友のために命を捨てること
2015年05月09日
ヨハネ福音書15:9〜17
今、読みました今日の福音書は、先週の主日に読まれた(ヨハネ14:15-21)福音書の少し後の個所です。
イエスさまが弟子たちになさった、最後の説教、訣別の説教といわれる長い説教(14章〜16章)の一部です。
今日の福音書も、最初を見ますと、(15:9〜13節)
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(12節)わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」
このように、もう一度繰り返され、さらに、最後の17節では、もう一度「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と、繰り返しておられます。
訣別、お別れの説教ですから、イエスさまは、弟子たちに、これだけは、最後に言っておきたいという、最も重要な教えが、命令が、ここに繰り返されていることが分かります。
キリスト教は、「愛の宗教」と言われます。聖書には「愛」という言葉が沢山出てきますし、「愛」についてたびたび教えられ、語られています。
1549年にフランシスコ・ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝え、1837年、ギュツラフという宣教師が、初めて「ヨハネ福音書」を翻訳したと言われます。その時の、ギリシャ語のアガペー、英語のloveは、「御大切」と訳されました。さらに、キリシタン禁教令が撤廃されて、改めてキリスト教が入ってきた時に、ヘボンが訳した聖書では、loveは、「いつくしみ」と訳されました。
もともと、日本語には、今、聖書に使われている「愛」というような言葉は、今使っているような意味ではなかったと言われます。
本来の日本語では、地位の高いものが下の者を憐れむ時に使われていて、君が臣を愛し、親が子を愛すると言いましたが、反対に臣から君に対しては「忠」、子から親に対しては「孝」、弟から兄に対しては「悌」、一般の目上の人に対しては「敬」という言葉が使われていました。
明治時代の初め頃までは、この「愛」という言葉は、上から下への、男性から女性への感情的、肉体的な愛情を意味する言葉でした。女性から男性に対しては「慕う」、精神的な相互愛は、「大切」といい、聖書の神の愛については、日本語に当てはまる言葉がなくて、「カリダアデ」というポルトガル語がそのまま使われていたといいます。
中国語聖書に用いられていた「愛」という漢字が、日本語訳の聖書に用いられたのですが、日本にキリスト教が再来し、聖書のいう神の愛に「愛」が用いられ、「人を愛せよ」と訳された時には驚いたと言われます。
当時の日本人にとって、「実に大胆な用語改革」であったと言われます。
仏教では、「慈悲、慈愛」という言葉で表されますし、儒教では「仁」という言葉で表されていました。
しかし、今は、愛という言葉は、キリスト教の専売特許ではありません。広い範囲で、さまざまな関係の中で使われています。
文学や芸術の世界では、「愛」は永遠のテーマと言われていますし、テレビを見ていても、歌の歌詞やドラマのテーマにも「愛」という言葉が溢れています。
それでは、このように、愛という言葉が溢れている世界で、キリスト教の愛とか、愛するとは、どういう愛をいうのでしょうか。
愛というものは、直接それを目で見て確かめたり、そのものを取り出して見せることはできません。
愛とは、何かと何かの関係を表す言葉です。友人との関係、恋人との関係、夫婦の関係、親子の関係など、人と人との人格的関係、その関係や状態を表す言葉です。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15:12、13節)
と、イエスさまは、教えられました。
また、マタイ福音書では、イエスさまは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「これと同じようにあなたの隣人を自分のように愛しなさい」と教えられました。(マタイ22章37,38節)
私たちは、イエスさまという方は、愛の人、愛に満ちた人だということを知っていますし、そのように信じています。
そして、繰り返し「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じておられます。
それでは、イエスさまは、どのように人を愛されたのでしょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言っておられますが、果たしてイエスは、弟子たちをどのような愛されたのでしょうか。
お話の中では、99匹の羊と、見失った1匹の羊を見つけ出して喜んだ羊飼いのたとえが語られています(15:1-7)。
放蕩息子の話も聞きました(ルカ15:11-32)。
よきサマリア人の話も知っています(ルカ10:25-37)。
しかし、これらはみんなイエスさまがなさった、たとえ話の中のお話です。
イエスさまは、弟子たちに、こんなに優しくして、こんなに愛しておられたのだと、思うような場面は、聖書の中にはあまり見あたりません。
私たちが持っている「イエスさまは愛の人」というイメージは、どこからくるのでしょうか。ほんとうにイエスさまは、弟子たちや、そのほかのまわりの人々を愛されたのでしょうか。
「わたしがあなたがたを愛したように、」の「ように」とは、イエスさまのどこをに見習えばいいのでしょうか。
優しいイエスさま、小さな羊を懐に抱いておられる聖画を見たことがあります。
小さな子供たちを膝にのせてニコニコしておられるイエスさまの像も見たことがあります。
そのイメージから、イエスさまは、優しい方、柔和な方、弱い者の味方、平和を愛する方、決して人の悪口を言わない方と、勝手に思い込んでいるだけではないでしょうか。
聖書をよく読んで見ますと、確かに権力を持つ人を嫌い、病気の人、身体の不自由な人、貧しい人、すなわち弱い人の側に立ち、その人々のために奇跡を行っておられますが、しかし、それだけではありません。
