「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

2015年06月20日
マルコによる福音書4章35節〜41節  今、読みました今日の福音書は、イエスさまと弟子たちが乗った舟に、激しい突風が吹いて、舟が沈みそうになった、イエスさまが、この風と荒れ狂う波に向かって「黙れ、静まれ」とお命じになると、風は止み、すっかり凪になったという奇跡物語が記されています。  聖書には、病気を癒やす、悪霊を追い出す、体の不自由な人、目の見えない人を癒やすなど、イエスさまがなさったいろいろな奇跡物語が記されています。  私たちは、これを読んで、いつも慣れっこになってしまって、聖書だから、イエスさまだからそんなものだと、読み過ごしてしまう、通り過ぎてしまっているということはないでしょうか。  聖書に記されている奇跡の出来事に出会って、いちばん大事なことは、「驚き」をもって向かい合うということではないでしょうか。  イエスさまがなさった奇跡が、自分の身に起こった当人、それを間近に見ていた人々、さらにその事を伝え聞いた人々は、それぞれに、驚き、疑い、イエスさまに不思議な力があることを感じ、そして、信じる者になっていったに違いありません。  そのために、まず、体中に感動が走るというような気持ちに突き動かされたのではないかと思います。  私たちは、その場に居合わせた人たちと、全く同じ感動や感情を持つことは難しいことかも知れませんが、まず、驚き、恐れ、疑い、信じる思いを持って、今日の奇跡物語を見たいと思います。 今日の福音書の奇跡物語(マルコ4:35〜41)は、イエスさまが、ガリラヤ湖で、突然起こった風や荒れ狂う波を静められたという、自然現象をも従わせたという奇跡の出来事が記されています。  イエスさまと弟子たちが、舟に乗った時が、すでに夕方だったとありますから、すでに真っ暗闇の湖の真ん中で、突然の大風と大波に襲われ、木の葉のように上下し、今にも舟が沈みそうになりました。  ガリラヤ湖は、面積にして琵琶湖の4分の1ぐらいの湖ですが、水面の高さが、海抜マイナス213メートルという低い所にあります。(琵琶湖は、海抜84メートルにあります。)  ガリラヤ湖はヨルダン大渓谷と呼ばれる谷の底にある湖で、東西の高地に挟まれているために、しばしば強烈な風、突風が吹き荒れます。琵琶湖もそうですが、ガリラヤ湖にしても、日頃は穏やかな湖ですが、突風が吹きつけると、大きな波が立ち、たびたび、そのような突風による遭難事故が起こったと言われます。  その時、イエスさまは、舟の艫、舟の後ろの方で、横になって眠っておられました。疲れておられたのか、ぐっすり寝込んで、舟がどんなに揺れても、平気な様子で眠っておられました。  一方、弟子たちの方は、怖くて、船縁につかまって、震えています。 不思議に思うのですが、イエスさまの12人の弟子たちのうちの4人、ペテロとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、このガリラヤ湖で、魚を獲っていた漁師でした。  イエスさまに招かれて、舟も網も父親もその場に置いて、イエスさまに従ってきた人たちでした(マルコ1:16-21)。 小さいときから舟に乗ることも、少々の嵐にあっても平気なはずの、プロの漁師でした。ところが、舟が波をかぶり、小さな舟は水浸しになり、今にも舟が沈みそうになった時、この4人も含めて、全員が、舟が沈んだらどうしようと、不安になり、怖くなったのです。  そこで、弟子たちは、イエスさまに「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と言って、イエスさまを起こしました。  この奇跡物語は、マルコによる福音書以外に、マタイの福音書にも、ルカによる福音書にも記されています。  マタイによる福音書では「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言ったと記されています。  ルカによる福音書では、「先生、先生、おぼれそうです」と訴えたとあります。  イエスさまは、やっと目をさまし、ゆっくりと起き上がって、荒れ狂う風と波に向かって「黙れ、静まれ」ときびしくお命じになりました。  すると、風は止み、波も静まって、凪になりました。  常識やふつうの経験ではあり得ない、起こり得ないことが起こった時、私たちも「奇跡だ」、「奇跡が起こった」と言います。  風や波に命令して、自然現象を支配されたという奇跡が、弟子たちの目の前で起こったのです。  この奇跡を目の当たりにして、弟子たちはどのような行動をとったでしょうか。  イエスさまは何と言われたでしょうか。  第1に、イエスさまは、弟子たちに言われました。 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。(40節)  第2に、弟子たちは言いました。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と。(41節)  弟子たちは、真っ暗な中で、吹きすさぶ風、波が頭から降ってくる、舟が水浸しになる、舟が沈むのではないか、このまま死んでしまうのではないかという、不安と恐怖に、がたがた震えるばかりです。  なすすべがなく、「先生、先生」「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」「助けてください。