わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

2015年03月29日
昼の12時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。3時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」 これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。(マルコ15:33-35)  イエスさまが、ユダヤの役人やローマの兵士に捕らえられ、裁判に掛けられ、笞打たれ、ののしられ、茨の冠を被せられ、重い重い十字架を担がされ、ゴルゴタの丘まで追い立てられ、そして、十字架に釘打たれ、苦しみもだえながら息を引き取られた、この場面の聖書を読むと、毎年、それだけで、涙が出て、胸に迫ってくるものがあります。  4つの福音書が伝えるところによりますと、イエスさまは、十字架につけられ、息も絶え絶え、苦しみもだえながら、十字架の上から発せられた言葉が、7つあります。これを「十字架上の七語」と言います。  今、読みました聖書の個所、マルコ福音書の15章34節の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、この言葉は、その第4番目の言葉で、十字架上の第4語とされています。  「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味ですが、イエスさまが、息を引き取る直前の「言葉」というより、「叫び」でり、呻きであったように思われます。  「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、アラム語で、イエスさまの時代にユダヤの人たちが、日常的に使っていた言葉だそうです。マタイによる福音書では、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだと記されています。これは、ヘブル語とアラム語が混じった言葉です。これを聴いた人々は、イエスさまが、最後の最後に、あの預言者エリヤを呼んでいると聞いた人もあったと伝えています。  「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、実は、旧約聖書の詩編22編2節の言葉です。  「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」、「なぜ、わたしから遠く離れ、救おうとせず、呻きも、言葉も聞いてくださらないのか」と続きます。  詩編22編は、苦難の中で、主の名を叫びつつ信仰の勝利にいたる、信頼に満ちた歌です。  イエスさまは、この詩編22編を心に思い浮かべ、この長い詩編の言葉を語ろうとして、肉体が弱り、呼吸が続かなかったのではないでしょうか。  イエスさまは、身体が衰弱し、笞打たれ、頭に茨の冠を押しつけられ、手と足に釘打たれ、十字架につけられ、自分の体重が全部、その傷口にかかってくる。その痛み、苦痛の中から叫んでおられるのです。  朝の9時頃から、午後3時頃までと、記されていますから、その苦痛は、6時間も続いています。昔は、いろいろな残酷な死刑の方法があったらしいのですが、時間をかけて、衰弱し、呼吸が止まるのを待つ、これほど残酷な死刑の方法はありません。    日本のことわざに、「神も仏もない」、「神も仏もないものか」という言葉があります。慈悲を垂れ人を救う神も仏もない、世間の無情、無慈悲をはかなんでいうことばです。  日本人がよく使う、追い詰められた時、ため息をつきながら、吐き捨てるように、思わずでる言葉が、この「神も仏もない」という言葉です。  イエスさまが叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、吐き捨てるようにつぶやく「神も仏もないものか」という言葉と、どのように違うのでしょうか。  イエスさまも、切羽詰まって、このように言われたのでしょうか。  イエスさまが、苦しい中で、呼びかける、問いかける姿勢と、わたしたちが、神さまに問いかける姿勢とには、根本的に違うことに気づきます。  私たちだったらこのように、神さまに疑問をぶっつけるのではないでしょうか。  「なぜ、神は、わたしにこのようなことをなさるのであろうか。なぜ、神は、わたしにあのようなものお与えになるのだろうか。神から、このようなひどい仕打ちを受けるほど、悪いことを、わたしはしたのだろうか」と。  しかし、十字架上のイエスさまは、三人称としての神に、問われたのではありません。  イエスさまとわたしたちとの違いは、ここにあります。  わたしたちは、ともすると、三人称としての神を考え、三人称としての神を信じています。神は、わたしたちの日常生活や体験の枠の外側におられる方、「彼」であり、わたしたちから離れたところにおられる「彼」なのです。その「彼」である神について、語り合い、何かをしてくださいと言って、お願いしているのです。  ところが、十字架上のイエスさまは、苦しい中から、「わが神、わが神」と言われました。そして、「どうして、あなたは」と言われます。「どうして、彼は、わたしをお見捨てになったのか」とは、大きな違いがあります。  イエスさまは、ユダヤ人や祭司たちが遣わした人たちによって捕らえられる前に、ゲッセマネの園で祈られました。  「少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われかした。「アッバ、父よ、あなたは、何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。」(マルコ14:35,36)  「アッバ」は、アラム語で、「お父ちゃん」と呼ぶ、小さい子どもが、特別の親しみを込めて呼ぶ呼び方です。  今、自分の口元に近づいてくる、苦い杯、これを飲むことは、死を意味するのです。この杯を取りのけて下さい。しかし、わたしの欲望や、本能や、意思ではなく、どうぞ、あなたのみ心が行われますように。御心に適うことができますようにと、祈られました。  「どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と、問いかけるイエスさま。それは、わたしがなぜこんな苦しみを受けなければならないのか、その意味がわからないとか、あなたはひどい方だと言っているのではありません。  すべての人間は、わたしたちは、わたしたちの方から、神から遠ざかり、神を神としない、神に背き、神との断絶にも平気でいられる、そのような生活をしていながら、わたしたちは、イエスさまのように「どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と言えるでしょうか。罪を犯しているのは、わたしたちの方であって、神さまの方に原因があるわけではないのです。  神の子であって、神であって、人間となられた、イエスさまは、なに一つ罪をおかしておられない、イエスさまは、父である神さまに背いたことは一度もない、傷を負わない子羊として、この世に来られた。その方が、罪まみれのわたしたち人間のために、わたしのために、あなたのために、この世に来られ、わたしたちの罪を背負われた。神から見捨てられて当然の、その罪の身代わりとして、その命が、神の祭壇にささげられようとしています。  神の子が、人間の罪を負い、罪だらけになって、人間どもが神から見捨てられようとする瞬間を、ご自身で負っておられます。  イエスさまは、この瞬間、神から見捨てられました。ただ一つのことのみが、人を神から離すのです。それは、「罪」です。罪だけが、神から見捨てられる原因であり、イエスさまは、罪のない方である以上、イエスさまが神から見捨てられたのは、わたしたちの罪のためにほかならないのです。  十字架に架けられている、イエスさまの痛み、それは、父である神さまの痛みです。神の痛みを伴いながら与えられている恵みを感謝しましょう。                                〔2015年3月29日 復活前主日(B) 京都聖ステパノ教会〕