神のことを思わず、人間のことを思っている

2011年08月28日
マタイ16:21〜27 1 ペトロという人    イエスさまには、12人の弟子がいました。それぞれ、イエスさまに呼び出され、イエスさまに付いていった人たちでした。決して特別の地位や才能が買われてイエスさまの弟子になった人たちではありません。魚をとる漁師であったり、徴税人であったりという平凡な人たちでした。  ペトロは、バルヨナ・シモンとか、ケファとか呼ばれ、いちばん最初にイエスさまの弟子にされた人でした。それまではガリラヤ湖で魚を取る漁師をしていました。兄弟アンデレと共に、イエスさまに付いて来なさいと言われて、何もかも捨てて付いて行った人でした。  ほかの弟子たちと一緒に、イエスさまにいちばん近いところにいて、教育され、訓練されてきた人でした。神さまのことについて、いろいろな教えを聞く時も、数々の奇蹟を目の当たりにする時も、いわばいちばん前の席で見たり聞いたりしていたに違いありません。  ペトロは、弟子団を代表する兄貴分のような立場にあって、何かにつけて弟子たちを代表してイエスさまに答えてきました。  先週読まれた福音書によりますと、イエスさまは、弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになり、弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人もいます。『預言者エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『預言者エレミヤだ』という人もいます。『そのほかの預言者の一人だ』と言う人もいます」と、口々に答えました。するとイエスさまは言われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」するとペトロが一同を代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。  この答えに対して、イエスさまは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とお答えになりました。ペテロの答えは百点満点で、イエスさまは、これ以上ない言葉でほめられたのです。 2 正しい信仰告白と無理解  このことがあってすぐ、イエスさまは、ご自分について、重大なことを弟子たちに打ち明け始められました。それは、「御自分は必ずエルサレムに行って、ユダヤの長老、神殿の祭司長、ユダヤ教の律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている」という受難と復活の予告でした。  弟子たちが、「あなたこそ救い主、生ける神の子です」と、百点満点の信仰の告白ができた、その直後に、弟子たちの予想とはまったく違って、イエスさまは、自分は間もなく殺されだろうということを打ち明けたのです。  ペテロたちは、これを聞いて驚きました。仰天しました。  イエスさまは、なぜ、このような予告をなさったのでしょうか。  私たちには、その後に起こっている出来事を知っていますから、予告されていることの意味や内容が、ある程度わかります。  イエスさまは、予告された通り、ユダヤの役人やローマの兵隊に捕らえられ、一晩中引き回された後、鞭打たれ、侮辱を受け、十字架を担がされ、そして、最後に、ゴルゴタの丘に連れていかれ、十字架に釘付けにされ、磔になって、疲労と衰弱、苦しみもだえながら息を引き取りました。しかし、それだけでは終わりませんでした。3日目の朝早く、イエスさまを葬ったお墓に行ってみると、お墓は空っぽになっていて、「あの方はよみがえったのだ」と知らせる者がいました。  イエスさまは、そのような出来事が起こること、今から確実に苦難と死に向かって進んで行くということを、はっきりと予告されたのです。この第1回目の予告に始まって、3回も同じ予告なさったと聖書には記されたいます。  それは、これから起ころうとする苦しみと死の出来事が、たまたま、偶然に起こったことではなく、また、単にユダヤ教の指導者の嫉妬や抹殺計画、群衆の扇動によって引き起こされた彼らの計画によってそうなってしまったのではない、これは、神さまのご計画によるのだ、神の意志、神の御心によって行われるのだということを明らかにしておられるのです。  言いかえれば、神さまがこの世の人々を救おうとされる膨大な救済計画のために、その愛するひとり子をこの世に与え、その命を与えることによって、人々の罪の代償とし、神さまと人々との和解をはかろうとされる救いの計画が、今まさに神さまの意志によって行われようとするのだということでした。  しかし、ペテロたちには、そのほんとうの意味が理解できませんでした。  これを聞いたペトロは、イエスをわきへ連れ出して、いさめ始めました。  「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言いました。  すると、イエスさまは振り向いてペトロに言われました。  「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」  ペトロにとっては、「とんでもないことです。死ぬなんてことは簡単に言わないでください。あなたは救い主なのですから、あなたにはまだまだしなければならないことがあるでしょう。そんなことは滅多なこと言わないでください」ということだったのだと思います。  「イエスは振り向いてペトロに言われました。」この時のイエスさまのまなざしは、たぶん、恐いような厳しい目でペトロをご覧になったと思います。  