おぼれそうです」と、静かに休んでおられるイエスさまの耳元で、騒いでいます。  そこで、イエスさまは、起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。  たしかに風に向かって、湖に向かって「黙れ、静まれ」と言われたのですが、しかし、それは、同時に、おろおろして騒ぎたてる弟子たちに向かっても、「黙れ、静まれ」と、叱りつけ、命令されたのではないでしょうか。  すると、たちどころに風はやみ、波はピタッと静まりました。奇跡が起こったのです。  不思議なことが起こったのです。 神さまにしかできない自然現象を支配する力を、イエスさまは弟子たちに見せつけました。  しかし、大切なことは、「なぜ怖がるのか。」「なぜ、まだ信じないのか」と言われたことばです。まだ信じないのかという「まだ」とは何でしょうか。  「信じない」とは、何をどのように、信じていないというのでしょうか。  ルカによる福音書17章20節以下に、このような個所があります。  律法主義者の集団、ファリサイ派の人々が、イエスさまの所に来て、「神の国はいつ来るのか」と尋ねました。これに対して、イエスさまは答えて、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われました。  神の国、天国とは、絵に描いたようなものではない。雲の上にあるのでもない。「ここにある」「あそこにある」と言って場所を指すのでもない。それよりも、今、あなたがたの真ん中にあるのが分からないのか」と言われます。  「あなたがたの間」とは、イエスさまを、大勢の人たちが取り囲んでいるわけですから、イエスさまご自身を指します。  「わたしだ、わたしだ、わたしが一緒に居る所」「わたしが共にいるではないか、そこに神の国がある。天国とは、わたしと一緒にいるこの状態なのだ」と言われるのです。  また、マルコの福音書の冒頭、イエスさまが、ガリラヤで、初めて人びとの前に姿を現し、宣教を始められたその第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」でした。  いよいよ、神さまによって定められた時が来た。神の国、すなわち、わたしがあなたがたの所に来た。だから、悔い改めて、この良きおとずれ、GoodNews を信じなさい、受け入れなさい、と宣言されました。  イエスさまこそ「インマヌエル」「神はわれわれと共におられる」そのものです。このことこそが、新約聖書全体が言おうとするいちばん大切なテーマです。  イエスさまは、じたばた騒ぐ弟子たちに向かって、「お前たちは、今、わたしと一緒に居るではないか。この状態は、神の国ではないか、天国ではないか。わたした共にいるならば、風が吹こうが、波が来ようが、舟が沈もうが、何も恐れることはないではないか。まだ分からないのか」と言われます。  弟子たちは、「溺れそうです」「死にそうです」と、死の恐怖におびえています。  神さまは、私たちが生きている者にも、世を去った者にも、その世界を支配される方です。イエスさまと共にいる状態が天国、神の国であるならば、何も恐れることはないではないか、何を恐れているのだと、言われます。 「そのことがまだ信じられないのか」と、弟子たちに向かって叱りつけ、黙れ、頭を冷やせ」と叫んでおられます。  弟子たちには、まだ、その意味がわかりません。  弟子たちは、非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とお互いに言い合いました。  この奇跡物語が伝えようとしている、もう一つのテーマは、イエスさまに対して、「この方は何者なのだろう」という疑問に答えることです。  強大な力を持つ突風や荒波という自然現象さえ従わせる、自然をも支配できるこの方のこの力はどこから来るのかと、先ず、驚き、そして恐れの気持ちをもって、イエスさまを見る、イエスさまのことを見直させるということです。この方は普通の人ではない、神から遣わされた方だということを、思い知らせることにあります。  「イエスというこの方は誰なのか、何者なのか」という問いに答えることが、聖書全体のテーマであり、奇跡物語のテーマです。  弟子たちは、イエスさまと共に、小さな舟に乗り合わせ、イエスさまが共にいて下さりさえすれば、この方を信頼しすべてを委ねることができれば、どんなに風が吹こうが、波が立ち上がろうが、舟が沈みそうになろうが、不安も恐れも、死さえも乗り越えられるということを教えられました。  さて、私たちの毎日の生活の中に、イエスさまは、共におられるでしょうか。  吹きすさぶ大風、押し寄せる荒波にほんろうされながらも、イエスさまが共にいて下さる安心を得ているでしょうか。  私たちは、すべてをこの方に委ねる信頼を持っているでようか。  教会は、私たちが乗り合わせている舟です。現在という時代の荒波にもまれている小さな小さな舟です。  この舟に、イエスさまが共に乗っておられることを、ちゃんと受け取り、すべてを委ねて、心から信頼して信仰生活を送っているでしょうか。  「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と、右往左往して、騒いでいるだけということはないでしょうか。  イエスさまは、言われます。  「黙れ。静まれ」と、そして、「わたしが、あなたがたと共にいるのに、なぜ、怖がるのか。なぜ不安を感じるのか。まだ信じないのか」と。 〔2015年6月21日 聖霊降臨後第4主日(B-7) 東舞鶴聖パウロ教会〕