聖霊を受けなさい。
2015年05月23日
ヨハネ福音書20:19〜23
教会の暦では、今日の主日は、「聖霊降臨日」「ペンテコステ」です。イースターの日から数えて50日目、「五旬祭」ともいいます。
先ほど読まれました使徒言行録2章1節〜11節にありますように、イエスさまが亡くなった後、五旬祭の日に、弟子たちをはじめ、一同が集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえて、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたという出来事が起こりました。この事件を記念して、ペンテコステ、「聖霊降臨日」と言われています。
また、ヨハネによる福音書では、それよりも早く、イエスさまが復活された日から1週間目、週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて、息をひそめていると、そこへ、イエスさまが現れました。よみがえったイエスさまは、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、そして、手とわき腹とをお見せになりました。弟子たちは、イエスさまだとわかり、イエスさまを見て喜びました。そこで、イエスさまは、もう一度「あなたがたに平和があるように」と言われて、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」言われました。そう言ってから、彼らに「息」を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われたという出来事が記されています。(ヨハネ20ノ19−23)
聖霊とは、何でしょうか。聖書によく出てくる言葉ですし、教会でもよく使われている言葉です。「父と子と聖霊の御名によって」と言い、父である神さま、その御子であるイエスさま、それはわかるのですが、聖霊とは、どのようなものを言うのでしょうか。
「霊」とは、英語ではスピリット、ヘブライ語で「ルーアハ」、ギリシャ語ではプニューマと言います。ルーアハ、プニューマには、風とか息という意味があります。聖書では、神の霊とか人間の霊、悪霊とか広い意味で霊という言葉が使われていますが、多くの場合、神さまから出る働きを表現するために用いられています。
神の臨在、神さまがなさる行為における力、神の言、神の知恵と、同じような意味に使われています。
霊とか、聖霊を、一言で定義することは難しいのですが、私は、聖霊という言葉を、「神から出る目に見えない力」と呼んでいます。霊と言と知恵とは、神さまの行動を敬意的に語る3つの方法であると言われています。
私は、36歳から37歳の頃に、アメリカのフィラデルフィアにあったフィラデルフィア神学校という聖公会の神学校で、しばらく学びました。すでに司祭になってからでしたが、他の神学生と同じように、1年間、寮生活をして、朝晩の礼拝、授業を受け、レポートを書き、また、あちこちの教会へ見学にも行きました。
ある時、同じ寮に住む若い神学生から、自分が通っている教会で特別の集会があるから行かないかと誘われたので、自動車に乗せてもらってついて行きました。
夕方、6時頃から三々五々集まり、集会室に簡単な食事が準備されていて、床に毛布か絨毯のようなものを敷いて座り、賑やかに楽しく食事をしました。8時頃から、礼拝が始まりました。聖公会の教会なのですが、礼拝堂を使わず、集会室で、ギターを使って、同じ賛美歌を何回も繰り返して歌い、詩編を唱え、聖書を読み、自由祈祷で、お祈りします。そのうちに、空気がだんだん盛り上がって、全員、手を高く上げて、体を揺らしながら祈り出しました。若い人が多かったのですが、年取った人も、全部で約150人ぐらい居たでしょうか。そのうちに、みんな異言を語り出したのです。先ほどの使徒言行録にあったように「一同は聖霊に満たされ「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」その場を再現するように、何語かわからない言葉で祈り、その言葉がきれいなハーモニーとなり、部屋一杯に響き出していました。このような、お祈りの場を体験しました。
また、別の機会に、ヒーリング・サービス(Healing Service)といって、癒やしをする礼拝にも出席したことがあります。病気の人が連れてこられて、ホールの真ん中に置いた椅子に座らせ、その教会の牧師がその人の頭に手を置いて祈ります。そして、四方からみんなでその人の頭に手を置いて祈り、そこに集まった人々の声、異言が語られ、それが静かに終わり、また次の人が祈ってもらうという祈りの会でした。
いずれもその雰囲気は、その場に聖霊が降り、別世界にいるような「聖霊体験」をするお祈りの会でした。
キリスト教の教会には、数え切れないほどの教派があることはご存じだと思います。その中には、聖霊派とかペンテコステ派と呼ばれて、聖霊の働きを強調する教派ないし集団があります。主にプロテスタントのホーリネス教会から1900年頃にペンテコステ運動として始まった教派です。