「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」  いちばん弟子であるペトロに対して、イエスさまは「サタン」と悪魔呼ばわりされたのです。 3 なぜペトロはサタンなのか。   なぜ、ペトロは、サタンなのでしょうか。ペトロのどこがサタンなのでしょうか。  大斎節の初めにかならず読まれるマタイ4章の「イエスが荒れ野で40日40夜断食をされ、悪魔の誘惑に合われた」という聖書の場面を思いだして下さい。  イエスさまは、荒れ野に導かれ、祈りの時を持たれました。断食しているイエスさまのところに、悪魔、「誘惑する者」が現れ、「お前が神の子ならこの石をパンに変えてみよ」、「神の子ならここから飛び降りたらどうだ」「わたしの前にひれ伏して拝むなら、この世のすべてのものを与えよう」と次々と誘いました。飢えと渇きの肉体の限界の中で、神さまとイエスさまとの関係を邪魔するものとして、サタンが現れ、イエスさまを試みたのです。この時、イエスさまは、「悪魔よ、退け」と言って、これをことごとく追い払いました。  さて、イエスさまは、「サタン、引き下がれ」と叫ばれました。 しかし、今、ペトロは、イエスさまに対して、あの荒れ野における悪魔、誘惑する者、サタンの役割を、今、果たそうとしているのです。  イエスさまは、間もなく自分は殺される、そして3日目によみがえると予告されたことに対して、ペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と口走りました。  ペトロはイエスさまを愛しています。尊敬しています。この方こそ私を救って下さる方だと思って、付いて歩いています。ペトロは、イエスさまをわきに連れていって、「滅多にそんなことを言ってもらっては困ります」といさめました。  ペトロは、イエスさまを愛し慕っているからこそ、そう言ったのです。ペトロがしていること言っていることは、いたって常識的で、当然のことだったと思います。  しかし、神さまとイエスさまから見ると、とんでもないことを言っていることになります。それは、神さまの計画を変更させようとすることであり、これに従おうとして、一人の人間として葛藤しておられるイエスさまを試し、逃げ出させようとする、引き戻させようとする、神の意志に背かせようとする言葉であり、仕草であったのです。  ペトロは、イエスに対して、「あなたはメシヤです。あなたは生ける神の子です」と言いました。あなたは救い主です。神が使わされたキリストです。そのことはわかっています。固く信じています。 しかし、ペトロが考えている救い主、メシヤ像というのは、当時のユダヤ人が持っているメシヤ像と変わらないものでした。 それは、現実の社会や生活を変えてくれる方であり、具体的には、ダビデ王のような強い王の再現でした。ローマ帝国の圧政、ユダヤ王の横暴、ユダヤ教指導者たちの堕落、ユダヤの民は、経済的にも、社会的にも、宗教的にもあらゆる面で困窮し、疲れ果てています。今こそ、ダビデ王が再来して、人々を圧迫し苦しめている者どもを蹴散らし、ほんとうの指導者の下に住みよい生活を与えてくれる、そのようないたって現実的なメシヤ、救い主が現れることを頭に描いていたのです。  しかし、神さまがなさろうとする救いの計画は、そのようなものではありませんでした。具体的に目に見える姿は、ただ、弱々しく、何の抵抗もせず、黙々とひかれ、十字架につけられ、苦しみもだえながら息を引き取った神の子イエス、ダビデ王とはまったく正反対の、当時の人びとには想像さえできないメシヤ、救い主の姿でした。  諫めているペトロの言葉は、神の御計画を、またこれに従おうとするイエスの意志を変更させようとするものでした。  「おまえは、神のことを思わず、人間のことを思っている。」  「おまえたちは、わかっていない。神の御計画のことを思わないで、自分たちの人間的な常識でしかわたしを見ていない、過去の知識や経験、自分の欲望のことばかりを中心にして考えている。わかっていない」と、ペトロをはじめ弟子たちの無理解を叱っておられるのです。 4 ペテロに見る私たちの姿   さて、この大事な場面でのペトロとイエスの対話を見て、私たちの姿はどうでしょうか。ペトロは弟子たちを代表しています。そして、また私たちの信仰、わたしたちとイエスさまの関係が問われています。  誘惑する者、悪魔、サタン。それは神さまから私たちを遠ざけようとするもの、神さまのみ心に背かせようとする力をいいます。  それはどこにいるのでしょうか。誘惑する者、悪魔、サタンは、光と陰のように、すべてのものについて廻っています。  イエスさまご自身、この「誘惑する者」、悪魔、サタンとつねに闘っておられました。もっとも信頼する弟子ペトロが、百点満点の信仰告白をした直後、このペトロが「誘惑する者」、悪魔、サタンとなって、イエスさまに忍び寄っているのです。  では、私たちにとって、誘惑する者、悪魔、サタンとは、どんな存在でしょうか。神さまに向き合おうとする時、それをはばむ力、神さまのみ心に従おうとする私たちを、引き戻させようとするなにか。イエスさまとの関係を邪魔するもの。もっとも身近な人間関係の中で、お互いに「誘惑する者」、悪魔、サタンの役割を果たし合い、いや、ひょっとすると自分自身の中に、「誘惑する者」、悪魔、サタンがひそんでいるのではないでしょうか。  「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」  今日のこのみ言葉を、深く心に刻み、悪魔に向かって勇ましく闘いたいと思います。 〔2011年8月28日 聖霊降臨後第11主日(A-17) 西大和聖ペテロ教会〕