「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」

2015年06月28日
マルコ5:22-24,35b-43  本日の福音書は、マルコによる福音書5章22節〜24節、そして、35節b〜43節ですが、ここには、会堂長ヤイロの娘が、病気になり、死んだ後、イエスさまによってよみがえったという「奇跡物語」が記されています。  この間に挟まった25節〜34節は、イエスさまがヤイロの家に出かけるその途中で、12年間出血が止まらない女の人が、イエスさまの服に触れて、病気が癒されたという、もう一つの奇跡物語が挟まれている形になっています。  これは、サンドイッチ型構成と言って、マルコが、奇跡物語を強調するためによく用いている形式でした。  この挟まれた部分は、今日の福音書朗読からは省略されています。  イエスさまの時代、ユダヤ教の宗教活動は、エルサレムにある神殿と、各地域にある会堂(シナゴグ)と呼ばれる施設で行われていました。  エルサレムにある神殿では、大祭司や祭司たちが大勢いて、人びとは、ここで羊や山羊、牛、鳩などの犠牲をささげていました。  これに対して、会堂では、モーセ五書と呼ばれる律法の書が読まれ、ラビと呼ばれる律法学者が、律法について厳しく教えていました。  会堂長は、この会堂の管理、運営を司る人で、会堂を守る権限を持っていました。  イエスさまと弟子たちは、ガリラヤ湖を舟で渡って、ガリラヤ地方に来られて、再び大勢の人々が押し寄せ、人々に囲まれて、湖のほとりにおられると、そこに、この地方の会堂の長であるヤイロという人が、イエスさまに会いに来ました。  この会堂長ヤイロには、12歳の娘がいて、その娘が、死ぬかもしれないと思われる病気を患っていました。  そのまま放っておくと死んでしまう。何とかして助けたい、助けてやりたいと願い、父親のヤイロは、イエスさまの前に来て、足もとにひれ伏し、必死になって、頼みました。  「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と。  地位も名誉もあるユダヤ教の指導者である会堂長が、恥も外聞も捨てて、無名の男、イエスさまの前にひれ伏して、願ったのです。  イエスさまは、ヤイロの願いを聞いて一緒に出かけて行かれました。大勢の群衆も、イエスたちの後について来ます。 途中で、いろいろな出来事がありましたが、イエスさまの一行は、まもなくヤイロの家の近くにまで来ました。  その時、会堂長の家から人々がやって来て、ヤイロに言いました。  「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と。  もうその先生には来てもらわなくても結構ですと言いに来たのです。  イエスさまは、その話をそばで聞いておられました。  ヤイロは、その知らせを聞いて、取り乱したに違いありません。父親ヤイロは、細い最後の一本の糸に頼るような思いで、イエスさまのところに救いを求めて来たのです。  この方こそ唯一、娘を助けてくださる方だと思って、なりふりかまわずお願いしに来たのですが、間にあいませんでした。  その知らせを聞いて、取り乱し、悲しむ会堂長ヤイロに、イエスさまは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。「信じ続けなさい」、「わたしを信頼し続けなさい」と言われました。  そして、弟子たちの中から、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、会堂長の家に向かわれました。  イエスさまと3人の弟子たち、そしてヤイロが、会堂長の家に着くと、家族や近所の人たちが、大声で泣きわめいて騒いでいます。  イエスさまは、その様子を見て家の中に入り、人々に言われました。  「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」  これを聞いて人々は、イエスさまをあざ笑いました。  眠っているのではない、仮死状態でもない、死んだのだ。それぐらいの区別もつかないのか。眠っているだけだったら、こんなに泣き悲しんでいるはずはないではないか。  彼らはイエスさまのことをあざ笑いました。  しかし、イエスさまは、そこにいる人たちを外に出し、この娘の両親と3人の弟子だけを連れて、子供が寝かされている部屋に入って行きました。  そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われました。  これは、アラム語という言葉で、その当時、イエスさまが日常の生活で使っておられるやさしい言葉でした。  「タリタ」は「娘よ」という意味です。そして「クム」は「起きなさい」という意味です。  「起きなさい」と言われるイエスさまの言葉は、眠っている人にかける言葉ではなく、死んだ人をよみがえらせることばです。  すると、ヤイロの娘は、すぐに起き上がって、歩きだしました。  奇跡が起こったのです。  この少女はもう12歳にもなっていましたから、当然歩き回ることができたと、わざわざマルコは記しています。  これを見ていた人たち、すなわちヤイロの家族、集まっていた親族や近所の人たち、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言いに行かせた人たち、イエスさまのことをあざ笑った人たちがそこにいました。