罪の贖いのための供え物

2015年03月26日
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。 (ヘブライ人への手紙5章〜4節)  教会の暦では、今日は、「大斎節第5主日」という日です。  次の次の主日、4月5日には、イースターを迎えます。そして、その3日前、4月3日の金曜日には、イエスさまが十字架に付けられ、息を引き取られた「受苦日」を迎えます。  大斎節とは、この主イエスの死とよみがえりを記念するための準備の時ですが、その日が、だんだん近づいて来ます。  今から約2千年前に、イエスさまが、十字架につけられて亡くなったことが、今、ここに生きていて、生活している私たちと、どんな関係があるのか?   イエスさまが十字架につけられて亡くなったことが、なぜ、私たちの救いになるのか。  キリスト教の最も大切な教え、「救い」ということについて考えてみたいと思います。  そんな理屈はどうでもいい。ただ、神さま、神さまと言って信じていればいいのだという人がいるかも知れません。しかし、それだけでは、どの宗教でも一緒だ、キリスト教でなくてもいいということになってしまいます。  さきほど、ご一緒に祈りました、今日の主日、大斎節第5主日の「特祷」をもう一度見て頂きたいと思います。  「全能の神よ、み子イエス・キリストは大祭司として来られ、その血をもって至聖所に入り、ただひとたび永遠の贖いを全うされました。どうかご自身を神にささげられたキリストの血によって、わたしたちの良心を死に至る行いから清め、あなたに仕えさせてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」と、お祈りしました。  このお祈りの内容、言葉の意味は、ちゃんと理解できているでしょうか。  何のことを、どのように祈っているのでしょうか。  「大祭司」とか「至聖所」とか「贖いを全うする」とか「血によって清める」という言葉が使われています。日本語ですが、その意味がわかって、心の中でお祈りしているでしょうか。  少しだけ、解説したいと思います。  すべての人は、幸福になりたいと願っています。健康でありたいと願っていますし、誰からも束縛されない自由でありたいと願っています。  誰でもみんな死ぬことは、頭ではわかっていますが、実際には死の恐怖に捕らわれることもあります。  みんな幸せになりたいの願っているのに、毎日の生活の中で、自分が幸せであることを妨げているものがあるとすれば、それから、解放されたいと願います。  それは、地震や台風や、飢饉や、病気や、人間関係や戦争などなど、いろいろな原因があります。  人類の歴史をさかのぼってみると、昔の人々は、その幸福を妨げるもの、苦痛から逃れるために、人間の知恵や能力を超えた、目に見えない超自然の力に助けを求めました。  その超人間、超自然の力を、創造者、全知全能の神、絶対者、万物の存在の根源者などと言います。  神と言ってこれを崇めました。  人々は、この神と向き合って立つ時、神の意志に反抗し、背いていることが原因で、その結果が、人々に降りかかる不幸や災いであると考えました。  そこに、罪の意識が生まれ、不幸の原因やさまざまな災いの原因として、私たち人間の罪が問われ、その罰として、病気や死が与えられ、人間が持つ苦悩や苦痛の原因は罪であると考えました。  家庭内の不幸の原因が、親子の断絶にあると言われて、親も子も、その責任が問われるように、神と人との断絶が、すべての不幸の原因、ほんとうの幸せが得られない原因だと信じられるようになりました。  そこで、古代の人々は、人間の方から、どうしたら神の怒りをなだめることができるか、神と和解することができるだろうかと考えました。  そして、古くから何百年も何千年も続けられてきたのが、「贖罪の儀式」です。贖罪とは、「善行を積んだり、金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償う」という意味です。  「贖い」とは、和解を意味します。同時に、神の怒りを「なだめる」と意味もあります。  古代の人々というか、もっと昔の人々は、神さまに人間の罪を赦してもらうために、罪の償いを、具体的な行動によって現すために、供え物、犠牲をささげるという儀式を行いました。  旧約聖書のレビ記を読んでみて下さい。ここには、犠牲をささげる儀式の手順がきびしく掟として記されています。  「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は、主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。」(レビ記1:1〜9)  レビ記には、このように、さまざまな犠牲の儀式を行う手続きを、延々と記しています。当時のユダヤ人にとっては、罪を贖うために、守らねばならない大切な儀式だったのです。  臨在の幕屋とは、モーセが与えられた十戒を刻んだ2枚の石の板を入れた箱があり、これを「契約の箱」と言われます。