わたしは良い羊飼いである。
2015年05月04日
ヨハネ福音書10:11〜16
復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日」と言って、毎年、ヨハネ福音書10章の良い羊飼いのたとえが読まれます。
そのことから将来の良い羊飼い牧者を育てるという意味で「神学校のため」の日とされています。
主イエスは、ご自分のことを、「わたしは何々である」という言い方でたびたび表現されます。
「わたしはパンである」、「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」と言って、具体的な生活の中からたとえでご自分のことをわかりやすく語ろうとしておられます。
今日の福音書でも、「わたしは羊の門である」、「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」という言葉が出てきます。
イスラエル民族にとって、歴史的にみて、牧畜生活は理想的な姿でありました。その伝統は、イスラエルの人々の心に深く根をおろしていました。
しかし、きびしい自然の中で、牧畜は職業としては決して易しい仕事ではなく、過酷な労働でありました。
家畜の群れは、多くの場合、羊や山羊の所有者の子どもが世話をさせられており、時には所有者自身が羊の面倒をみていることがありました。
裕福な牧畜業者は、人を雇って牧畜をさせていました。
羊飼いは、新しい牧草地を求めて遠い所まで移動しなけれなりません。
涼しい夜の間に月明かりをたよりに移動することもありましたから、野獣や盗人に襲われることもありました。 羊飼いたちは、水場を求め、井戸や泉に羊を連れて行かねばならず、そのためにたびたび水をめぐって争いがあり、野獣や盗人に襲われた時には、羊を守って戦わねばならないこともありました。
夕方になると、羊飼いたちは、洞穴を見つけて、そこに羊を入れるか、または石を積みめぐらし、柵を造り、そこに羊を収容しました。
羊の群れを囲いに入れる時には、柵の入口に立って、杖の下をくぐらせ、羊の数を数えます。
もし、羊の数が減っていると、羊飼いはその失った羊について責任を負わなければなりません。
同じ地域の羊飼いたちは、夜になると、共同で、羊を守ることもありました。
同じ囲いのなかに羊を一緒にいれ、交替で見張りをします。
そして、朝になると、羊たちはそれぞれの羊飼いに連れられて牧草地に向かうことになります。
羊たちは、飼い主の声をよく知っています。かけ声をかけられると、その声を聞き分け、誰が自分たちのご主人であるか自分たちを導いてくれる人、自分たちを保護してくれる人かがわかりました。
このように、羊飼いと羊との親密な関係から、羊飼いの羊に対する愛、責任感、絶対の信頼と従順、その相互の親密感は、旧約聖書の中にも、たびたび表れ、民族の指導者と民の関係、または神と人間との関係を表す、関係の意味を表すのに使われています。
イエスさまは、ユダヤ民族にとって、誰がほんとうの指導者なのか。
誰が人々を守るのか、誰が救い主なのかを明らかにしようとしておられます。
それは、当時の宗教的指導者、すなわちファリサイ派や律法学者たちを指して、自分自身との比較を試み、聞く人々に分からせようとしています。
第1に、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。(ヨハネ10:11〜13)
イエスさまは、ご自分のことを「良い羊飼い」であると言われます。これに対して、悪い羊飼いとは誰のことをいっているのでしょうか。
それは、その当時のユダヤ教の指導者たち、ファリサイ派や律法学者たちのことを言います。
良い羊飼いを見分ける物差しは、羊のために、羊飼いが命を捨てているかどうかにあると言われます。
狼やその他の野獣が羊を襲う、盗人が羊を盗みに来る、これに対して、良い羊飼いは自分のことはかまわないで命がけで野獣や盗人と戦い、この羊の群れを守ります。
これに対して、悪い羊飼いは、自分の羊に責任を持たない雇われ羊飼いで、羊を守るどころか、狼が来た、盗人が来たという時に、真っ先に逃げてしまいます。
まず、自分の命を守ろうとします。その結果、羊は狼に殺され、羊の群れは追い散らされてしまいます。
イエスさまは、人々の救いのためにこの世に来られ、そして、人々を救うために、十字架に架けられ、殺されました。
神の子が死ぬということによって、人類に救いが与えられたのです。そのために苦しみを受け、辱めを受け、十字架上で息を引き取られました。
人々のために犠牲となり神の愛を表されました。
これに対して、当時のファリサイ派、律法学者たちは、律法をふりまわし、人々に重荷を負わせるけれども、人のためには自分の指一本も動かそうとしない、自分の地位や面子を保つことに心を砕き、傲慢な偽善者の集団でした。
先ほど読まれたエゼキエル書に預言されている言葉そのままでした。
「わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。」(エゼキエル書34:8)
第2に、イエスさまは言われます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:14,15)
良い羊飼いは、自分が養うべき羊について、誰よりもよく知っていると言われます。
そして養われている羊も羊飼いのことを知っています。
それは、言いかえれば、羊飼いと羊の信頼関係が大切であるということです。
イエスさまは、その信頼関係の深さを、父である神と、子であるイエスさまとの関係と同じであるべきだと言われるのです。
イエスさまは、いつも父のみこころに従う方でありました。
みずから神でありながら、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで従順であられました。
なぜこんなことをなさるのだろう、なぜこんなに苦しい目に会わせられるのだろうと問いつつ、しかし、「父なる神の御心が行われますように」と言われるのがいつもの結論でした。
徹底的に信じ、すべてをゆだねきるところにある、信頼関係が求められています。
口では「主よ、主よ」と言いながら、自分の考えや欲望のままにしか動かない、そこには信頼関係はありません。
良い羊飼いは羊のことを知っており、良い羊飼いに養われる羊は、羊飼いのことを良く知っています。
すべてをゆだねて安心しています。この知っているという言葉は、単に見て知っているというような意味ではなく、深く深く心の深いところで受入れられていることを意味しています。
そして、第3に、主イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(16節)と語られます。
囲いの中にいる羊とは、ユダヤ民族、すなわちイスラエルの民を言います。
これに対して、「囲いに入っていないほかの羊」とは、イスラエルの民以外の国々や民族の人々を指しています。
当時のユダヤ人は、選民意識が強く、自分たちの先祖アブラハム以来、神によって救われることが約束された民族だと自負していました。神は、この民族だけを救われるのだ、その他の国の人々、異邦人は、救われるはずがない、滅びて当然だと信じていました。
自分たちだけが救われるというエリート意識が、彼らを傲慢にし、ますます神の御心から遠ざかる結果となりました。
これに対して、イエスさまは、囲いの内側の羊たちだけではなく、囲いの外にいる羊たち、罪人だ、異教徒だ、と言って囲いの外に追いやられた人々、迷っている羊たちをも導かねばならない使命について語られます。
イスラエルの民は、神から特別に選ばれた人々でした。
それは、神の御心を伝え、神に従う者となることを証しする使命が与えられ、遣わされるためでした。
しかし、その歴史の中で、選民意識だけが強くなり、使命を果たすことができませんでした。
そのために新しいイスラエル、キリストの教会が建てられ、世界に向かって一つの群れとなるために新しい使命が与えられました。
イエスさまこそ、私たちの牧者、ほんとうの良き羊飼いです。
そして、私たちはこの良き羊飼いに養われる羊です。
羊は、羊飼いの声をよく聞き分け、羊飼いをよく知らなければなりません。羊飼いに、すべてをゆだねきる、ほんとうの信頼がなければ、迷いだしてしまいます。
〔2015年4月26日 復活節第4主日(B年) 四日市聖アンデレ教会において。〕