神から派遣されるヘルパーさん

2015年05月04日
ヨハネ福音書14:15〜21  「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(14:15〜17)  ヨハネの福音書14章、15章、16章は、イエスさまの訣別の説教と言われます。  イエスさまは、この世を去るに際して、弟子たちに、長い説教をされました。  今日の福音書は、その説教の中の言葉です。  イエスさまは、長い説教を始める前に、弟子たちに新しい掟をお与えになりました。  ユダヤ人たちは、モーセによって掟、すなわち律法が与えられ、この律法を守ることが、神さまのみ心に従うことだと信じて、これを守ってきました。  ユダヤ人が長年守ってきたどの掟よりも大切な掟であると言って、イエスさまは弟子たちに、新しい掟をお与えになりました。  それは、ヨハネ13章34節の言葉ですが、  「あなたがたに新しい掟を与える」と言い、その掟とは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という短い掟です。  そして、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34-35)と言われました。  そして、今、今日の福音書にある言葉ですが、あらためて「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われます。(14:15)  その上に立って、イエスさまは、わたしは父である神にお願いしましょう。  「あなたがたのために、父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」と言われました。  ここに「弁護者」という言葉が出てきます。  これは、ギリシャ語で「パラクレートス」という言葉ですが、援助者、弁護者、代弁者、助け主と、訳されています。  さらにその語源をさかのぼってみますと、「パラカレオー(求める、勧める)」から「(誰々に何かの所用で)呼び寄せられた」「支援のために呼び寄せられた者」「援助者として招かれた者」という言葉から来たものだと言われています。  英語の聖書を見ますと、この弁護者という言葉は、「カウンセラー」と訳されています。  昔からさまざまなもめ事を裁くために、裁判というものがあります。  日本の国の現在の裁判所の形で見ますと、訴える人と訴えられる人がいて、その間に両方の話を聞く人、すなわち裁判官がいて、判決を下すという形をとっています。  訴える人(検事)、訴えられる人には、それぞれに弁護人がいて、その人は多くの場合、法律の専門家で、その知識を駆使しながら当事者に代わって意見を述べます。  現在でも、何であんな悪人、極悪非道の人の弁護をしなければならないのかと思うようなことがありますが、どんなに残忍な事件を起こした人にも、その人の背景には歴史や事情があり、その事件にいたるまでの事情も十分にわかってもらわなければ公平な裁判を受けたことにはなりません。  したがって、どの場合にも弁護人、弁護士というものがつけられます。  弁護人は、本人に替わって語るべきことを語ってくれます。  弁護人は、本人を攻撃し、傷つけようとするものから守り、力づけ、励まし、促してくれます。  イエスさまは、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなる」と言われました。  そして、実際に、この訣別の説教の直後に、イスカリオテのユダに裏切られ、捕らえられ、大祭司のもとに連れて行かれ、ローマの総督ポンテオ・ピラトの尋問を受け、死刑の判決を受け、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架を担がされ、十字架につけられて亡くなりました。  この世は、肉体の目では、イエスさまを見ることはできなくなりました。  そのことを予告して、弟子たちに別れの、最後の言葉を述べておられるのです。  そして、イエスさまは、弟子たちに対して、「あなたがたを決して孤児にはしない」と言われました。そのために、「弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいてくださるように、父である神にお願いしましょう」と言われました。  急に両親を亡くしてしまった、誰も頼る人がいなくなった子供のように、孤児のようになった弟子たちを、保護し、助けてくださる方を遣わしていただくようお願いしようと言われたのです。  弟子たちに対する憐れみ、愛がほとばしるような言葉です。  その弁護者、援助者、代弁者、助け主、「その方とは、神さまから出る『真理の聖霊』である」と言われます。  弟子たちは、イエスさまを頼って、ここまで来ました。  イエスさまこそ、子供にとって親のような存在であり、弁護者、援助者、代弁者、助け主でありました。  しかし、今、イエスさまが見えなくなった時、その方に替わって、聖霊が、弟子たちの援助者、援助者、代弁者、助け主として、弟子たちと共にいてくださることを、イエスさまは約束して下さっています。  老人社会になり、援助や介護を受けなければならない高齢者や障害者が多くなっています。  その対策として、日本の国でも老人介護や障害者を介護、援助するためのいろいろな制度ができています。  