この箱を安置するために、大きな幕屋が設けられ、その中央に契約の箱が安置されていました。  奥行き13.5メートル、間口4.5メートル、高さも4.5メートルという大きな天幕で、中央に内陣があって、幕に覆われていました。この内陣が、至聖所と言われ、大祭司だけが入ることがゆるされていました。   この幕屋が、後の時代になって、エルサレムに神殿が建設されました。  この至聖所の前で、羊や山羊や牛を連れてきて、頭に手を置き、これを屠り、血を祭壇に振りかけ、肉や内蔵を切り分け、火の上で焼き、天に煙と香りを立ち上らせるという儀式でした。  この儀式を取り仕切っていたのが、祭司でした。その祭司たちの長が、大祭司で、この大祭司だけが、1年に一度、ユダヤ民族を代表して、犠牲をささげる儀式を執り行うという役割を果たしていました。  さらに、もう少し付け加えますと、同じレビ記に、このように記されています。 「血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上で、あなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」 (レビ記17:11)  いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれると、これは、神の掟であるとして、定められています。  このように、旧約聖書の時代以来、古くから犠牲の儀式を守ってきました。当時のユダヤ人は、罪を償う方法として、神さまの怒りをなだめるために、神との断絶を回復するために、このような儀式を忠実に守っていました。  このような掟の背景には、ユダヤ民族が、牧畜民族であったことを忘れてはならないと思います。  そこで、今日の使徒書ですが、ヘブライ人への手紙(5:1)を見て下さい。  「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。」  人々が罪の贖いのために祭壇の前まで、羊や山羊や牛を連れて来て、その動物の頭に手をおいて、その人の罪をこの動物に移し、その動物の命を罪の代償として、神にささげます。神殿において仕えている祭司たちは、とくにその代表である大祭司は、その人の命の身代わりである動物の命、すなわち血を受け取り、祭壇の廻りにこれを振りかけます。  ヘブライ人への手紙の手紙の著者は、イエスさまのことを、「大祭司」であると述べています。  大祭司は、神さまと、人々の間に立って、罪の償いのために、仲立ちをする大切な役割を勤めます。  さて、それでは、私たちは、今も、神さまの前に、罪を償うために羊をささげているでしょうか。かつて、古代の人々は、旧約聖書の時代には、毎年、毎月、羊や山羊をささげて罪の償いをしていました。私たちの廻りには、羊も山羊も牛もありません。  旧約聖書の時代には、罪を償うたまに献げる羊は、初産で生まれた、傷のない、雄の子羊と定められていました。  ヨハネによる福音書1章29節に、 「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」とあります。  また、同じヨハネによる福音書1章35節に、 「その翌日、また、ヨハネは2人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。2人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」と記されています。  さらに、ペテロの第一の手紙1章18〜19節に、  「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」と述べています。  イエスさまは、神と人々の断絶を回復させるための仲立ちをする人、大祭司であると共に、ささげられるべき子羊でもあられたのです。  ご自身が、罪のない、神の初子として、すべての人々の罪の代償として、命をもって、その血をささげる子羊となられたのです。  今日の福音書、ヨハネの福音書12章23〜24節に記されているイエスさまの言葉を聞きましょう。  「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」  イエスさまの命は、神の子羊として、エルサレムの神殿の前で、神さまに献げられました。一粒の種が地に落ちて、死んだのです。そしてその死によって、すべての人々が生きるものとなったのです。  大祭司であり、自らがささげられる子羊であり、一粒の種となられることによって、神さまが、神さまの方から、和解の手を差し伸べてくださったのです。  これは、神さまの方から一方的に与えてくださった、恵みによるものです。この恵みによって、私たちにほんとうの救いが与えられているのです。私たちにできることは、感謝と賛美をもって、これをしっかりとうけとることです。  聖餐式を続けます。心から、感謝と賛美の祭りに与りましょう。                                                   (於・四日市聖アンデレ教会)