飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ
2015年07月21日
マルコによる福音書6:30〜44
本日の福音書、マルコによる福音書6章30節から44節までから、ご一緒に学びたいと思います。
イエスさまは、派遣先から帰ってきた12人の弟子たちから、報告を聞いて、弟子たちを労い、言われました(6:30)。
「さあ、あなたたちだけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と。
イエスさまの所へ押し寄せて来る人々の数が増え、イエスさまも弟子たちも、食事をする暇もない状態でした。
そこで、イエスさまと弟子たちは、舟に乗って、自分たちだけで、湖の向こう岸の人里離れた所へ行きました。
ところが、多くの人々は、イエスさまの一行が出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着きました。
舟が湖をわたって、向こう岸に行く間に、群衆は、陸沿いに追いかけ、先回りをしていたのです。その距離は、15、6キロはあったのではないかという学者もいます。
この群衆は、遠いところを追いかけて来て、へとへとに疲れています。お腹も空いています。しかし、この肉体的な疲れや精神的な疲れを越えて、その向こうに、もっと大きな問題を抱えていることを、イエスさまは、見抜いておられました。
「舟から上がったイエスさまは、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められました。」(34節)と記されています。
羊という動物は強い動物ではありません。とくに家畜として飼われている羊は、群れをなしていますが、これを「導く者」がいないと、自分たちで食べるものさえ探せません。
羊飼いが青い草のある所に導き、水場に連れて行かなければ、生きていけないのです。また、羊飼いが、狼や羊泥棒から守ってやらなければ、羊たちは、生きていくことができません。
聖書では、当時のユダヤの人々を「羊の群れ」とたとえられている個所がたくさんあります。その羊たちを導くのは、ユダヤの民を導く「羊飼い」は、ユダヤの指導者たいです。王であり、預言者であり、祭司たちであり、律法学者たちでした。政治的指導者、宗教家と言われる人たちです。しかし、彼らは、私利私欲に走り、形式的に律法を守ることを押しつけ、正しい政治も行われていませんでした。指導者はいたのですが、ユダヤの人々は、誰も彼らを信じていませんでした。
当時のユダヤの国の政治的、社会的、宗教的状況では、民衆は置き去りにされ、困窮と疲弊の中にありました。食べ物や肉体的な問題だけではなく、精神的にも救われていない状況にありました。イエスさまに何かを求め、どこまでもついてくる姿に、彼らの精神的な状況が現れています。
イエスさまは、このような群衆を見て、「飼い主のいない羊のような有様」を見て「深く憐れまれました」。
この「深い憐れみ」の気持ちを持たれました。「憐れみ」という言葉ですが、ギリシャ語の聖書を見ますと、これは、「スプラグクノン」σπλαγχνον(splagchnon)という言葉で、「はらわた」という意味を持っています。人間の感情は、内臓に宿ると考えられていました。(日本語でも、「はらわたが煮えくりかえるとか」、「断腸の思い」とか言います。)
イエスさまを慕い、どこまでも追いかけてくる群衆をご覧になって、はらわたが煮えかえるような、強い思いに突き動かされる気持ちになりました。
そのうちに時間も経ち、弟子たちは、イエスさまのそばに来て言いました。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と。
すると、イエスさまは、弟子たちに、
「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」
と言われました。弟子たちは、
「わたしたちが、2百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言いました。
人里離れた所で、急にパンを買いに行っても、そんな数が揃うわけがありません。さらに、こんなに大勢の人々にパンを食べさせようと思うと、2百デナリオンも要ります。そんなお金はありません。そして、もうこんなに夕暮れになっていますと、弟子たちは答えたのです。
そこで、イエスさまは、奇跡を行われました。
イエスさまは、言われました。
「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」
弟子たちは確かめて来て、言いました。
「パンが5つあります。それに魚が2匹です。」
弟子たちには、まだ、イエスさまが言われることの意味がよくわかりません。
そこで、イエスさまは、弟子たちに命じて、皆を組に分けて、青草の上に座らせました。人々は、100人、50人ずつまとまって腰を下ろしました。
「イエスは、5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して、配らせ、2匹の魚も皆に分配された。」(40,41節)
そして、そこに居た、すべての人が食べて満腹しました。
さらに、みんなが食べたパンの屑と魚の残りを集めると、12の籠にいっぱいになりました。最初の差し出した5つのパンよりも、食べ残したパンのくずの方が、多かったのです。
「パンを食べた人は、男が5千人であった」と記されています。
聖書では、とくに新約聖書の中には、イエスさまが行われた奇跡物語が沢山あります。どれも、非常に不思議な出来事が起こっているのですが、それでも、なんとなく、その場面や情景を想像することができます。
しかし、この5千人もの人々に、満腹するほど、パンや魚を与えたという奇跡は、具体的に、どのようにして、そのパンが増えたのか、どのようにして、5千人も1万人もの人々に、それが与えられたのか、私たちには想像することさえできません。しかし、結果として、5千人以上の人々が満腹したということが述べられているのです。
奇跡の中でも、もっとも難しい奇跡ですが、しかし、この奇跡物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書全部に紹介されています。ということは初代教会においては、最も大事な、重要な、どうしても伝えずにはいられない奇跡物語であったということができます。
イエスさまによって、神の力が、人々に見える形で表されたです。私たちは、この奇跡的出来事を、真っ直ぐに「奇跡」として受け取り、まず、心から驚き、信じることが大切だと思います。
私たち、この教会では、クリスマスやイースターの礼拝のあとで、それぞれが、ご馳走を持ち寄って、おしゃべりをしながら、食事をします。それは、「食べる」ということを通して、愛の交わりを深めている行事です。
「愛」とは何か、100冊の本を読んで、100回、繰り返して説明されて、ほんとうに愛がわかったいうことにはなりません。実際に、人を愛するということを体験してみて始めてわかることです。誰も愛したことがない人には、愛を実感として受け取ることはできません。
イエスさまを信じる者たちが、主の御名によって集まり、食事をしている時、そこにキリストの「愛」があります。
食べるという、最も現実的な、具体的な出来事を通して、体中で「愛」を感じることができます。そこには、目に見える形で、「神の国」の食事を体験することができるのです。
さらに、私たちは、聖餐式を行います。イエスさまが定められたパンとぶどう酒を頂く食事です。キリストと共にある、キリストの血と肉を頂き、私たちの中に、キリストがいて下さる、キリストの愛を実感することができる儀式であり、礼拝です。
その瞬間、そこでは、不思議なことが行われているのです。そこに起こっていることは「奇跡」です。
「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、2匹の魚も皆に分配された。42:すべての人が食べて満腹した。」(6:41〜42)
5千人の人々にパンと魚を与える時、イエスさまは、聖餐式の聖別祷と同じことをなさいました。
私たちも、現実の出来事として、聖餐の奇跡に与ることができるのです。その時、恵みで満たされ、満腹になり、さらにあり余るほどの恵みに与っているのです。
〔2015年7月19日 聖霊降臨後第8主日(B-11) 東舞鶴聖パウロ教会〕