弟子たちとトマスに現れたイエス
2011年04月30日
ヨハネによる福音書20:19〜29
イエスさまを葬ったお墓が、空っぽになっていたということが発見されたのは、安息日が明けた週の初めの日でした。
それから、一週間が経って、次の週の初めの日の夕方、弟子たちは、イエスさまを「十字架につけろ」と叫んで十字架にかけて殺してしまったユダヤ人たち恐れて、一軒の家に集まり、その家の戸に鍵をかけて息をひそめていました。
そこへ、よみがえられたイエスさまが現われました。
彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
そして、手とわき腹とをお見せになりました。
弟子たちは、これを見てイエスさまだと気づき喜びました。
そこで、よみがえられたイエスさまは言われました。
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。
そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われました。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
この場面(19節〜23節)は、よみがえったイエスさまが、弟子たちの集団の真ん中に現れ、手と足と脇腹の傷痕を見せて自己証明をなさった上で、平和の挨拶をかわし、あらためて弟子たちに派遣の命令をくだし、息を吹きかけて聖霊を与え、さらに、人びとの罪を赦す権威をお与えになりました。
このような出来事が記されています。
その次の場面(24節〜29節)では、よみがえられたイエスさまが、弟子の一人であるディディモ(双子)と呼ばれるトマスに現われたという出来事が記されています。
このトマスという人は、イエスさまの12人の弟子の一人であったということが、わざわざ記されています。
さらに、このトマスという人は、あのマルタとマリアの兄弟ラザロが病気で死に、その直後イエスさまが、「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と言われた時に、このトマスという弟子は仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、いっしょに死のうではないか」と言いました。(ヨハネ11ノ16、14ノ5)
トマスという人は、イエスさまと一緒に苦難を負おうとする気迫と情熱に満ちた人だったと思われます。
よみがえられたイエスさまが、弟子たちの所に現れた時、トマスはその場に居ませんでした。
トマスが外から帰ってくると、ほかの弟子たちが、「おれたちは主を見た」「よみがえったイエスさまを見た」と口々に言って騒いでいました。
それを聞いたトマスは言いました。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決してそんなことは信じない」と。
さて、さらに8日が経って後、弟子たちはまた家の中におり、戸も窓もみな鍵がかけてありました。この時は、トマスも一緒にいました。
そこに、よみがえったイエスさまが現れて、弟子たちの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われました。
それから、トマスに向かって言われました。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に、その指を入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは、びっくりして、すぐに答えました。
「わたしの主、わたしの神よ。」トマスは、思わず信仰を告白する言葉を口走りました。
するとよみがえられたイエスさまは、トマスに言われました。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
この第二の場面では、実証主義者、懐疑主義者と言われるトマスが、復活したイエスさまに出会い、信仰告白をしたという出来事が記されています。
ヨハネ福音書は、西暦100年頃に書かれたと言われています。イエスさまが亡くなって、約70年が経った頃です。
12人の弟子たちや、イエスさまに従ったきた女性たちによって、教会が生まれました。
教会というクリスチャンのグループ、それはキリスト教共同体と言われます。
ヨハネは、当時の生まれたばかりの教会、共同体と、信徒一人ひとりの個人との関係、信仰の在り方を通して、主の復活がどのようにして受け入れられたのか、信じられるようになったのかということについて伝えようとしているように思います。
すなわち、今日の福音書の第一の場面では、よみがえられたイエスさまは、まず、弟子たちの集まり、共同体にあらわれてくださいました。そして、次にその一員であるトマスという一人の人、個人の前に立たれたということです。