自宅にいて助けを必要とする人が、援助してください、介護して下さいと、市町村に申請を出しますと、いろいろな手続や審査があって、その人の状態に応じて、ヘルパーさんが来てくれる、派遣してくれる介護保険制度があります。  体が思うように動かない、掃除や洗濯ができない、食事の準備ができない人に、助けを求める人のところに、ヘルパーさんが来てくれて、てきぱきと家事を片付けてくれます。  高齢の方や体の不自由な方から、「ヘルパーさんに来てもらってほんとうに助かるわ。ほんとうに有り難いですわ」と言っている声を聞きます。  私は、イエスさまが、「あなたがたに弁護者、援助者、助け主を送ってくださるように、父である神にお願いしよう」と約束してくださる時、もっと身近なところで、このヘルパーさんの姿を思いだします。  イエスさまを見失って淋しくなった時、誰からも見捨てられたような気持ちになって、落ち込んでいる時、何を言っていいのか、どうすればいいのかわからなくなってしゃがみ込んでしまった時、イエスさまは、あなたがたを独りぼっちにはしないと言われます。  そして、そのような私たちを助けてくださる援助者、「聖霊さん」というヘルパーさんを派遣してくださるのです。  この聖霊さんというヘルパーさんは、私たちの思いを、私たちに代わって語ってくれる弁護者です。手を引いてくれるヘルパーさんであり、後ろから私たちを前に押し出し、支えてくれるヘルパーさんです。 そして、イエスさまは、このヘルパーさんが、いつも私たちと共にいてくれることを約束して下さっているのです。  この世のヘルパーさんにお願いするためには、申請手続きをして、援助や介護を受ける資格があるかどうか審査を受けなければなりません。  同じように、神さまからヘルパーさんを遣わしてもらうためにも資格が問われます。  それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子である」と言われます。  キリストの弟子になるということです。  「しかし、この世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」(17節) キリストの弟子でない者は、この聖霊さんのヘルパーさんを見ようとも知ろうともしません。キリストを受け入れない者には、ヘルパーさんが見えないのです。  しかし、私たちは、この聖霊さんを知っています。  (なぜ、聖霊に「さん」をつけるかと言いますと、ただ「聖霊」というと、物とか抽象的な言葉だけになってしまいます。父と子と聖霊、三位一体の神ですから、神さま、イエスさま、と同じように、親しみを込めて「聖霊さん」と、呼びたいのです。)  この聖霊さんがいつも私たちと共にいてくださり、これからも、私たちの内にいてくださるからです。  キリストの弟子となった者だけが、この神さまからのヘルパーさんの派遣を受けることができるのです。 それでは、この神さまが遣わしてくださる、ヘルパーさんの目的は何でしょうか。  そのヘルパーさんは、私たちがどのようになることをめざして、介護してくれるのでしょうか。  その目的は、この方の正体は、「真理の霊」なのです。  真理とは何か。それは、イエス・キリストです。  イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6) と言われました。  イエスさまを、もはや肉眼の目で見られなくなった弟子たち、そして、イエスさまを見失っている私たちに、もう一度、見えるように助けてくださる方、そのために介護し、援助し、助けてくれるのが、神さまが遣わして下さるヘルパーさんの役目なのです。  神さまのヘルパーさんの助けには、時間の制限はありません。  神さまが遣わすヘルパーさんは、いつまでも共にいてくださいます。  神さまのヘルパーさんが来てくれるためには、介護保険料の積立ても必要ではありませんし、費用の自己負担分も要りません。  それは、神さまのほうから一方的に派遣してくださるのです。  それは私たちに対する「神の恵み」として与えられるのです。  私たちがキリストの弟子であることにとどまってさえいれば、この恵みを送り続けてくださるのです。  私たちは、ただ、ただ、感謝と賛美をもって、これに応えるだけです。  私たちは、洗礼を受け、堅信式を受け、クリスチャンとして生きることを約束し、キリスト教徒、イエスさまの弟子となることがゆるされた者です。  さて、そこで、私たちに、イエスさまの弟子という自覚があるでしょうか。  もし、クリスチャンとして名刺を作るとすれば、肩書きの所に「イエス・キリストの弟子」と書けるでしょうか。  そんな名刺を出すのは恥ずかしい、そんなキザなことと思うのではないでしょうか。  なぜでしょうか。  そんな立派な生き方をしていないから、それほど、熱心なクリスチャンじゃないから、でしょうか。  弱い所、醜い所を一杯持った私たちですが、もし、「どんなクリスチャンになりたいですか」と尋ねられると、「イエスさまのほんとうの弟子となることです」「イエスさまの弟子であり続けたいのです」と答えたいと思います。  「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」(ヨハネ14:19〜21)と、弟子である私たちにこのように約束して下さっています。 〔2015年5月3日 復活節第5主日(B年) 下鴨キリスト教会において〕