自分の弱さを誇る

2015年07月04日
コリントの信徒への手紙��12:2〜10  今読まれました今日の使徒書から学びたいと思います。  聖パウロが、コリントの教会の信徒の人々に宛てた手紙の中の一節です。  パウロという人は、若い頃は熱心なユダヤ教徒でしたが、劇的な宗教体験をして、クリスチャンになりました。パウロは、生前のイエスに直接会ったことはありません。  クリスチャンになったパウロは、地中海沿岸の各地に3度も伝道旅行をしました。  キリストの使徒として活躍し、キリスト教信仰の基礎を築いた人ということができます。新約聖書27巻の内、「ローマの信徒への手紙」から始まる13の手紙には、パウロの名が付けられています。  このパウロという人、いわゆる聖書を書いたような、後に聖人と呼ばれるような人にも、何とも言えない人間的な弱さがあったことが伺えます。  パウロは、生前のイエスさまに直接会っていません。また復活された直後のお墓を見たという体験もしていません。後から使徒団に加わった立場ですから、弟子たちに対して、少し遠慮しているようなところがあります。  そして、何よりも、かつてはクリスチャンを迫害していた者だったということで、他の使徒たちからは、なかなか受け入れてもらえなかったようです。これに伴う劣等感と、強がりを言っているような部分も見受けられます。  第二コリントの信徒への手紙10章10節によりますと、「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』」と言われていると、自分で書いています。  他の資料によりますと、パウロという人の風貌は、背が低くて、髪が少なく、足が曲がっていた人のようです。  しかし、パウロは、初代教会において、最初の神学者であり、誰よりも熱心な福音宣教者であり、異邦人伝道に身も心も燃焼させた人でした。キリストのために、さまざまな危険、苦難に遭い、たびたび牢獄につながれていました。そして、最後には、皇帝ネロの時代の大迫害の時に捕らえられ、殉教の死をとげたと言われています。  さて、今日の使徒書は、コリントの信徒への手紙第二12章2節以下ですが、その前の第1節では、パウロは、このように書いています。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう」と。  「誇る」とは、「名誉に思う」という意味もありますが、「すぐれていると思って得意になる」とか「得意になっている気持ちを言葉や態度で人に示す」「自慢する」ことです。  パウロが、「得意になっている」とか「自慢したい気持ちになっている」とは、どういうことでしょうか。 それは、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」と言っています。もう少し具体的に言うと、14年前に、パウロの身に起こった不思議な体験です。幻視体験というのでしょうか、その不思議な出来事を言っています。  パウロがまだサウロと呼ばれていた頃、彼は、熱心なユダヤ教徒として、イエスさまの弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、エルサレムからダマスコへ向かう途中でした。  彼らはクリスチャンを見つけ出し、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行しようとしていました。  ところが、サウロと一行が旅をして、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らしました。サウロは、バタッと地に倒れました。  すると、天から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声が聞こえました。  パウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。 「起きてダマスコの町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」  同行していた人たちには、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていました。  サウロは地面から起き上がって、目を開けましたが、何も見えません。人々は、彼の手を引いてダマスコに連れて行きました。サウロは、3日間、目が見えず、食べることも、水を飲むこともしなかった、と記されています。(使徒言行録9:1〜19) このようなような不思議な出来事によって、サウル、後のパウロは、生まれ変わりました。ダマスコで、アナニアという弟子に出会い、サウロの頭に手が置かれて、聖霊を受けたとき、「目からうろこのようなものが落ち」目が見えるようになりました。サウロは洗礼を受け、キリストに捕らわれた人となたのです  「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません。」(�競灰螢鵐�12:2-5)  ここで、パウロは、自分自身のことを客観化して、第三者、人のことを語るような口調で語っています。  パウロは、自分の中に二人の人を見ています。  一人は、神さまの恵みによって、人間の世界を越えた、神秘の世界に引き上げられた自分であり、もう一人は、「弱さ」を背負った本来の自分です。  パウロは、クリスチャンになって、伝道旅行をする中で、さまざまな苦難に遭い、死ぬような思いをしています。もう、体も心も、疲れ果ててぼろぼろです。  パウロ自身、このように手紙の中で書いています。 「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から40に1つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが3度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」 (第二コリント11:23〜30)  このように、力尽き、へとへとになって、悲鳴を上げています。