また、それ以外に、ペンテコステ派に限らず、1980年代から、聖霊の第三の波と呼ばれて、プロテスタント、カトリックを問わず、教派、教会など、個人も含めて、聖霊派とか「カリスマ運動」と呼ばれて、聖霊の働きを目に見える姿で強調する動きがあります。
必ずしも強烈なエクスタシーを感じるとか、恍惚状態になることだけではなく、日常の生活の中で、静かに、神さまから送られる聖霊を受け取る信仰生活もあります。
パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中に、次のように言っています。
「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(第�汽灰螢鵐�12:4-11)
このように、人は神さまから賜物を、それぞれに個性を与えられています。神さまの力は、それぞれ、その人の個性に応じて働くと言われます。
人はそれぞれに個性をもっています。神さまの力は、それぞれ、その人の個性に応じて働くと言われます。
たとえば、私たちは、太陽の光や熱の恩恵を受けて、毎日の生活しています。もし、太陽がなければ、地球上のすべての生物は死に絶えてしまいます。動物も植物も生きていくことはできません。季節の移り変わりや地域によって、太陽の恩恵の受け方に違いはありますが、私たちは、太陽の光と熱によって生かされています。
それと同じように、神さまから与えられている聖霊は、神さまの目に見えない力は、絶え間なく、すべてのものに降り注いでいます。私たちは、意識するとしないとかかわりなく、すべて、神によって生かされ生きています。
降り続く雨や雪の天候の中で、雲の晴れ間が見えて、太陽の光が差し込み、急に周辺が明るくなるように、寒い寒いと震え上がっている時に、暖かい日差しを感じて、日向ぼっこができるように、毎日、恩恵を受けていても、あまり意識しないでいる時もあれば、急に太陽の熱や光に恩恵を感じるような出来事があるように、神さまの聖霊が与えられ、聖霊が降り注ぎ、聖霊が私たちを突き動かし、力が与えられ時があります。
復活されたイエスさまは、弟子たちに、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われました。
創世記1章7節の言葉を思い浮かべます。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
土でつくられたアダマの鼻に息を、霊を生命を吹き入れ、アダム、生きる人を創造されました。
イエスさまが亡くなり、墓が空っぽになり、ユダヤの役人や群衆を恐れて、鍵を掛けた家に閉じこもり、息を殺して、恐怖と不安と絶望で、死んだようになっていた弟子たちに、
イエスさまは、息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言って、聖霊を吹き込まれました。アダムが息を吹き入れられて、生きる者になったように、弟子たちもこれによって、生きる者になったのです。
それは、何となく、「元気になりなさい」というためではありません。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」ためです。父である神さまが、神さまのみ心を、神さまの愛を、神さまの救いのみ業をあらわすために、ひとり子をこの世に派遣されたように、イエスさまがこの世に来られた福音を人々に知らせるために、あなたがたを、世界に派遣すると言われたのです。それは、証しする聖霊です。
そよそよと吹く風もあれば、木も家も吹き飛ばしてしまうような台風のような風もあります。
この聖霊降臨の出来事によって、弟子たちは、使徒と呼ばれる人になったのです。
聖霊降臨の出来事は、今日の世界中にある教会の誕生の日と言われます。イエスさまがなさった派遣の命令を受け、この時から、教会が始まったのです。
さらに、よみがえったイエスさまは、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)と言われました。イエスさまは、弟子たちを使徒として、世界に派遣されるにあたって、罪を赦す権限、力をお授けになりました。
この言葉から思い出す聖書の個所があります。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:28〜29)
これは、イエスさまが生前語られた言葉ですが、聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されないと言われます。
これから、聖餐式を続けます。
この聖餐式の式文には、13回、「聖霊」という言葉が出てきます。「どうか、み言葉と聖霊により、主の賜物であるこのパンとぶどう酒を祝し、聖として、わたしたちのためにみ子の尊い体と血にしてください」と言って、パンとぶどう酒が聖別され、キリストの体と血として戴きます。
主が受けなさいと命じられる聖霊をしっかり受け取りましょう。
〔2015年5月24日 聖霊降臨日(B) 四日市聖アンデレ教会〕