天国は次のようなものである。

2011年07月24日
マタイ13:31−33,44−49  ある信者さんが私に言いました。  「先生、よく言いますやろ。無人島へ流されることになった時、一冊だけ本を持って行けることになったら、どの本を持っていくかって。」  「ああ、そんなこと聞いたことがあるね。」  「わたしやったら、やっぱり聖書を持って行きますな。」  私は、へーっ、この人は、そんなに熱心なクリスチャンやったかなと、心の中で思 いました。その人は、続けて言いました。 「無人島へでも行かんと、聖書なんてなかなか読めませんで。」  笑い話みたいですが、ほんとうにあった会話です。    クリスチャンにとって、聖書こそだいじ、聖書こそ生きるための指針、聖書こそ生 きるための羅針盤、聖書は神さまのみ言葉だと知っていても、なかなか聖書に生きる ことはできません。 現代人に比べて、古代の人びと、昔の人びとは、自分が住んでいる地方や、その町 や村に伝わる民話、昔話、言い伝えを小さい時から教えられ、それを頼りに生きてい ました。  多くの情報を持ち、知識や経験をあふれるほど持っていて、時代の大きな流れに飲 まれている私たち現代人には、聖書から学ぶということが難しくなっているように思 います。  テレビのトークショーや新聞のニュースやにすぐに反応しても、聖書のみ言葉に反 応しない。どんなに時代が変わっても変わることのない大切な原点を見失っては、私 たちは滅んでしまいます。  さて、そのような私たちの姿を意識しながら、今、読みました今日の福音書、マタ イ13章31節から、一緒に学びたいと思います。  イエスさまは、「天国」のことを教えるのに、多くの場合、「たとえ」をもって話 されました。「たとえを用いないでは何も語られなかった」(マタイ13:34)とありま す。  今日の福音書では、  「からし種のたとえ」(31-32節) 「パン種のたとえ」(33節) 「宝が隠された畑のたとえ」(44節)  「良い真珠のたとえ」(45-46節)  「網にかかった魚を選り分ける漁師のたとえ」(47-49節) という、5つの小さな「たとえ話」が語られています。  そして、そのいずれも、冒頭に「天の国は」と記されていますから、これらのたと えのテーマは、「天国」とか「天の国」だということがわかります。イエスさまは、 この天国について語られるとき、「天国とは何か」と言って、定義したり、抽象的な 言葉で説明したり、哲学的な言葉を使って論理をまくしたてて、説得して「わかった か」といわせるような話し方はなさっておられません。  イエスさまの話を聴いている群衆にわかりやすいように、小さな子供たちにもわか るようなお話、「たとえ」として語っておられます。日常の生活の中のどこにでもあ るような材料を取り上げて話しておられます。  約2千年昔のその当時の人たちにはわかるやさしい話だったのでしょうが、時代が 変わり、場所が変わって、現在の日本の都会に住む私たちには、反対に解説がなけれ ばわからなくなっているものもあります。また、イエスさまは、いっぺんに、一ヶ所 で、このような「たとえ話」をなさったわけではなく、あちこちで、ちがう場所で話 されたものが、同じテーマの話の断片が集められ、編集されたものだとも言われま す。  イエスさまは、「天国とはこのようなものですよ」と、やさしく「たとえ」で話 しておられるのですが、少しだけ解説を加えたいと思います。  最初のたとえは、「天の国は、からし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔け ば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来 て枝に巣を作るほどの木になる。」というたとえです。  からし種とは、クロガラシという植物で、その種から油が採れるために栽培されて います。水が十分に与えられると茎の高さが4メートル、5メートルにもなり、4月 から6月ごろには黄色い花をつけ、そのあとにさやにつまった黒い種がとれます。ゴ マ粒よりももっと小さい種です。明らかに野菜の一種なのですが、大きくなるので、 木のようになるといわれています。  このたとえは、神さまと私たちとの関係は、その発端がどんなに小さな目立たない ようなものであっても、結末、結果は、想像もつかないほど大きくなるということが 語られています。さらに、神様との関係が小さなところから始まっても、最後には大 きな大きな結果が約束されているということです。私たちのような小さな者、神さま との出会いもそんなに劇的でもない、目立たない、ごく平凡な信仰、その小さな者 と、神さまとの出会いが、だからと言って、現在の小ささに失望することはない。神 さまから受ける喜び、希望、愛、恵みの大きさを思うとき、想像も出来ないほどの成 長と収穫を見ることができます。神さまとの関係、天国とはそういうものですよと言 われます。  第2に、「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜる と、やがて全体が膨れる。」(33節)  パンを作るときに、最初のごく少量のパン種、ふくらし粉、イーストが、粉全体を 大きくふくらませるということを言っています。1サトンは12.8リットルと言います から、38.3リットルのメリケン粉に入れて、一晩寝かせて発酵させると粉全体を大き くふくらませ、たいへんな大きさになります。このたとえも「からし種」と同じよう に、最初の状態と、その結果の大きさの違いを比べて教えておられます。  3番目のたとえ、44節を御覧下さい。  「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。これ見つけた人は、 そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買 う。」  イエスさまの時代にはこういうことがよくありました。立派な建物や、信用して預 けておける銀行がない時代ですから、人々はお金や宝石など財宝を手に入れると、壺 に入れて、土を掘り、これを埋めてかくしました。それは、泥棒や強盗、兵隊がやっ て来て何もかも奪い取られてしまう、略奪から財産を守るもっとも安全な方法でし た。ところが、その持ち主が死んでしまって、土の中に埋められた財宝はそのまま残 され、土地も人の手に渡ってしまうというようなこともありました。  たまたまその土地を耕していた農夫が、雇われ農夫、小作人が、この財宝を偶然に 発見し、掘り出しました。その土地は自分のものではありません。その財宝を自分も のにするためには、まずその土地を自分のものにしなければなりません。そこで、そ の宝物をそこに隠しておいて、家に帰り、今まで持っていた物を全部売り払ってお金 をつくり、地主にかけ合って土地を買いました。天国とはそのようなものだと言われ るのです。  この人が、宝物を発見した時の喜びはどんなものだったでしょうか。かれがこの宝 物を手にいれたのは、労働の成果ではありません。長い間こつこつと汗水流して働い て得た財宝ではありませんでした。