成長する種のたとえ
2015年06月13日
マルコによる福音書4章26節〜34節
今日の福音書、マルコによる福音書には、「成長する種のたとえ」(26節〜29節)、「からし種のたとえ」(30節〜32節)、そして、「たとえを用いて語る説明」(33節〜34節)という、3つの部分からなっています。
私たちも、人々に何か大切なことを、心の内のことを話そうとする時、「たとえば‥‥」と言って、複雑な分かりにくい内容を、たとえによって具体的なものの話に置き換えて、分かりやすく説明することをします。
難しい言葉や事柄を、日常の体験や、人の動きや自然の現象など、あらゆる場面や事柄を取り上げて、それと比べ合わせて説明します。そして、聞く人の想像力に訴えて、しっかりと記憶させ、その人の心の中に受け止めてもらえる、考えを相手に伝えることができます。
イエスさまも、「何々のようなものだ」と言って、人々に話をするときに、「たとえ」を用いられました。
とくに、「神の国」、「天国」について語る時、いつも、たとえをもって語られました。
今読みました福音書の4章33節には、「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかった」と記されています。
「神の国」は、このようなものであると言って、「種を蒔く人のたとえ」、「善いサマリアのたとえ」、「愚かな金持ちのたとえ」、「実のならないいちじくの木のたとえ」、「からし種とパン種のたとえ」、「大宴会のたとえ」、「99匹の羊と見失った1匹の羊のたとえ」、「無くした銀貨のたとえ」、「放蕩息子のたとえ」、「不正な管理人のたとえ」、「やもめと裁判官のたとえ」「タラントンのたとえ」「ぶどう園の農夫のたとえ」「いちじくの木のたとえ」等々、当時の人々の生活に密着した内容で、たくさんのたとえが語られたました。
さて、マルコによる福音書4章26節〜29節では、神の国とは、農夫が土に種を蒔くと、その種を蒔いた人が、夜も昼も、その人が寝ている知らない間に、土はひとりでに実を結ばせる。
根が伸びて、茎がのびて、葉が広がり、穂がが出て、実ができる。その実が熟すると、やがて収穫の喜びの時が来る。
神の国とは、このように植物が成長して、収穫の時を迎えるようなものだよ、と言われます。
さらに、マルコの30節〜32節では、「神の国」とは、「からし種」が成長するようなものだと教えられました。
からし種とは、クロガラシ(Black mustard)と呼ばれる、アブラ菜科の野菜です。もともと西アジアの野草だったのですが、種から採れる油が広く使われるようになり栽培されるようになりました。よく灌漑された土地では、茎の高さが3メートルにも伸び、その種の一粒は、直径1ミリ前後で、胡麻よりも小さく、エンドウ豆のようにサヤに入っている野菜です。それが成長して大きな樹木のようになって鳥が巣を作るるほどになる、最も小さい種と、大きくなるものを対比させて、たとえが語られています。
イエスさまが、ガリラヤ地方で、福音を宣べ伝え始められた時の第一声は、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)という言葉でした。
「神の国が近づいた」ことを宣言されたのです。
神の国という言葉は、英語の聖書では、キングダム・オブ・ゴッド(The kingdom of God)と記されています。単に国ではなく、「王が支配する国」という意味です。
神の支配、神が王として支配する事実とか状態を意味します。目に見える形では、神はイスラエルの王であり、その民が律法に啓示されている神の意志に従順である限り、また自分を掟に従わせることは、自分に天の王国を引き受けることでした。
さらに、もう一つの意味は、神は、イスラエルの民だけの王ではない、それ以上の方であるということです。神は、全世界の王であり、宇宙の王です。しかし、世界は、神を王として認めないということです。今は、世俗的な力が世界を支配することが許されているが、未来において、聖徒たちが、王に完全に支配される時が来るであろうと、希望を持っています。それが終末的な神の国を待望する信仰です。さらに、現在、その時が至るまでの間、私たちは目に見える姿で、神の国を見ることができます。それは、全世界にあって、証しする「教会」です。教会は、キリストを頭とするキリストの体です。教会を支配している力は、神さまであると共に、キリストの愛でなければなりません。
