キリストにおいて満ちあふれる神の恵み
2015年07月11日
エフェソの信徒への手紙1:1〜14
今日は、使徒書、エフェソの教会の信徒に宛てられた手紙の1章3節から14節、ここから学びたいと思います。
エフェソという街は、エーゲ海の入口、小アジアの西海岸にある美しい港を持つギリシャ人の都市でした。
交通の要所にあって貿易が盛んで文化的にも発展した都市でした。
パウロは、2回目の伝道旅行の帰途に、エフェソに立ち寄り、短期間伝道して、プリスキラとアキラ(アクラ)を残して旅立ちました。
さらに第3回目の伝道旅行の時にも立ち寄り、この時には少なくとも2年3ヶ月、エフェソに滞在し、キリスト教の教えを説いたと記されています(使徒言行録19:10)。
パウロが、エフェソの街に入った時に、ある出来事がありました。
エジプトの北部、アレクサンドリアの出身のユダヤ人で、アポロという人がいました。
聖書に詳しく、律法や預言の書に精通していて、とっても熱烈な雄弁家でした。
この人が、エフェソにやって来て、ギリシャに住むユダヤ人に対して、イエスさまの教えを説き、熱心に語っていました。
アポロは、イエスさまの教えを受け入れていて、決して間違ったあことを言っていたわけではなく、イエスさまの教えを正確に教えていた。
しかし、アポロは、あのバプテスマのヨハネの洗礼しか、知らなかった、体験していませんでした。
それでも、このアポロは、毎日、ユダヤ人の会堂で、イエスさまの教え、なさったことについて、大胆に教えていました。
これを聞いたパウロの弟子たち、プリスキラとアキラは、アポロを家に招いて、もっと正しくイエスさまのことについて説明しました。
そういうことがあって、さらに、アポロは、アカイア州のコリントに行きたいと願っていたので、プリスキラとアキラたちは、アポロを励まし、その地にいる弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書き、アポロを送り出しました。
その後に、パウロは、入れ違いにエフェソにやってきました。
パウロは、そこで、何人かのクリスチャンに出会いました。
パウロは、その人たちに、
「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」
と尋ねると、彼らは、
「いいえ、聖霊というものがあるかどうか、そんなことは、聞いたこともありません」
と言いました。
パウロが、
「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」
と訊くと、
「ヨハネの洗礼です」
と言いました。
そこで、パウロは、
「ヨハネは、あのヨルダン川のほとりで洗礼を授けていたとき、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、人々に告げていたではありませんか。彼はただ、悔い改めの洗礼を授けていたのです」
と言いました。
人々は、これを聞いて、主イエスの名によって洗礼を受けたいと願い、さらに、パウロが彼らの頭の上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりし始めたといいます。
この時に、パウロから手を置いてもらった人は、12人ほどであったと記されています。(使徒言行録18:24〜19:7)
このように、エフェソの教会というのは、アポロが、少し荒っぽく種を蒔き、後でパウロが水をまいて育てたということができる信徒たちの教会でした。
さて、世に数多くの宗教がありますが、その宗教の目的は「救い」にあります。
どんな宗教であっても、いろいろと教えるところは違いますが、突き詰めたところ最後にめざすものは、「私たち人間が、一人ひとりが、いかに救われるか」ということにあります。
一口に「救いを求める」と言っても、どのようなことを「救い」と言っているのか、どのように救われること目的としているのか、それぞれその宗教によって違いがあるのは当然です。
それぞれに違った救済物語を持ってるということができます。
また同時に、救いを求める求め方や、そこにいたる方法にも大きな違いがあります。
お賽銭を投げ込んで願いごとをするとか、祭りというのも宗教的行事ですし、死者の霊を慰める礼拝をするとか、清めやお祓いをするという方法もあります。
ただひたすら念仏を唱えるとか、お題目を唱えれば救われるという宗教もありますし、座禅をして、悟りの境地に入るとか、きびしい修業、修養を積むことが「救い」にいたる道であると説くところもあります。
どの宗教も、それぞれに違いがあって当然ですし、それを非難したり、批判したりすることはできません。
最も初期のキリスト教でも、教会の中でも、アポロが説いた救いの道と、パウロが説いた道にも、違いがありました。
それでは、ほんとうのキリスト教の「救い」とは、いったい何でしょうか。
そして、キリスト教の信者は、キリスト教に何を求めているのでしょうか。
「あなたは救われていますか」と、尋ねられたとき、「はい、私は救われています」と、私たちは、すぐに、はっきり、胸を張って答えることができるでしょうか。
単に教会の礼拝のムードが好きだ、教会の建物から来る雰囲気、信徒の交わり、親しい信徒同志のムード、そのようなムードの中に身を置いていることが、救いだと思っている人もいます。
間違いではないかもしれませんが、私たちが求めている救いと、聖書が私たちに求めなさいと教えている救いとは、ちゃんとピントが合っているでしょうか。
いつも吟味していなければならないことだと思います。
今日の使徒書は、その手紙の冒頭の部分で、書き出しの挨拶から始まっていますが、ひとくちに言うと、「神への賛美と神の恵みがキリストにおいて満ちあふれ、キリストの救いの業がキリストによって完成された」ということが述べられています。
ある注解書には、この部分を「キリストに宇宙論的な意義を付け加えた頌栄」であると言っています。
とくに4節から9節を読みながら、学びたいと思います。手紙の文章ですから、自分に宛てて書かれた手紙だと思って、そのつもりで読みたいと思います。