まさかと思う、予想もしなかった宝物を見つけた のです。そして、この宝物はこの人の人生を変えてしまうものでした。今までの生き てきた成果ともいうべき自分の持ち物を全部売ってでも、手に入れなければならない 価値のあるものでした。  4番目のたとえは、「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっ かり売り払い、それを買う。」(46節)  このたとえも3番目のたとえと同じです。このたとえは、金持ちの商人が、高価な 真珠を見つけると、それを手に入れるために、この人が蓄えた全財産を手放すという 話です。これは、まずこの真珠の値打ち、価値に驚き、それがわかると、これを手に 入れるために一切を捨てもいいと思う心が描かれています。発見の喜びと手に入れた いと願う気持ちが、この「たとえ」に表されています。  最後に、「魚を獲る漁師が、網を湖に投げ降ろして、いろいろな魚を集める。網が いっぱいになると、漁師たちは、これを岸に引き上げ、座って、良いものは器に入 れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」(47-49節)というたとえで す。  網を下ろすと、さまざまな魚が網にかかります。しかし、レビ記11章10節には、 「鰭(ひれ)や鱗(うろこ)のないものは、海のものでも、川のものでも、水に群がるも のでも、水の中の生き物はすべて汚らわしいものである。その肉を食べてはならな い」と律法によって禁じられ、その当時のユダヤ人は守っていました。この掟に従っ て、漁師たちは、網にかかった魚を選り分けます。ここに、終末の審判と悪いものが 受ける結果が強調されています。網の中の魚、すなわち、神さまの網にかかった魚で も、最後には、選り分けられて投げ捨てられることを暗示しています。  聖書の中に、「天国」という言葉はよく出てきますが、この「天国」という言葉 は、「神の国」、「永遠の命」と同じ意味に用いられているということです。またさ らに「神の義」、「救い」ということとも同じ意味を持っています。それは、私たち が信仰生活を送る上で、「究極の目的」であり、私たちが信仰生活の中で、一生懸命 求めているもの、求めなければならないものだということです。  マタイ6章31節において、イエスさまは、  「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い 悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これ らのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神 の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明 日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その 日だけで十分である。」と、言われました。  私たちは、イエスさまを信じると言いながら、毎日、朝から晩まで、『何を食べよ うか』『何を飲もうか』『何を着ようか』というようなレベルのことばかりを思い悩 み、今日のことだけではなく明日のことまでも思い悩んでいます。  そのようなレベルのことを求めて、お祈りをして、それが信仰だと思っています。 イエスさまは、そんなことは思い悩むな、それよりも、もっとだいじなものを求めな さい、それは、何よりもまず、一番先に、神の国と神の義を求めなさいと、はっきり と言われるのです。  はたして、私たちは、何よりも優先して、誰よりも真剣に「神の国すなわち天国」 を求めたことがあるでしょうか。求めているでしょうか。  天国すなわち神の国というと、それは死んでから行くところ、死んだ人が行くとこ ろだと思っていますので、それはもっと先の問題だと考えているのではないでしょう か。  ルカによる福音書にこのような場面があります。(ルカ17:20,21)  ある時、ファリサイ派の人々がイエスさまの所に来て尋ねました。 「神の国はい つ来るのでしょうか」と。すると、イエスさまは答えて言われました。  「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるもの でもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」  神の国(天国)とは、絵で描いたように、どこかにあって、また、いつ、どのように して来るのかというようなものではないと言われるのです。神の国とは、神さまが支 配する国、神さまのみ心が、隅々まで、細かいところまで徹底して、行き渡っている 状態をいいます。  そして、それは、今、イエスさま自身によって、もたらされている、実に、今、あ なたがたの中にいるではないかと言われるのです。  言いかえれば、それは、神さまと私たちとの関係のことであり、イエスさまと私た ちとの関係が、どのような状態にあるかということです。  イエスさまは、天国すなわち神の国とは、ご自分の鼻の頭を指さして、「わたし だ、わたしだ」、「わたしがここにいるではないか」、「わたしがいる所が天国であ り、神の国なのだ」「わたしが一緒にいるこの状態が、この場が天国なのだ」と言わ れます。イエスさまが言われる天国は、絵に描いたようなものではなく、具体的で、 もっともわかりやすいものです。  「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世に お遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではな く、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わ しになりました。ここに愛があります。神がこのようにわたしたちを愛されたのです から、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 いまだかつて神を見た者はいませ ん。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださ り、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネの手紙一 4:8-16)  天の国、すなわち神さまとの関係を密接に持つことにより、イエスさまを通して神 の愛を知り、私たちがイエスさまを心から愛することにより、神さまとの関係は、か らしだねやパン種のように、どんどんと成長し、与えられた恵みを発見し、喜びにう ち震え、過去のどのような生き方よりも大きな価値を見出し、最後に神さまの選びを 受けます。これこそ天国です。  そのような天国、すなわち神の国を、頭に思い描きながら、イエスさまが語られ た、今日の「たとえ」の一つ一つに、自分を当てはめてみて、真剣にほんとうの天 国、神の国を求めたいと思います。 〔2011年7月24日 聖霊降臨後第6主日(A年-12) 西大和聖ペテロ教会〕