主イエスの喜び

2015年05月15日
ヨハネ17:13  ヨハネによる福音書によりますと、イエスさまは、ご自分に迫ってくる十字架を目の前にして、14章から16章の3章にわたる、長い訣別の説教をされました。そして、さらに17章では、「最後の祈り」ささげておられます。  愛する弟子たちと、別れるに際して、最も大切なことを語り、そして、神の子として、父である神に、残される弟子たちのために、とりなしの祈りをささげておられます。  迫ってくる十字架を前にし、張り裂けそうなイエスさまの胸の中、その時のイエスさまの姿を想像しながら、お祈りの中の一節について、考えてみたいと思います。  「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ17:13)  「わたしの喜びが、弟子たちの内に満ちあふれるようになるためです。」と言われます。 この「イエスさまの喜び」とは、どのような喜びでしょうか。   イエスさまは、何を喜んでおられたのでしょうか。  「喜び」というのは、私たちが持つ「喜怒哀楽」の感情の一つです。  よろこぶとは、うれしく思うこと、また、そのような気持ちそのものを言います。  さらに喜びの気持ちは、感謝の気持ちを起こさせたり、祝うとか、感動するという気持ちにつながります。  喜び、感謝、感動は、私たちに、元気を与え、積極的に生きるための大きな原動力になります。  イエスさまの言われる喜びとは、私たちが喜ぶ「喜び」とは、同じなのでしょうか、違うのでしょうか。  弟子たちや、私たちに、満ちあふれることを望んでおられる「主イエスの喜び」とは、どのような喜びでしょうか?  このことを知るために、聖書の個所をさかのぼって「お別れの説教」の中のイエスさまの言葉を見たいと思います。  そこには二重の喜び示されています。  第一は、ヨハネ福音書15章9節から11節にあります。  「父が、わたしを愛されたように、わたしも、あなたがたを、愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と、このように語られています。  父である神が、イエスさまを愛されたように、イエスさまも弟子たちを愛されました。  ですから、弟子たちに対して、そして、私たちに対して、あなたがたも互いに愛し合いなさいと言われます。  これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためであると、言われるのです。  ここに喜びがあります。  愛によって結ばれた父と子の心がピタッと一致した時です。  そして、イエスさまと弟子たちの関係が、愛によって結ばれ、ピタッと一致した時、これこそが、イエスさまの喜びであると言われます。  私たちがイエスさまの愛にとどまり、また、私たちがイエスさまの掟を守って、互いに愛し合った時、イエスさまが喜ばれ、私たちも同じ喜びに満たされると言われます。  そして、イエスさまはそのことを望んでおられます。  そして、第二に、同じお別れの説教に中で、このように言われました。(ヨハネ福音書16章19節〜22節) イエスさまは、彼らが弟子たちが、尋ねたがっているのを知って言われました。  「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、また、しばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは、再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」  イエスさまは、言われます。わたしは、間もなくあなたがたの前からいなくなる。  あなたがたは、悲しみと絶望と不安に襲われるだろう。  しかし、わたしは再びあなたがたと出会う時が来る。その時には、ほんとうの喜びに満たされる。  それは、ちょうど、女性が子供を産むときには、大変な苦痛を味わうが、子供が生まれた後は、その子供が生まれた喜びのために、その時の苦痛を忘れてしまう。  そのように、苦痛の後に来る喜び、それほど大きな喜びが来ると言われます。  弟子たちは、イエスさまの十字架を、なすすべもなく、ただ見送り、眺めているだけという、無力感と悲しみと苦しみを味わいました。  絶望のどん底に投げ込まれました。しかし、その十字架の後に来る、復活の喜び、聖霊が与えられ、イエスさまの、本当の栄光を見る時が来る。  その時こそ、あなたがたは、ほんとうの喜びに満たされるということが約束されます。これが第二の喜びです。このような喜びが、イエスさまの喜びであり、弟子たちが満たされるべき喜びなのです。  ずいぶん古い映画ですが、若い頃に観た映画に「クオ・ヴァディス」という映画がありました。  1896年に出版されたヘンリク・シェンキェーヴィチという、ポーランドの作家の同名の小説を映画化(1951年)したものでした。その映画の最後のシーンが非常に強く私の中に残っています。  ローマの皇帝ネロは、西暦54年〜68年、皇帝の地位にあったのですが、晩年、暴君ネロと呼ばれ、後世に名を残した人でした。  皇帝として権勢をふるううちに、失政を繰り返し、疑心暗鬼になり、誰も信じられなくなり、信頼していた家臣を殺し、最後には母を殺し、悪政のために、市民の評判は落ちてしまいました。  