「どこでパンを買えばよいだろうか」
2015年03月15日
ヨハネ福音書6:4〜15
新約聖書の中には、たくさんの奇跡物語があります。主イエスは、病気の人をいやしたり、悪霊に取り憑かれている人のを癒したり、嵐を静めたり、水の上を歩いたり、死んだ人をよみがえらせたり、さまざまな奇跡を行っておられます。
その中でも、5千人の人々に食べ物を与えたという奇跡物語は、私たちにとって最も理解しにくい難しい奇跡だと思います。5つのパンが5千人の人に分け与えられるという場面がどうしても頭の中に映像化できないのです。
私たちの手には、4つの福音書があります。いずれも主イエスの教えや行い、生まれてから十字架につけられ、復活するまでの出来事を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の編集者が、信仰の目で見て、書き綴ったものです。私たちはこの4つの福音書を通して、「イエス・キリストとは誰か」「イエス・キリストとは何者か」を知ることができます。
マルコ福音書が書かれた年代とヨハネ福音書が書かれた年代とでは、40年ぐらいの隔たりがあるのですが、その間にある福音書も含めて、マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも、全部の福音書が、この「5千人に食べ物を与えた」という奇跡物語を記しています。
それは、初代教会において、この奇跡物語が何よりも重大な、大事なものとして語り伝えた出来事だったということを表しています。
主イエスが行われたこの奇跡について、4つの福音書の言葉を一つずつ読み比べてみますと、少しずつ取り扱いに違いがあることに気づきます。そこの所を通して、その編集者が、ここを知ってほしいと、このことを主イエスは言っておられるのだということを明確にしようとしています。
今日は、他の3つの福音書と比較しながら、ヨハネによる福音書が語る「5千人に食べ物を与えたという」奇跡物語から大事なことを学びたいと思います。
最初に、それは「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とあります。これは、明らかに主イエスが、捕らえられ、十字架につけられた「時」が意識されています。
過越の祭りというのは、モーセがエジプトの地からイスラエルの民を救出する時、神はエジプトに疫病を流行らせ、神の命に従って羊の血を戸口に塗ったイスラエル人の家を疫病が過ぎ越して行ったという出来事がありました。それによってイスラエルの民は、エジプトを脱出することができました。何千年も昔のこの出来事を記念するためにこの祭りが行われていました。
ささげられようとするキリストの血と、この過越の祭りを通して記念する羊の血が「救い」を思い起こさせる重要なカギとなっています。
この出来事も過越の祭りに近い日でした。
主イエスは、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、弟子の一人フィリポに言われました。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」
マタイ、マルコ、ルカの福音書では、いずれも、弟子たちが主イエスに「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」(マルコ6:35、36)と言ってお願いしています。
ヨハネは、主イエスが「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」とあります。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか。」
という言葉を言いかえますと、
「この人たちに与えるパンは、どこへ行けば得られるのか」
「この人たちはどこからパンを得ることができるのか」
「この人たちに誰がパンを与えるのか」
という問いです。弟子たちに向かって激しく挑戦するかのように問われます。
フィリポは答えました。
「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」
1デナリオンは、労働者の1日分の日当です。今の日本の給与を置き換えてみますと、ずいぶん大きな金額になります。200日分の給料、約7ケ月分の給料です。莫大な量のパンを買うことになります。それでも足りないでしょうと言いました。
ここでわかることは、主イエスが言っておられるパンと、弟子たちが言っているパンと、同じパンの話をしていながら、次元が違っている、話が噛み合っていないということに気づきます。
主イエスは、そのすぐあとで言われました。
「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)、「わたしは天から降って来た生きたパンである」(6:51)と。
「主イエスは御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」と記されているのはそのことでした。
ところが、フィリポやほかの弟子たちには、そのことがわかりません。パンというと、小麦粉を焼いて作ったパン、お腹が空いた時に食べてお腹をふくらませるパン、目に見えるパンのことを言っています。
言いかえれば、主イエスが与えようとするパンと弟子たちがほしいと願っているパンとは違っているということです。
そこへ弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言いました。「ここに大麦のパン5つと魚2匹があります。この少年が持っていました。この少年はそれを差し出しましたけれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
すると、主イエスは、「人々を座らせなさい」と言われました。そこには草がたくさん生えていました。男たちはそこに座りましたが、その数はおよそ5千人であったと記されています。男だけで5千人、女性や子どもを入れると1万人を越える大群衆だったことがわかります。
そこで、主イエスは、少年が持っていたパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。
この言葉は、聖餐式の時に、パンとぶどう酒を聖別する時の言葉と一緒です。5千人、いや1万人以上の人たちが、このパンと魚を食べ満腹しました。主イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。パン屑を集めると、人々が5つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、12の籠がいっぱいになりました。
ここに奇跡が起こりました。これを見たある人たちは、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。またある人たちは、イエスを連れ出して王にしようと考えました。
ヨハネ福音書の特徴の一つは、このように、主イエスが与えようとするものと、弟子たちや群衆が願い求めるものとが大きくすれ違っているということを言いたいのです。
主イエスは、魂の救い、霊の飢え、心の渇きを満たすものを与えようとされます。それを与えるのは「わたしだ」、「わたしが命のパンを与える人だ」と言い、さらに「わたしがそのパンだ」「わたしが命のパンだ」と言われるのです。
ところが、あくまでも弟子たちは肉のパン、肉体の空腹を満たし、食欲を満たしてくれるパンを、2百デナリオンで買えるパンを人々に与えようとしました。主イエスの言っておられることが、全く理解できません。
しかし、その行き違いを越えさせる「しるし」が与えられました。それは、目の前にいる大群衆に、目に見えるパンを、そして、すべての人を満腹させる奇跡を見せました。
この方は普通のかたではないことがわかりました。
この世に来られた預言者であると告白し、ある人は、この方を担ぎ挙げて、王、支配者にしようとしました。
さて、私たちと主イエスとの関係はどうでしょうか。
私たちと主イエスとの関係はすれ違っていないでしょうか。
私たちが、主イエスに求めているものは何でしょうか。
それは、主イエスが与えようとするものと、同じでしょうか。
私たちは、毎日、「主よ、主よ、神さま、神さま」と言います。
ほんとうに何を求めているのでしょうか。何を願っているのでしょうか。何を下さいとお願いしているのでしょうか。どうして下さいと求めているのでしょうか。
それは、主イエスが、私たちに与えようとしているものと一致しているでしょうか。
私たちは平和を求めています。人が人を殺すことがないように、人の財産を奪うようなことがないように、みんな願っています。世界中のひとが平和を求め、平和、平和と叫んでいます。しかし、現実では、なかなかほんとうの平和を体験することができません。
差別や人の人格を傷つけることがないことを願っています。
環境汚染や自然破壊があってはならないと、みんな願っています。
しかしそれは、無くなりません。ますますひどくなっています。
それは、私たち一人一人の霊が、魂が、心が飢えているからです。貧困だからです。干からびているからです。
神が、主イエスが、私たちに与えようとするものを、ちゃんと受け取っていないからです。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」あなたは、そのパンをどこから、誰から得ようとしていますか。
今日、私たちは問われています。