イエスとニコデモ
2015年05月26日
ヨハネによる福音書 3章1節〜16節
1 神の国を見ることはできない。
今、読みました福音書、ヨハネによる福音書3章1節〜16節からご一緒に学びましょう。
ある夜、ユダヤ教の熱心な信者で、ファリサイ派というグループに属していて、議員をしているニコデモという人が、イエスさまの所にやって来ました。
ファリサイ派というのは、ユダヤ人の中でも特別に熱心な律法主義者の集まりです。そして、議員という社会的な地位にあります。
そのような立場の人ですから、白昼堂々とイエスさまを訪ねることが出来ず、夜、人目をはばかりながら、イエスさまの所にやってきました。
そして、イエスさまに言いました。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
ラビとは、ユダヤ教の律法の教師を呼ぶ「先生」という意味です。そして、「しるし」とは、奇跡のことです。
「先生、あなたは、数々の奇跡を行っておられます。そのような奇跡を行う人というのは、普通の人ではありません。神さまから遣わされた方であり、神さまがあなたと共におられるからそういうことができる方なのだということはよく分かっています。」
ニコデモは、このようにイエスさまに申し上げました。
ところが、イエスさまは、突然、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。
イエスさまとニコデモ、この2人の会話は、食い違っています。対話になっていません。
ヨハネによる福音書によりますと、イエスさまと人びとの対話が、このようなすれ違いから始まっている場面がよくあります。
イエスさまに、美辞麗句を使って、おべんちゃらを言って近寄ってくる人に対して、その内心を見抜き、ズバッと本心に切り込む手法で語られます。
突然、「神の国を見るには、どうしたらいいのか」というテーマを切り出されました。
「神の国」とは、天国、永遠の命、ほんとうの救いという意味です。
このテーマこそ、すべての、宗教に救いを求める人が持つ究極のテーマです。
神の国とは、「神さまが王として、王の支配が隅々まで徹底され、行き渡る王の国」を意味します。
神の国を見るというのは、王である神の力に、完全に服従することです。そのためには、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。ニコデモが神の国とは何ですか、永遠の生命を得るにはどうしたらいいのでしょうかと、訪ねようとしたテーマに、直接答えを出しました。
2 新たに生まれなければ
そこで、ニコデモは言いました。
「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と。
ニコデモは、ある程度歳を取った人だったと思われます。この歳になって「新たに生まれなければ」と言われても、もう一度お母さんのお腹に入って生まれてくるなんていうことはできませんと言いました。
イエスさまは、お答えになりました。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
お母さんのお腹からもう一度生まれ直すことではない。水と霊によって生まれ変わるのでなければ、新しく生まれ変わったことにはならない。これは、「水と霊」すなわち、洗礼によって生まれ変わることを指しています。
イエスさまが言われるのは、肉体、肉によって生まれ変わることではありません。
それは、神の力によって生まれかわる、神の霊によって生まれかわることです。これは、単に、「洗礼式」という儀式や形式をいうのではありません。吹いてくる強い風によって、私たちが押し出されるように、神の力によって押し出されなければ、肉体的に見えることしか理解できない、律法を守ることや、良い行いをするといった道徳的なことぐらいのレベルのことしか分からない、私たち人間の知恵や経験からでは、神の国を見ることは出来ないのだと言われます。
3 人の子も上げられねばならない。
そして、次のように言われました。
「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とは、どういうことでしょうか。
イエスさまは、ここで、旧約聖書のある場面を思い出させ、その出来事を通して教えられました。
民数記2章4節以下にこのように記されています。
「彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」
主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。
民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」
モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」
イエスさまの時代からさかのぼること約1300年、紀元前1275年頃、エジプトの王から苦しい労役を強いられていたイスラエルの民は、モーセに率いられて、約40年間、シナイ半島の荒野をさまよいました。この出エジプトの出来事を通して、神は、イスラエルの民にさまざまな試練を与え、教え、訓練し、そして最後にはパラスチナの土地に導かれました。
延々と続く、砂漠の中での放浪生活の中で、イスラエルの民は、飢えと渇きを訴え、そのたびに神はマナというパンを天から降らせ、岩から水をほとばしり出させて、彼らを養ってこられました。
この長い苦難の旅も終わりに近づいた頃、「もう、われわれは、マナは食べ飽きた。単調な荒野の生活にもあきあきしたと、またまた不平、不満をつぶやき始めたのです。
このたび重なる不信仰に憤られた神さまは、彼らに「炎の蛇」を送って、イスラエル人を噛み殺させました。
炎の蛇とは、燃えている蛇ではありません。噛まれると火を押しつけられるように痛みを感じる猛毒を持つ蛇のことです。その蛇から民を救うために、神さまは、一つの方法を教えられました。長い竿の先に青銅で造った蛇をつけ、これを仰ぎ見た者は命が助かるということでした。
イスラエル人の中で、それを見上げて信じた者は、滅びから救われ、生きたと記されています。神さまの御定めと御言葉を信じて仰ぎ見る心、信仰こそ必要だったということです。
4 人の子も上げられなければならない
当時のユダヤ人がよく知っているモーセの時代の昔の出来事を上げ、
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(14節、15節)と、イエスさまは言われます。
長い竿の先に青銅の蛇をつけ、これを仰ぐということは、天を仰ぐということです。青銅で造った蛇に御利益があるということではありません。青銅の蛇、死んだ蛇の像が、竿の先に上げられたように、イエスさまも、十字架につけられ、死にました。イエスさまもまた死せる者として十字架に「上げられ」なければなりませんでした。また、3日目によみがえり、そして、天に上げられました。
ヨハネ福音書12章31節に、イエスさまはこのように言っておられます。「『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスさまは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」
青銅の蛇も、十字架のイエス・キリストも、神に反逆した私たちの罪の故に、死と滅びの罰を免れることのできない、憐れな私たちが救われるために神が定められた救いの方法、道を示されました。
青銅の蛇も、十字架上のイエスさまも、これを信じて仰ぎ見る者だけが救われます。15節に、「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と言われます。
イエスさまは、神の国にはいるためにどうしても必要なこととして、ご自分の十字架の死を語っておられます。
16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
そのために「人の子もまた上げられなければなりませんでした。」(14節)
ニコデモは、その後どうなったでしょうか。
祭司長やファリサイ派の律法学者たちが、イエスさまを捕らえようとした時、「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」
(7章50節、51節)と言い、「お前もガリラヤ出身か」と疑われたことが記されています。
また、イエスさまが息を引き取り、十字架から遺体を降ろし、お墓に葬ろうとしたとき、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を100リトラばかり持って来た。(19章39節)と記されています。
ニコデモも、水と霊による生まれかわりを得たのではないかと想像されます。
今日は、三位一体主日です。私たちの信仰が、イエスさまが求めておられる信仰に、ピントが正しく合っているでしょうか。そのことをふり返る日です。