そして、彼らは、その死んだ娘が歩き回っているのを見ました。  「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」とあります。  我を忘れるような驚きとはどのような驚きでしょうか。  ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちは、この娘が復活した出来事を、目の前で見、その証人となりました。  しかし、イエスさまは、この出来事が、この驚きに尾ひれがつき、興味本位に、ただ噂だけが伝わることが、イエスさまを、救い主だと言って担ぎだそうとしたり、魔術師や呪術師と受け止められたりすることを恐れ、まだその時ではないという意味で、このことをだれにも知らせてはならないと厳しくお命じになりました。  さらに、ただ興奮して、舞い上がった状態になっている家族を静めるために、また、夢でも、幻でもない、確かな現実であることをわからせるために、この娘に何か食べ物を与えなさいと言われました。  これが、今日の福音書にある奇跡物語です。  イエスさまが、このような奇跡を行われたのは、何のためでしょうか。  この奇跡物語は、私たちに何を知らせようとしているのでしょうか。  聖書は、私たちに何を受け取ってほしいのでしょうか。  イエスさまが奇跡を行われる時、その動機を知ることが大切です。  「動機」とは、人が、物事を決定したり、行動を起こしたりする直接の原因を知ることです。  第一に考えられることは、イエスさまの、ヤイロへの同情であり、ヤイロに対する愛にあったと考えられます。  イエスさまは、たしかにこの会堂長が、イエスさまの足元にひれ伏して、「助けてください。娘が死にそうです。お出でになって手を置いてやってください」と、必死にお願いする姿を見て、哀れに思われました。  その動機は、父親であるこの会堂長が、可哀想だったので、憐れに思い、同情して、腰を上げられたと考えることができます。  別の言葉で言いかえると、この奇跡の動機は、イエスさまの「愛」だったということができます。  第二に、この奇跡の結果を見た人たちは驚きました。  我を忘れるほど驚きました。そんなことが起こるはずがないと、びっくり仰天しました。  その「驚き」が大きければ大きいほど、人々のイエスさまに対する思いは、「この人は誰だ」、「この人は何者なのだ」、「この力はどこから来たのか」という思いに、変わっていきます。  イエスさまには、この娘が、確かに死んでいることはわかっているのですが、今これから、この娘をよみがえらせようとしておられるので、イエスさまは言われました。  「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と。  これを聞いて、人々は、イエスさまをあざ笑いました。  「そんな馬鹿なことはない。もし、この娘が、眠っているのだったら、こんなに悲しんだり、泣いたりするものか。眠っているのか、死んでいるのか、それぐらいのことは、われわれでもちゃんと分かっている」と言ってあざ笑ったのです。  あざ笑う人々の姿と、イエスさまがこの娘をよみがえらせた後、当の本人が歩き出している娘を見て、「人々は驚きのあまり、われを忘れた」という姿を対比して、家族を含めてそこにいるすべての人々の「驚き」の大きさ、ショックの大きさがわかります。  その驚きが大きいほど、「この方は、誰なのか」「この方はどこから来たのか」「この力は何の力か」を悟らせ、神さまに目を、心を向けさせることになりました。  会堂長ヤイロのところに「お嬢さんは亡くなりました」と報せがもたらされた時、イエスさまは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。イエスさまは、ただ、病気を癒やすだけではなく、死んだ人をよみがえらせる力を持つ方であることを、「わたしを信じなさい。わたしを信頼しなさい」と言われたのです。  イエスさまの奇跡の動機は、人々に、我を忘れるような、振るい上がらせるような「驚き」を経験させることだったということができます。  その背後に、神さまの力があり、イエスさまこそ、神の子、神であることを知らせるためでした。  しかし、この奇跡を直接自分の目で見た人も、その話を聞いた人も、誰にも知らせないようにと厳しく命じられても、黙っていることができない衝動にかられました。 その結果、イエスさまを十字架に向かわせる原因となったと言うことができます。  イエスさまが行われた奇跡の物語をどのようにとらえるか。  少しでもこれを理解しやすいように、合理化して解釈する方法があります。またその内容から教訓的な何かを引きだそうとしたり、何かのたとえのように取り上げたりする、いろいろな解釈の方法を試みます。  しかし、大切なことは、私たちが、イエスさまが行われた奇跡物語に出会って、まず、どのように心が動いたか、感動をもって受け止めたかということではないでしょうか。  その場に居合わせた人々が、「われを忘れるほど驚いた」、驚きを持って、奇跡と出会うことではないでしょうか。  奇跡物語にこめられている深い意味を、イエスさまがこれを行われる動機をしっかりと受け止めたいと思います。        〔2015年6月28日 聖霊降臨後第5主日(B-8) 四日市聖アンデレ教会〕