64年、ローマ市内に大火災が起こり、皇帝ネロが放火を命じたという噂が立って、人心が険悪化したため、それをもみ消すために、クリスチャンが放火したと噂を立て、クリスチャンを捕らえ、処刑しました。ローマ帝国による最初の大迫害だったと言われます。  映画の中に、このような場面がありました。  ローマの大競技場、興奮する市民の前で、捕らえられたクリスチャンは、牢屋から引き出され、飢えたライオンの餌食とされ、または十字架につけられて、火あぶりにされ、大勢のクリスチャンが、次々と殺されていきます。  ローマ市民はこれを見せ物として見物していました。何十人ものクリスチャンが、賛美歌を歌いながら引かれて行き、天を仰ぎながら死んで行きます。  皇帝ネロは、「俺は、なぜこんなに空しく、苦しまねばならんのか」と、自問自答し、そのあげく、昼間に処刑したクリスチャンの死に顔を見れば、自分よりも苦しみ恨みと憎しみにゆがんだ顔を見れば、少しは気が晴れるかも知れないと思いつき、神を恨み、イエスという男を恨み、自分の不幸をののしりながら死んでいったに違いない。体を引きちがれ、どれほど苦しみながら死んだか、その死顔を見ると、少しは気持ちが晴れるだろう期待し、家来に松明を持たせて、深夜の競技場に出かけていきました。  競技場の真ん中の広場には、何十という死体が横たわり、放置されています。  ネロは、横たわる死体の顔に松明を近づけ、顔をのぞき込みます。ところが、その死に顔は、どれも、静かなところが、殉教したクリスチャンの顔は、みんな穏やかな顔をし、ほほえんでさえいるのです。  迫害を受け、殉教したクリスチャンは、キリストと共に復活することを信じ、復活の主イエスに相まみえることを信じて、召されていった人たちでした。  肉体は苦しめられ、引き裂かれながら、一人一人、そして、すべてが喜びに満ちた顔でした。  皇帝ネロは、広い宮殿の自室で、歩き回っています。何ともいえない空しさと、さびしさに襲われ、苦悩のために身をよじり、自分の頭の毛を掻きむしり、のたうち回って苦しみます。あらゆる者の上に立ち、権力をふるい、贅沢三昧の生活をしている皇帝です。  しかし、裏切りと暗殺を繰り返し、母親や妻まで殺してしまい、家来はみんな離れ去り、ローマ市民は、暴徒と化して、宮殿に押し寄せます。憎しみと空しさと不安と恐怖に、さいなまれ続けます。  元老院にも、軍隊にも見捨てられたネロは、最後には、自殺してしまいます。  神を愛し、イエスさまを愛して、そのために殺されたクリスチャンたち、殉教者の最後の顔は、喜びに満たされ、神を賛美する歌を歌いながら、ほほえみさえ浮かべながら死んでいました。  この殉教者たちの喜びに満ちた姿と、皇帝ネロの苦しみの対比は、ほんとうの喜びとは何かを考えさせます。  さて、私たちは、イエスさまが望んでおられる、イエスさまが与えようとしておられる喜びを感じているでしょうか?  イエスさまが望んでおられるような喜びに満ちあふれることを求めているでしょうか?  愛によって結ばれた父と子の心がピタッと一致する喜び、それと同じように、イエスさまと私たちのが、深い愛によって結ばれ、ピタッと一致した時、これこそが、イエスさまが望んでおられる喜びです。その喜びに満たされることを望んでおられます。  16世紀の中頃、1549年、フランシスコ・ザビエルによって、日本に初めてキリスト教がもたらされました。  そして、早速、教会用語や聖書を日本語に訳さなければ宣教することができなかったわけですが、当時の日本の国にあった宗教用語は、神道や仏教の言葉であり、キリスト教の言葉とは意味やニュアンスが違います。 そのためにずいぶん苦労したということが伝えられています。  今、私たちが使っている「愛」ということばは、キリシタン時代、「どちりな きりしたん」に使われている言葉で、当時のポルトガル語辞典のAmorは、「大切」と訳されていました。  当時、日本語では、「愛」は、「感情的、肉体的な愛情」に用いられていて、ときには「不潔な快楽」として用いられていたと言います。そのために精神的な「愛」については、当初は、聖書の特別な意味を込めて「御大切」が使われたのだそうです。  「万事を超えて、デウス(神)を御大切に思い奉ることと、我が身を思うごとく隣人(ポロシモ)となる人を大切に思うこと、これなり」  「神を愛する」「人を愛する」と言ってもなかなかピンとこないかも知れません。キリシタンの時代にもどって、「御大切」と置き換えて、考えてみてはどうでしょうか。  何よりもまず、神をお大切にする、イエスさまをお大切にする、そして、いちばん身近にいる人をお大切にしなさい。  まず、神さまが、私たちを大切にしてくださっています。  イエスさまが私たちを大切にして下さいました。  私たちも、イエスさまを、誰よりも、何者よりも、お大切にします。そして、私たちが、互いに隣人を大切にし合った時、その「お大切」がピタッと一つになったとき、そこに喜びがあります。  ほんとうの喜びがあります。  すると、イエスさまが喜ばれます。そして、私たち自身、他の人たちが味わうことができない「喜び」にあふれます。  まず、そのような喜びがあることを知っていただきたいと思います。 次の主日には、聖霊降臨日を迎えます。「聖霊による喜び」を新たな気持ちで受け取ります。  私たちが最も御大切とするキリストの肉と血に与りましょう。  〔2015年5月17日 復活節第7主日(昇天後主日) 東舞鶴聖パウロ教会〕