少し理屈っぽいことを言いましたが、神の国を、もっと具体的に言いますと、神の御子であるイエス・キリストがこの世に来られたということです。そのことが「福音」であり、よきおとずれ、グッド・ニュースなのです。
もう一度、種まきのたとえに話をもどします。このたとえを、もう少しわかりやすくあてはめて解説しますと、種蒔く人とは、神さまのことです。種とは、「神のみ言葉」です。そして「土はひとりでに実を結ばせる」の土とは、私たちのことです。茎が成長し、穂が出て、実がなってというのは、神さまによって、私たちの心に蒔かれたみ言葉は、実を結び、熟して収穫の喜びの時を迎えます。神の国がほんとうに全うされる時を迎えます。
2007年のことでした。私は、3月末を待って、定年を迎え、あと何週間、あと何日と、感慨にふけりながら、聖アグネス教会で、牧師として勤めていました。
ある、日曜日、いつものように聖餐式の司式をしていて、説教壇に上がり、気がついたのですが、礼拝堂の窓際の真ん中辺に、一人の男性が座っていました。
通りすがりの人か、どこかの教会の信徒の方で、旅行者の方かなあと思いながら説教を続けました。聖餐式が進み、陪餐の時になると、その人も前に出てきて、陪餐されました。
礼拝後の報告の時に、いつものように、お客さんの紹介があり、大阪の聖公会の教会の信徒だと名乗って自己紹介されました。みんなで歓迎の拍手をしました。
みんなが立ち上がった後で、
「今日は、よくいらっしゃいました」と言って、言葉をかけますと、
「先生、覚えていらっしゃいませんか。Yです」と言って、鞄から古びたハガキを2枚出されました。
それをよく見ると、大阪の聖贖主教会が出した青いインクの謄写版刷りの「クリスマス礼拝ご案内」のハガキでした。その字は、私がガリきりをしたなつかしい字体です。
横にいた家内にそのハガキを見せると、「この表書きの字、わたしに字やわ」とすっとんきょうな声を上げています。
そこで、「あーーっ、Yくん」と、その当時のことを思い出し、そして、昔話に花が咲きました。
私が、神学校を卒業して3年目ぐらいのことでした。最初の赴任した大阪聖パウロ教会で、2年勤務して、司祭になって、十三の博愛社という養護施設にある聖贖主教会で約3年いました。Y君は、その時代に、友だちに誘われて教会に来ていた高校生でした。
その当時、青年や高校生の集まりが活発で、毎主日2、30人が集まり、いろいろな活動をしていました。Yくんは、その中でも、おとなしい、静かな高校生だったことを思い出しました。そのうちに、何かの事情で、教会に来られなくなり、私も転勤で、尼崎の教会へ移りました。
Yさんは、大学を卒業し、その時は、吹田市の市役所に勤務していて、もう間もなく定年だと言っていました。
中年になってから、教会のことを思い出し、近くの聖公会の教会に通い始め、洗礼、堅信式を受けたとのことでした。教会では、教会委員や信徒代議員をし、役所を定年退職した後は、現在、教会関係の社会福祉にかかわり事務局長として働いておられます。その後、京都の神学校に聴講生として吹田から通っておられました。
高校生の頃、そのYさんの心に,神さまによって種が蒔かれ、40年が経ち、キリストの僕として人生を送っておられます。私などは、蒔かれた種に、ある時期、少しだけ水を注いだぐらいの役割ですが、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」(マルコ4:27、28) という言葉から、かつての一人の青年を思い出しました。
私たち、一人一人、みな、それぞれ、神さまによって種を蒔かれました。
聖パウロがコリントの信徒に宛てて書いた手紙に耳を傾けたいと思います。
「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」
(�汽灰螢鵐�3:5-9)
〔2015年6月14日 聖霊降臨後第3主日(B-6) 京都聖マリア教会〕