「天地創造の前に、神は、わたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(4節)
神さまは、すべてにものをお造りになりました。私たちも一人一人、神さまによって造られものです。神さまの意志で、神さまによって、この世に生まれさせられたのです。
そして、神さまは、私たちを愛してくださっています。
では、神さまは、いつ頃から私たちを愛してくださっているのでしょうか。
それは、天地創造の以前から、私たちが生まれるずうーっとずうーっと以前から、神の前で「聖なる者」「汚れのない者」にしようと、お決めになっておられたというのです。
そのために、神さまの側につく者か、神さまに反対する者かを、選り分けられます。「聖なる者」と、「汚れのない者」とは、選り分けられていると言います。
では、何を基準にして、どのような人が神の側につく人で、どのような人が神に反対する者とされるのでしょうか。
それは、「キリストによって」選り分けられます。
イエス・キリストを、神の子と信じて受け入れる者は、神の側につく者で、イエス・キリストを信じない、この方を受け入れない者は、神に反対する者とされるのです。
イエス・キリストを神の子と信じ、この方を受け入れた人を、神の子にしようと、神は、神の一方的な御意志で、前もってお定めになったと言っています。
「神が、その愛する御子によって、与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちが讃えるためです。」(6節)
それは、私たちが、何か自分で努力をして、何か善いことをして、だから神の側につくものとされるのではないのです。
神は、私たちを愛するがゆえに、神が愛する御子によって与えてくださった、何ものにも比べられないすばらしい「恵み」を、私たちが、神を誉め讃えるために与えてくださったのです。
「恵み」とは、受ける価値も、値打ちもない者が、大きな贈り物、賜物を受けることをいいます。
たとえば、私たちが何か善いことをしてご褒美をいただいた、一生懸命働いてたくさんの賃金をもらったというのは恵みではありません。善いことをしたから褒美をいただく、または労働の報酬として当然の賃金を得る、それは当たり前のことが起こっているだけです。貰うべき価値、受ける資格があるのです。
しかし、何も善いことはできていません、報酬を受けるような働きもしていません。受ける値打ち、価値のない者が、与える方の一方的な愛によって、憐れみによって、同情によって、予想もしなかったような、たいへんな贈り物を受けた時、「大きなお恵みをいただいた」と言って大喜びするのです。
そして、恵みを与えて下さった方をほめたたえて、賛美します。神は、私たちがそのような「恵み」を、ほめたたえることを、求めておられます。
「わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。」(7〜9節)
神さまは、私たちを愛するために、独りの御子イエス・キリストを与えて下さいました。神さまは、その御子を十字架に架けられ、私たちのために、御子の命をお与えになりました。
かつて、旧約聖書の時代の人たちが、毎年、エルサレムの神殿の祭壇に、子羊の命をいけにえとしてささげ、その子羊の命と引き替えに、罪が赦されることを願いました。
罪の償いのために支払われる財産を「贖い」と言います。
御子イエス・キリストの命は、私たちの罪のために、私たちの罪の償いのために支払われました。
「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されたのです。これは、ただ、ただ、神の豊かな恵みによるものです。」(7節)
神さまが、私たちに与えて下さった恵み、最も深く、何よりも大きく感謝しなければならない「恵み」の内容は、実にその中身は、このことなのです。
これは、誰にでもそう簡単には理解できるものではありません。神さまの隠された秘密のご計画です。この救いのご計画を、その恵みの内容をわからせるために、私たちに、さらに知恵を、理解する力を与えて下さったのです。神は私たちに大きな大きな恵みを与え、さらにその上に恵みをあふれさせて下さいます。
祈祷書139頁の「感謝」の祈り、「1.一般」とあります。
1959年の文語の祈祷書にも「一般的に用うる感謝」とあり、同じものが、今の1990年改正の祈祷書にも入れられました。
しかし、内容を良く読んでみますと、私は、その内容は、全然「一般的」ではないと思うのです。これこそ「特別の恵みを感謝」する祈りだと思います。
「主はわたしたちを造り、わたしたちを守り、この世のものを与え、ことに主イエス・キリストにより、世を贖って限りない愛を現し、恵みを受ける方法を示し、後の世の栄光の望みを抱かせてくださいました。どうかこのもろもろの恵みに深く感じ、ただ言葉だけでなく、自らを献げて主イエスに仕え、‥‥‥」とあります。
これは、かけがえのない特別の恵み、他に比べようもない格別の恵みを受けていることを述べ、そのことを感謝している感謝のお祈りです。
まず、第一に、私たちがしなければならない「神への感謝」は、この「恵み」であり、この「恵み」を感謝することなくしては、どんな感謝も、感謝の対象にはならないのです。
(一般の感謝というので、バザーなどが無事に終わりました有り難うございますという感謝として一同で祈ったりしています。)
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。(13節〜14節)
アポロが伝えたキリスト教ではなく、パウロが教えたキリスト教信仰はここにあります。
私たちが、まず、何を「恵み」して受け取っていますか。私たちは、まず、何を感謝し、何を賛美しているのでしょうか。
聖餐式は、「感謝と賛美の祈り」です。祈祷書の言葉一つ一つの心を込めながら感謝お賛美の礼拝をささげましょう。
〔2015年7月12日 聖霊降臨後第7主日(B-10) 下鴨キリスト教会〕