キリストの賜物のはかりに従って、与えられる恵み

2015年07月25日
エフェソの信徒への手紙4:7-13  パウロは、かつて、自分が滞在し、キリストの福音を説き、教えたエフェソの教会の信徒に宛てて、手紙を書きました。   ギリシャ文化を持ちながら、ローマ皇帝の支配下にある町で、そこには、ユダヤ人も、ギリシャ人も、ローマ人もいました。  生まれて間なしの教会、小さなキリストの群れですが、そのためにいろいろな問題が起こり、キリストのもとに一つとなる、教会が一つとなるということはなかなか難しかったようです。  「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしは、あなたがたに勧めます。あなたがたは、神から招かれたのですから、その神の招きにふさわしく歩みなさい。何事にも一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって、互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つです。霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、です。すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(4:1〜6)  このように書き、勧めているということは、当時のエフェソの教会では、なかなか一致を保つことは難しかった、人間関係などで不協和音が聞こえてきていたことが想像できます。  一人の神さま、一人のキリストを信じ、同じ一つの信仰を持つ者ではありませんか。一つの洗礼を受け、一つの希望をめざして励んでいるのではないですかと、切々と訴えています。  「一つ」という言葉を繰り返し、一致を保ち、さらに、それを深めるようにと、この手紙を読む読者を励ましています。  そして、7節に、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と書き送っています。  「キリストの賜物のはかりに従って」、一方的に、神がそれを決めます。  私たちの目から見ると、神さまから私たちに与えられいる賜物は、決して平等でもなければ、公平でもありません。なぜ違うのかという理由も知らされません。  わたしは、あの人のように多くないから駄目とか、もっと多く戴いて当然だとは言えません。  さらに、どんなに少なく見えても、それはその一人一人には十分なのです。  それが賜物であり、恵みなのです。  大切なことは、その与えられた賜物、恵みを私たちはどのように感謝して受け取り、それをどのように使っているかということが問われます。  教会の中での働きの場を考えてみますと、  「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされています。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆくのです。」(11、12)  現在の教会では、使徒や預言者、福音宣教者、牧者、教師だけではありません。「信徒」として、掃除をしたり、台所の準備をしたり、庭の手入れをしたり、目に見えない所で、奉仕の業が行われています。  何よりも、毎主日の礼拝に出席する、していることが、神さまへの奉仕(サービス)です。  それぞれが、神さまから預かった賜物、お恵みを生かし、精一杯有効に生かして奉仕の業を務めることによって、みんなで「キリストの体」である教会を造り上げていくのです。  それは、教会だけではありません。家庭でも、学校でも職場でも、人間社会においても、同じことが行われるのです。  わたしは、ずいぶん若い頃に、宇治の黄檗山万福寺に見学に行ったことがありました。  その一角に宝蔵院という塔頭があり、そこに鉄筋コンクリートの蔵があって、その中に「大般若経」と呼ばれるお経の版木が保存されています。  鉄眼道光(てつげんどうこう)という禅師が、一切経の発刊を願い、1678年、17年間、全国を行脚して資金を集め、6,912巻のお経を、56,229枚の版木に掘るという事業を成し遂げました。  現在は、その版木が重要文化財に指定され、保存されています。現在も、拝観料を払って、見せてもらえます。  縦26センチ、横82センチ、厚さ1.8センチの桜の木の版木の両面に、明朝体の経文が彫られています。それが約6万枚。整然と並ぶスチールの棚に、1階にも2階にも渦高く積み重ねられています。  一階の一角、版木の棚に囲まれた窓のない薄暗い一角では、一人のおじいさんが、どっかりと座って、版木に墨を塗り、黄色い和紙を載せ、バレンでこすって、この経文を手刷りしていました。  仏教の経典の百科事典とも言われる大般若経全巻の版木が残っているというのも驚きでしたが、さらに驚いたことは、300年も昔の版木がそのまま使われて、その版木で、今も一枚一枚手刷りされて、経典が刷られているということでした。  裸電球が一つぶら下がっているだけの、薄暗い所で黙々と木版刷りをしているそのおじさんの作業を、わたしは、しゃがみ込んでじっと見ていました。  すると、しばらくして、そのおじいさんが話し出しました。  「わしは、戦前からずーっとここで、毎日ここで、お経を刷り続けている。戦争が激しくなって、みんな疎開したり、避難した時も、わしは、ここでずっとこれを刷り続けてきた。  今、仏教は堕落している。それは、お坊さんたちがお経を読まんようになったからや。お坊さんに、しっかりお経を読んでもらうためには、しっかりしたお経がないと読めんのじゃ。心のこもったお経をここでしっかり刷ってやらんと、坊さんたちは、心を込めてお経が読めん。ここで刷る経文は、宗門、宗派に関係なく日本中のすべてのお寺で使われている。仏教が良うなるのも悪うなるのも、ここで刷るお経の刷り上がりの如何にかかっているんじゃ。そのためには、わしの腰が据わってないと、いいお経が刷れん。ここで心がこもってないと日本の仏教が廃れる。」  わたしは、黙ってうなずいているだけでしたが、そのおじいさんの迫力、気迫に驚きました。  日本中の仏教が今、自分の肩にかかっているという気迫でした。  たぶん、仏教の世界にも、高僧、名僧と呼ばれるお坊さんも大勢おられるでしょう。もっと修業を積んだ、有名なお坊さんや信徒の人々も数え切れないほどいるでしょう。  しかし、若いころから、生涯をかけて薄暗い倉庫の一角で、仏教を支えている気概をもって、黙々と働いておられるこの職人さん、誰からも知られないところで、まさに縁の下で、仏教を支えておられるおじいさんの言葉が忘れられません。仏教の世界の人で、キリスト教の人ではありませんが、どの世界にも、共通する話だと思います。  パウロの言葉から、このおじいさんの言葉を思い出しました。  私たちの教会の中にも、誰も知らない所で、黙々と働き、信徒や求道者の人々が喜んで下さるは、それは、イエスさまが喜んで下さることだと信じて、奉仕しして下さっている方々がいます。  教会とは、何でしょうか。建物でしょうか。単に人が集まっている、仲良しこよしの社交場でしょうか。  パウロは、教会とは、「キリストの体」であると言います。  エフェソの信徒への手紙1章22、23節に、  「神は、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストを、すべてのものの上にある頭として、教会にお与えになりました。教会は、キリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と言っています。  さらに、コリントの信徒への手紙第一 12章12節以下では、このように言っています。  「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。  足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。  もし、体全体が、目だったら、どこで聞きますか。もし全体が、耳だったら、どこで臭いをかぎますか。  そこで、神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。  それどころか、体の中で、ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたは、キリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(12〜27節)  もう一度、今日の使徒書4章7節以下を読みます。  「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。見えるところで働く人たちだけではありません。小さな仕事、小さな持ち場、それぞれに与えられた恵みによって、奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆくのです。そして、ついには、わたしたちは皆、神の子キリストに対する信仰と知識において、一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」  今、私たちは、教会に、イエスさまをかしらとする、キリストの体の一部としてつながれ、主の交わりの中にあって、与えられている「恵み」感謝し、この恵みに答えて生きたいと思います。   〔2015年7月26日 聖霊降臨後第9主日(B-12) 四日市聖アンデレ教会において〕