そして、その中で、パウロは、自分の「弱さを誇る」と繰り返しています。「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と言います。  さらに、パウロは、神さまが、自分が思い上がることがないようにと、サタン、悪魔から使いを寄越して「一つのとげ」を与えられたと言います。このサタンの使いを、わたしから離れさせてくださいと3度も祈ったと言っています。  パウロには、さまざまな苦難の上に、さらに、命にかかわるような持病があったと言われています。心臓病だとか、てんかんとか、マラリアだったとかいろいろな説があります。もう駄目かと思うような発作に見舞われたことが3度もありました。これをも、パウロが、自分が誇ろうとする「弱さ」の一つとして数えています。  パウロは命がけで祈りました。「助けてください」、「お恵みを与えてください」「力を与えてください」と祈りました。  その時、パウロに聞こえた神の声は、  「わたしの恵みはあなたに十分である。力は、弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」というものでした。  これはどういうことなのでしょうか。  私も、15年ほど前に、突然「狭心症」の痛みに襲われ、夜中に救急車で病院に運ばれたことがあります。それ以後、そのために5回入退院を繰り返し、心臓カテーテル検査を6回、詰まった心臓の血管に風船を入れてふくらまるせたり、ステントという金網を入れたり、現在の医学の恩恵を受けています。5回目に入院した時、気持ちの悪い不整脈が続きましたが、クリスマスの直前で、どうしても退院したいと、担当の医師に言いますと、その医師から「あなたの場合は、突然死を招く可能性のある不整脈ですよ、死にますよ」と言われて、ぞっとしました。  私たちの感覚では、病気になったり、いろいろな問題で、行き詰まったりすると、「神さまのお恵みを与えてください。私の弱い所を強くしてください」と祈ります。そして、一生懸命祈ったら、神さまは、すぐにお恵みを与えてくださるものだと思って祈ります。  そんな時、私たちに、神さまの声は、何と聞こえるでしょうか。やはり、パウロが受けた神の声と同じ声が聞こえるのではないでしょうか。  「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。  私たちの祈りは、病気が治りますように、苦痛が去りますように、死なないようにしてくださいと、案外、即物的、現世御利益的な祈りをしていることがよくあります。お恵みを与えてください、神さまの力を与えてくださいと、必死になって祈ります。どうかすると、自分の希望や願望が、最優先であって、神さまは、わたしの願いを聞くべきだ、なぜ聴けないのかと、神さまを脅迫したり、神さまに命令するような迫り方をしてしまいます。それが熱心な信仰の姿だと思っています。  パウロも、多分、苦しい発作に襲われ、いろいろな苦難の中で、死ぬような思いの中で祈っているのですから、私たちと同じような祈りだって、間違っているとはいえません。  しかし、神さまの答えは、突き離すような言葉でした。  「わたしの恵みは、もうあなたには十分与えられている。」  「わたしの力は、あなたの弱いところにこそ十分に発揮さ  れているのだ」と。  私たちがお願いする祈りは決して間違いません。しかし少し理屈っぽいことを言いますと、今、目前の病気が治ったとしても、また次の病気にかからないというわけではありません。苦痛や苦悩が去っても、また次の瞬間には苦痛や苦悩がやってきます。今、死ぬことを免れても、人は必ず死ぬわけですから、ちょっと寿命が延びただけです。  神の恵みというものは、その時だけの、またその場だけの苦痛や苦悩を和らげる麻酔薬や頓服ではありません。一時的に命を長らえるための延命の装置でもありません。  神さまが、私たちに求めておられることは、つねに「神と共に居る」ということです。神の支配の下にあって、百パーセント神さまの意志に服従することです。そのためには、キリストを受け入れること。そこにこそ、ほんとうの幸せがあります。それがキリスト教の「救い」なのです。  そして、そこに至るために、神の方から私たちを招いてくださっているのです。これこそが「神の恵み」であり、神の力が発揮されているところです。そのためには、満ち足りて何も不足がない、自分は強い、自分は元気だ、自分には力がある、自分で何でもできると思っている人には、その傲慢さゆえに神の恵みを受け取ることができず、神さまのみ心を知ることもできません。 パウロが「弱さを誇ろう」言っている理由がここにあります。 「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(第二コリント12:9-10)  私は、自分自身、医者から「死にますよ」と言われて、少しパウロの気持ちがわかったような気がします。身体的な弱さ、精神的な弱さを、自分でしみじみ感じる時、そこを窓口として、突破口として「神さまの恵み」が見える、神さまに近づくことができる、神さまの招きに応えようとする姿勢ができる、そして、それは、さまざまな苦悩も病気も、死さえも越える、ほんものの「強さ」に通じると思うのです。  それゆえに、胸を張って「弱さを誇る」ことができるのです。誰でも、みんな「弱さ」や「醜さ」を持っています。これを窓口に、ほんとうの「強さ」に近づくことができるではないでしょうか。聖パウロにならって、私たちも「自分の弱さ」を誇ろうではありませんか。  私たち自身の「弱さ」の中で発揮されるキリストの力、強さ、恵みを誇れる信仰を持ちたいと思います。 〔2015年7月5日 聖霊降臨後第6主日(B-9) 下鴨キリスト教会〕