私たちのイメージを覆すような出来事や言葉の方が目につきます。
イエスさまは言われました。
「しかし、『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。』」(マタイ10:34-38)
「イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」(ヨハネ2:13-16)
「律法学者たち、ファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。」(マタイ23:1-36)
というような場面があります。
愛の人というイメージからは想像できない乱暴な言葉を吐いておられます。
ここで、もう一度、今日の福音書を読んでみましょう。イエスさまは言われます。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
イエスさまが教えられる「愛」とは、友のために自分の命を捨てることだと言われるのです。
イエスさまの言われる「愛」は、単に、優しい、柔和である、ニコニコしていて、怒らない、暴力もふるわない、いつも優しい、優しいというような愛ではありません。
イエスさまが弟子たちに求める愛は、友のために、自分の命を捨てる愛を要求されます。それは、犠牲愛とか自己否定愛とか言われる愛です。
そして、イエスさまは、ご自分で、弟子たちのため、人々のため、そして、私たち、私のために、あなたのために、ほんとうに死んで「愛」を見せてくださったのです。
イエスさまは、ゲッセマネの園で捕らえられ、裁判に引き回され、鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架を担いで、ゴルゴタの丘まで連れていかれ、手と足に釘打たれ、十字架に懸けられ、叫び声をあげて、息を引き取りました。
その場面は、想像するだけでも、正視出来ない光景です。しかし、実際にそのような痛み、苦しみを受け、息を引き取られたのです。
十字架の愛というのは、そのような苦しみ、もだえ、うめき、叫びによってもたらされた愛をいいます。
イエスさまは、人生の最後に、このような、ものすごい「愛」を、目に見えない愛を取り出して、私たちに見せて下さったのです。
イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われます。
そして、イエスさまは、ただ口先だけではなく、ほんとうに、友のために自分の命を捨てて見せたのです。
イエスさまの愛を、愛して下さっているという事実を、しっかりと焼き付けてくださったのです。
そして、イエスさまが十字架につけられ、苦しんで死んで下さったのと同じように、私たちにも、互いに、隣人のために、兄弟のために、苦しみを受け、命を捨てる愛し方をしなさいと、命じられます。
「えーーっ、私たちそんなに簡単に死んでいいの?」「そんなことできない」と言ってしまいます。
そうなのです。神さまから、お預かりしている私たち一人一人の大切な命です。だいじに生きなければなりません。
しかし、友のために死ななければ、イエスさまが命じられたような愛にはならないのです。私たちが、ほんとうに、愛する、互いに愛し合うということは、友のためにどれほど多く死ねるかということです。
人類愛とか世界愛とか、そんな大きなことをいっているのではありません。
目の前には、最も身近な人々がいます。愛さなければならない人がいます。夫のため、妻のため、子供のため、兄弟のため、親のため、嫁のため、姑のため、友達のため、同僚のため、目の前のいちばん身近にいる、愛さなければならない人がいるのです。
日常の生活の中で、友のために、自分以外の人のために、どれほど死ねるかということです。どれほど、自分を殺すことができるかということです。
私たちは、毎日、自分の欲望を持ち、理想を掲げ、毎日の生活のプログラムを持って生きています。
それを、今、目の前にいる人のために、自分のスケジュールを、自分の思いを、どれほど変更することができるかということです。
わたしは、今、忙しい、わたしには予定がある、いろいろ都合がある、面子がある。あなたのために、それは一切変更することはできないと言い張ります。
「互いに愛し合いなさい」ということは、そのような思いをどれほど「殺す」ことができるか。それが、友のために死ぬということではないでしょうか。
私たちは、人に対するとき、自分の「好み」や「主張」を、その人に押しつ合って、つきあっています。
自分が好むタイプ、型や枠があって、それに合うように、「あなたの方が変わってくれなければ、わたしはあなたを愛せません」と突っ張っていることはないでしょうか。
自分の方にある型枠を取り壊し、その友をありのまま、そのままの姿で受け入れることが、友のために死ぬということだと思います。
それでも「そんなことはできない」という人は、考えてみてください。
イエスさまは、そのような私たちのために、命を与え、「死んでくださって」、愛を示して下さったのです。
イエスさまは言われます。「わたしがあなたのために、死んだのだから、あなたもわたしにならって死になさい。」
キリスト教の愛は厳しい愛です。単なる道徳や修身の教科書にあるような「なかよし」「愛し合いましょう」ではありません。
イエスさまが、十字架の上で苦しみ、死んでみせて、これが愛するということだとはっきり示してくださった、痛みと苦しみと死を伴う愛です。
そして、あなたがたもこのように愛し合いなさいと、愛して見せてくださり、同じようにこのように生きなさいと命じておられるのです。
「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」
そのとき、イエスさまは、私たちを友と呼んで下さいます。
イエスさまは、「人から愛されなさい」とか、「愛されることを求めなさい」とは、一言も言っておられません。「愛しなさい」、「愛し合いなさい」と求めておられます。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
〔2015年5月10日 復活節第6主日(B) 下鴨キリスト教会〕