神は忍耐強く待っておられる

2011年07月17日
マタイ13:24〜30、36〜43 1 聖書は「性善説」   中国の思想家、孟子は、「性善説」を唱えました。人は生まれながらにして善となる可能性を備えている。その本性は善である。では人が生まれながらに善であるのに悪事をはたらくのはなぜか。それはおかれた環境によるのだと言いました。  これに対して、荀子という人は、「人の性は悪なり、その善なる者は偽(ぎ)なり」と説きました。偽(ぎ)とは作為のことであり、後天的努力のことをいいます。人は無限の欲望を持ち、放任しておけば、他人の欲望と衝突して争いを起こし、放任しておくと人間の性は悪と言わざるをえないと言うのです。  すべての人間は、本来、生まれてきたときから善なのか、悪なのか。私たちはそのようなことをよく議論したり、考え込んだりします。  とくに、今、世界中で起こっているさまざまな事件や争い、残酷な出来事のニュースを見るたびに、そのように思います。人間の歴史を見ても、どの時代でも戦争が繰り返され、他のどんな動物に比べても人間ほど残虐なものはないといわれます。  さらに、最近、世界中の人々が何とかしなければと考え、切実な思いで叫ばれている環境問題、自然破壊、地球温暖化の問題にしましても、このままでは地球が危ないと言われます。とくに、今、私たちの国に起こっている原子力発電における放射能汚染の出来事は、世界中の人びとを震え上がらせています。科学の力によって、私たちの生活は便利になり豊かになったのですが、一方では人間の力では制御できない恐ろしい事態になっています。すべての動植物の生命にかかわり、このままでは、すべての生命が死に絶えてしまうのではないかという不安がよぎります。  そのことは、誰も頭ではわかっているのですが、いざ、自分の問題になれば、国と国、企業と企業、人と人、自分のエゴのために、欲望を満たすために、ちょっとまってくれと言い合っています。  このように人間の歴史をふり返り、現在の状況を見る時、果たして人間の本性、人間の根底にある性質というものは、善なのか悪なのかますますわからなくなります。  聖書では、人間をどのようにとらえているでしょうか。  聖書の人間観は、「性善説」なのでしょうか、「性悪説」なのでしょうか。  旧約聖書の最初の創世記に、創造物語といわれる「神話物語」があります。  そのお話の最初に、神は宇宙を創造され、光と闇、昼と夜、大空と大地を造り、草と木を造り、水の中に魚、空には鳥、陸にはあらゆる生き物、獣や家畜を造られました。そして、最後に、人間を創造されました。  「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された。」(創世記1:27)とあります。  そして、一つ一つの創造の業が終わった時に「神はこれを見て、良しとされた」とあり、最後に全部を造り終えた時、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)と言われました。  聖書には、性善説や性悪説という言葉は出てきませんが、この物語から推察しますと、この世のものすべてのものが「良いもの」として創造され、人間も「極めて良いもの」として創造され、存在させられているのだいうことになります。そういう意味で、聖書は、「性善説」に立っていると言えます。 2 なぜ、この世に悪があるのか   ところが、このように、神さまが、せっかく人間を「良いもの」としてお造りになったのに、なぜ、こんなに醜いことが続き、悪がはびこるのでしょうか。悪人が栄え、ほんとうに良い人たちが苦しい思いやつらい目に会わなければならないのはなぜでしょうか。  これは、誰でも感じることですし、よく質問されることです。  創世記の創造物語をもう少し読み進みますと、神さまは、人間を造って良しとされました。とくに人間を創造されるついては、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。人間は神と同じではありません。しかし、神にかたどって、神に「似たもの」として造られました。神の本性に似たもの、神が持っておられる性質に近い大切なものを持って造られました。  神が持っておられる最も大切な性質、本質の一つに「自由」というものがあります。全知全能の神は、何ものにも束縛されない完全な自由をもっておられます。その大切な「自由」を人間にお与えになりました。自由とは、右か左か、するかしないか、いくつかの選択肢があって、そこから自分の意志で選ぶことができる「選択の自由」が与えられています。神のように完全な自由ではありませんが、他の動物に比べると、大きな自由が与えられています。自分の意志で、自分が判断して、するかしないか、行くか行かないか、言うか言わないか、あらゆることに自分で判断し選ぶことができる、自分で決めることができるというところに自由があります。道が一つしかなく、この道を行くしかないというような所には自由はありません。その状態は、自由の反対は強制です。  聖書の創造物語には、「自由」という言葉は出てきませんが、そのことの大切さが描かれています。  2番目の創造物語ですが、神は、アダムをエバを造り、エデンの園に置きました。その時に、「園のすべての木から取って食べてもよろしい。ただし園の中央に生えている善悪の知識の木からは、決して食べてはいけません。食べると必ず死んでしまいます」と言われました。 触れてもいけない、これを食べると目が開け、神のように善悪を知るようになる。そして、その木の実はいかにも美味しそうで、目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていました。まず、エバが蛇に誘惑されて、これを食べ、そして、アダムもこれを食べました。  神は、人間を良いものとしてお造りになりました。それならば、食べてはならない実がなるような木を置かなければよかったのです。それとも、アダムもエバも手が届かないような所に置いてくれればよかったのです。蛇など近づけなければよかったのです。その実が美味しそうでなく、飛び上がるほど渋いか、まずかったらよかったのです。  しかし、すべてが食べても良い木一色であれば、そこには選択の自由はありません。強制でしかありません。  神は、人間に食べても良い木の実と、食べてはいけない木の実を同じ高さにおいて、どちらも食べられるような状態にして、そして、「これからは取って食べてはいけません」と言われたのです。ここに自由があります。自分の意志で選ぶことができる自由が与えられているのです。  食べるか食べないかは、アダムとエバが決めなければなりません。アダムもエバも、頭では食べてはならないと命じられている、教えられている木の実であることはちゃんと知っていたのです。  アダムとエバは、与えられた自由を使いました。彼らは、誘惑に負けて食べてはならない木の実を食べるという方を選んだのです。その行為は、神でない者が神のようになろうとする欲望であり、神の意志に背くことであったのです。  聖書が言いたいのは、人はこの与えられた自由を、神の意志と違う、反対の方を選んだのです。結果的に神に背くという方を方を取ったのです。このようにして、人は神に背くという罪をおかし、すべてのものの悪を招きいれてしまったのだということです。  アダムとエバのこの物語は、3千年も昔の人々によって伝えられた神話物語ですが、単に遠い昔の物語ではありません。神と私たち人間の根本的な関係、すなわち人間の本質について語っている物語なのです。「人間とはこんなものですよ」と語っているお話です。  アダムとは、私たちのことであり、エバとは私たちのことをことを言っているのです。  私たちは、神によって大切な「自由」を与えてもらっています。  私たちが生きているということは、いつも何かを選び、するかしないかを決め、その自由を使っています。その時に、どちらが良いか、悪いか、頭ではちゃんとわかっています。教えられているのです。  しかし、頭ではわかっていても、いつも反対の方を選んでしまっているのです。神の意志に背いてばかりいるのです。その結果、神との断絶を招いてしまっています。 3 毒むぎのたとえ   さて、このような私たち、自分自身の姿を思い描きながら、今日の福音書に目を向けて見ましょう。  天国、神の国について、イエスさまはたとえを語られました。  天国とは、神の支配、神の意志が徹底されている状態のことを言います。先ほどのアダムとエバの物語でいえば、食べてはならない木の実を食べてしまった、その前の状態です。アダムもエバもちゃんと神の命令を聞き、これに従っていました。食べてよい木の実を食べて平和に過ごしていました。ところが、この状態が壊れてしまったのです。  ある人が畑に種を蒔きました。登場人物の説明は37節以下に説明されています。良い麦の種、良い種だけを蒔いたのです。神さまがすべてを良しとされということと同じです。  しかし、人々が眠っている間に、人々が心に油断している間に、敵が来て、言いかえれば、誘惑するもの、そそのかすもの、悪魔、サタンが来て、そこに、毒麦の種をまいて行ってしまいました。種が芽を出し、成長し、穂が出るまで、その途中では良い麦か毒麦か区別がつきません。その実を見てはじめて毒麦であることがわかります。あわてて「毒麦を抜き集めましょう」と訴えます。 4 神は忍耐強く待っておられる   しかし、それでも、神さまはいわれます。  「いや、毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」と。そして  「刈り入れの時まで両方とも育つまでそのままにしておきなさい。「借入の時」とは「世の終わりの時」「裁きの時」のことです。その時には良い麦と毒麦とが選り分けられると言われます。  神は、ご自分を指して、「わたしを信じなさい。わたしに聴き従いなさい、わたしを礼拝しなさい」と言われます。私たちは、いつもそのことを求められ、命令されています。しかし、一方では、人間一人一人に与えられた「自由」を大切にされます。神を信じるか、信じないかということさえ、選ぶ自由を与え、礼拝するかしないかということにも、その人が選ぶことができるようにし、与えた自由のいくえを見守っておられます。私たちはいつも頭ではわかっているのです。しかし、神さまのみ心とは反対の方を選んでしまうのです。  それでも、神は「毒麦を集めて焼き払ってしまえ」とは言われません。神は、忍耐強く待っておられます。じっと辛抱して待っておられます。それは、ご自身が与えておられる「自由」が人々によって行使されているからです。  それどころか、神はそのひとり子を世に与えて、その愛を表してくださいました。刈り入れの時を前にして、そでもまだ、神との断絶を回復するために、神の御子の命を与え、十字架につけて、架け橋をつくってくださっています。  刈り入れの時は、いつなのか、私たちにはわかりません。その時まで良い麦なのか、毒麦なのかわかりません。  今、私たちは、はたしてどちらなのでしょうか。神さまが私たちに与えて下さっている「自由」を、私たちはどのように使って、毎日の生活をしているでしょうか。考えてみたいと思います。 〔2011年7月17日 聖霊降臨後第5主日(A-11) 守口復活教会〕