私は、青年の頃、まだ、教会に通い始めて間がない頃、こんなことを考えたことがあります。
神さまを信じるということは、要するに神さまと自分の問題だと。教会など行かなくても、自分の部屋で聖書を読んで、自分で賛美歌を歌って、お祈りしてたらいいのではないかと思ったことがあります。
日曜日ごと寒いの朝早くから起きて、電車賃払って、毎回、献金袋はまわってくるし、説教は長くて退屈やしと思っていました。
青年会や日曜学校やと、いつもなにかさせられるしと、教会を批判し、実際に、何ヶ月か教会に行くのを止めたこともありました。
その度に教会から誘いの電話がかかってきて、ふとんの中で聖書を読んで、お祈りして、賛美歌のテープを聴いてと、やってみたこともあるのですが、すこしも喜びや信仰の高まりのようなものは感じられず、結局、なぜか教会から離れることはできませんでした。
気がついたら、牧師になっていました。
神学校に入ってから、神さまからの働きかけに気がつかないと、自分が自分がと、どんなに力んでみてもひとりよがりの思い上がりで、ほんとうの信仰の喜びには達することができないのだということを知りました。
神さまからの働きかけ、聖霊の働きは、まず、第一に教会という共同体に与えられるのだということです。
そして、第二に、よみがえりのキリストは、弟子たちの一人、キリストに従う者の個人に現れてくださったということです。
よみがえりのイエスさまは、最初、マグダラのマリアにあらわれ(20:11-18)、そして、トマスにあらわれました。そして、ペテロにあらわれました(21:15-19)。
空っぽのお墓の第一発見者であるマグダラのマリアは、イエスさまが見えなくなった、ご遺体がどこかに失われてしまったといって、泣いていました。
よみがえられたイエスさまは、マリアが捜しているマリアの前の方にはおられず、マリアの後ろに立っておられました。
「マリア」と後ろから呼びかけられ、振り向いて「ラボニ」(先生)と、応えました。
マリアは弟子たちの所に走っていって、「わたしは主を見ました」と伝えました。
トマスは、よみがえったイエスさまなど信じないと言ってました。
このトマスのところに、よみがえられたイエスさまが現れ、手と脇腹をつきだしてお見せになりました。トマスは、ひれ伏し「わたしの主、わたしの神よ」と言って、信仰告白をしました。
わたしたちは、教会につながる、共同体の一員、メンバーとして神さまの恵みにあずかり、聖霊を受け、派遣される者となり、感謝と喜びにあふれることができる者であるとともに、もう一方では、わたしたち一人ひとりが、神さまの前に立つ者であることを忘れてはなりません。
神さまは、わたしたち一人ひとりに、生きていく中で、課題を与え、試練を与え、呼びかけ、気づかせ、立ち上がらせ、押し出して下さいます。
わたしたちは、共同体の祈りである「礼拝」において、一緒に感謝と賛美の声をあげるとともに、一人、自分の部屋で、誰もいないところで神さまと向かい合うことがなければ、私たちの信仰は深まりません。
よみがえりのイエスさまが、最後にトマスに言われた言葉に心を向けたいと思います。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
先ほど言いましたように、ヨハネ福音書は、イエスさまが亡くなられて70年ほど経ってから編集され、記されています。
この当時の教会には、イエスさまに直接お会いし、証言できる人たちはもういなくなっていました。教会のメンバーは、みな2代目、3代目の世代に入り、誰かから間接的にイエスさまが行われた奇跡のことや語られた教えについて聞き、信じるよりほかに方法はありません。
トマスのように、証拠や証明を求めて、実証しようと思っても、それはできません。
さらに、復活した主にお会いし主を信じるということは、証拠で示して実証しようとすることとは、まったく反対の方向にあります。
それから約2千年が経ち、今、主のご復活を信じる私たちもヨハネの時代の初代教会の信徒たちと同じように、「見ないで信じる人」の幸いにあずかろうとしてます。
空っぽのお墓を見れば信じることができるのでしょうか。最初、弟子たちには、主のご復活を信じることはできませんでした。理解することができませんでした。
しかし、よみがえりのイエスさまが、イエスさまのほうから、私たちの前に立ち、または私たちの後ろに立って、あなたの名を呼んでよびかけてくださるのです。わたしたちは、「主よ」と言ってふり返る時、主イエスがそこにおられることに気づきます。
今日の主日は、先週、イースターを祝ったご復活の日から、ちょうど8日目、私たちの前に、またはあなたの後ろに、イエスさまが立って「あなたがたに平和がありますように」と呼びかけて下さっています。
弟子たちが主を見て喜んだように、私たちも大きな声で感謝と賛美の礼拝をささげ、これに応えましょう。
〔 2011年5月1日 復活後第2主日(A) 京都聖マリア教会 〕