「イエス・キリストの名によって」立ち上がりなさい。
2015年04月20日
使徒言行録4:5〜12
よみがえられたイエスさまは、弟子たちのところに現れ、「わたしだ、わたしだと言って、ご自分のことを証明して見せ、弟子たちの心の目を開かせ、そして、世界に向かって、使徒として彼らを派遣されました。
これに対して、弟子たちは、どのように応えたのでしょうか。弟子たちの心の目は開かれたのでしょうか。世界に向かって、どのようにして宣教の使命を果たしたのでしょうか。
ここで、今日の使徒書に目を向けてみたいと思います。
不安、恐怖、絶望のどん底にあった弟子たちは、よみがえったイエスさまに出会い、聖霊を受けました。
そして、突然、人々の前に出て、語り始めたのです。聖霊降臨の出来事と、その後に行われたペトロの説教を聴いて、まわりの人々は驚きました。
先ほど読まれた使徒言行録4章の5節以下は、その後に起こった一つの出来事について記しています。
弟子たちに聖霊が降ったという出来事があって、間もなくのことでした。
弟子たちの中のペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時に神殿に上って行きました。
すると、そこに生まれながら足の不自由な男の人が運ばれて来ました。
彼は、神殿の境内に入って来る人々に、施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のそばに置いてもらって、物乞いをしていました。
この足の不自由な人は、ペトロとヨハネが、境内に入ろうとするのを見て、施しを乞いました。
すると、ペトロは、彼をじっと見て、
「わたしたちを見なさい」と言いました。
その男が、何かもらえるのかと思って2人を見つめていますと、ペトロは、
「わたしには、あなたにあげる、金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。
そして、右手を取って彼を立ち上がらせると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだしました。
そして、歩き回ったり、躍ったりして、神を賛美し、2人と一緒に境内に入って行きました。
周りにいた人々は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見て、この男がいつも神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた男だと気づき、その身に起こったことに、我を忘れるほど驚きました。
生前の イエスさまは、たびたび、人の病気をいやし、悪霊を追い出し、目が見えない人、足が動かない人をいやすという奇跡を行っておられました。イエスさまは、神の子として、父である神さまから力を与えられ、数々の奇跡を行っておられました。
しかし、今、弟子たちに、聖霊が降り、彼らに罪を赦す権威をお授けになり、「イエス・キリストの名によって」人をいやす力をお与えになったのです。
そのような出来事があった後、ペトロとヨハネは、そこに集まってきた群衆に向かって話しました。
「あなたがたは、なぜこのことに驚くのですか。わたしたちが、まるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と語り始め、
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神が、その僕、あのイエスに、栄光をお与えになったのです。」と言い、イエスさまが捉えられ、裁判にかけられ、あなたたちユダヤ人が「十字架につけよ」と叫んで、殺してしまったこと、ところが、神さまは、この方を復活させてくださったこと、そして、自分たちは、その証人であることを語りました。
それは、昔、預言者たちによって預言されたことが、この方によってが成就されたのです。神の子がこの世に遣わされ、あなたがた一人一人を、悪から離れさせ、祝福されるために来られたのだと、順々と解き明かし、説教をしました。
ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来ました。2人が民衆に教え、イエスさまを殺したユダヤ人を非難し、イエスが、死者の中からの復活したと宣べ伝えているのを聞いて、彼らは、じっとしていられません
そこで、このペトロとヨハネを捕らえて、翌日まで牢に入れました。しかし、この2人が語った言葉を聞いて、信じた人は多く、男の数が5千人ほどだったと記しています。(使徒言行録4:1〜4)
この噂を聞いたユダヤ教の指導者たち、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まりました。大祭司一族もそこに集まりました。
そして、次の日の朝、彼らは、ペトロをはじめ、イエスさまの弟子たちを真ん中に立たせて尋問しました。
「お前たちは何の権威によって、だれの名によって、あのようなことをしたのか」と。
すると、ペトロは聖霊に満たされて言いました。
「議員の皆さん、また長老の方々。病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについて、今日、わたしたちが取り調べを受けているのであれば、あなたがたも、イスラエルの民全体も知っていただきたい。この生まれつき足が不自由な人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが、十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられた、あのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」
この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』なのです。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下に、この名のほか、ナザレのイエス・キリストの名によるほかは、人間には与えられていないのです。」
パレスチナ地方の建物の多くは、石で作られます。古い家は取り崩し、使えそうな石を選んで、それを用いて家を建てます。もう要らないと判断されて捨てられた石が、石工によって、隅の親石となった、すなわち最も大事なかなめ石となったという詩編118編22節がここに引用されています。
ユダヤ人によって、十字架につけられ、捨てられた、殺された主イエスが、今、よみがえって、最も大事な隅の親石、教会の基礎、救いの中心となったという意味です。
ユダヤの指導者たち、議員、長老、律法学者、大祭司は言いました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と、形式的な尋問しました。
「美しい門」のそばで、足の不自由な人が施しを乞うて、ペトロと目を合わせた時、ペトロは言いました。
「わたしには、金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、この男を歩けるようにしました。
「イエス・キリストの名によって」立ち上がり、歩けるようになったのです。ペテロは、はっきりと答えました。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(4:12)
古代の人々の考え方では、名前、名というものは、単に、ある者の人格を他の者の人格から区別するだけではありませんでした。(ただ単に、AとBを区別するための記号ではありません。)
その名前がついているもの本質と密接な関係があると考えられていました。その名で呼ばれる人の、生まれ、人となり、力、権力、地位のすべてを表すと考えていました。
とくに、「神の名によって」という時には、神そのもの、神の力、神の栄光、そのすべてを表すものと考えられています。
「イエス・キリストの名によって」ということは、イエス・キリストが、そこに居られることを意味します。
この世のすべての名にまさる方、それは、イエス・キリストに与えられた名です。
議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの、このような大胆な言葉や態度を見、しかも2人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、彼らは、イエスさまと一緒にいた者であるということも分かりました。
しかし、何を反論しようとしても、そこには、目の前に、現実に「イエス・キリストの名によって」、足をいやしていただいた人が、そばに立っているのですから、これを見ては、ひと言も言い返すことはできませんでした。
弟子たちは、イエスさまの復活を確信することにより、生まれ変わりました。死んだ状態であった者が、生き生きとほんとうに生きる者となったのです。恐れて、隠れて、息をひそめていた弟子たちは、自分の命をも惜しまない、捕らえられても、殺されようとしても恐れない、勇気と忍耐の力が与えられtた人となりました。
人々の前で堂々と、イエス・キリストこそ、救い主であると勇敢に証しする人々になりました。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの方の名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4:12)
この言葉を、繰り返し唱えながら、毎日を過ごしたいと思います。
〔2015年4月19日 復活節第3主日(B) 東舞鶴聖パウロ教会〕