、ふり返った時、イエスさまの復活の出来事、よみがえりのイエスさまに正面から向かい合うことが出来るようになったのです。  よみがえったイエスさまが「マリア」と呼びかけ、マリアが「ラボニ」と応えた、この応答によって、いったんは肉体の死によって阻まれた人格的な愛と信頼の関係が、ここで回復したということができます。  マグダラのマリアに代表されるように、弟子たちは、イエスさまに従った女性たちは、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの支配から生命の支配へ、ほんとうの愛と信頼の世界へ転換させられたのです。    よみがえったイエスさまは、弟子たちを「兄弟」と呼び、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と言って、神さまと私たちの間にあった断絶または壁が取り除かれたことを宣言されました。  イエスさまが神さまを父と呼ばれるように、私たちも同じように父と呼ぶことができるようになったという宣言です。  よみがえられたイエスさまを見つけたマグダラのマリアの立っている所に、私たちの体を、私たちの思いを置いてみたいと思います。  私たちは、まだ、私たちの知識や経験に頼り、自分が勝手にイエスさまとはこんな方だと思い込んでいるイエスさまにだけ目が向いていないでしょうか。  わたしの頭の中で管理できるイエスさま、面倒を見ている気持ちの延長線上にイエスさまを置いていないでしょうか。  今日、今、私たちの後ろに立って、私に、あなたに、「なぜ、泣いているのか、」「誰を捜しているのか」と問いかけ、あなたの名前を呼んでおられるイエスさまに気づいてください。  そのためには、振り返り、180度視線を転換しなければ、そこに立っておられるイエスさまを見ることはできません。  私たちが気づかないイエスさまが、私たちに見えていないイエスさまが、あなたの後ろから、あなたの名を呼んで、呼びかけ続けておられます。         〔2011年4月24日 復活日(A) 於・新宮聖公会〕