わたしは、命のパンである

2015年08月01日
ヨハネによる福音書6章24節〜35節  「聖霊降臨後」入って、主日の礼拝で読まれる福音書は、奇跡物語が続いています。  とくに、先々週の主日には、マルコによる福音書6章30節から44節が読まれ、イエスさまが、人里離れた山の中で、5千人の人々に、パンと魚を与えられたという奇跡物語が読まれました。  ヨハネによる福音書6章1節〜15節にも、5千人に大麦のパンと魚を分け与えられたという物語が記されています。  今日の福音書は、ヨハネによる福音書6章24節〜35節ですが、このパンの奇跡の続きとも言える、パンについての問答が記されています。  先に、イエスさまは、男たち5千人にパンを与え、彼らは満腹して、残ったパンくずが12の籠が一杯だったという奇跡が行われたあと、群衆は、ぞろぞろと、いつまでも、何処までも、イエスさまを追ってきました。  そして、22節からイエスさまと群衆の間で、パンについての対話が始まります。  5千人にパンを与えたという奇跡が行われた後、一時、イエスさまの姿が見えなくなったので、人々は、イエスを探し回わりました。  5千人の中にいた人たちも、その場にはいなかったけれどもその話を聞いた人たちも、必死になって、イエスさまを捜し求めていました。  そして、湖の近くにあるカファルナウムという村で、やっとイエスを見つけました。  湖の向こう岸でイエスさまを見つけると、  「ラビ、先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と言いました。群衆の質問には答えないで、息せき切って、必死になってご自分を探しにきた人たちに向かって、イエスさまは言われました。  「はっきり言っておく。あなたがたが、わたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と。  押し掛けてきた群衆に対して、「あなたがたは、なぜ、わたしを探しているのだ」、「何のためにわたしを探しているのか」と尋ねられます。「あなたがたが、わたしに求めているものは何か」と、尋ねらrました。   「しるし」、すなわち、奇跡を行ったことへの不思議、畏れから、この方はいったいどなただろうと思い、イエスさまの後ろに神さまの力が働いていることを認めて、それで、イエスを慕って追いかけてきたのか。  「そうではないだろう。あなたがたは、パンを満腹するほど食べたから、満腹したからだ」と言われます。  そして、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われました。  ここでわかることは、群衆がイエスさまに求めているものと、イエスが与えようとしているものとが、違っているということです。次元の違いというか、すれ違っていることに気づかされる。  この当時の、ガリラヤ地方の民衆は、貧困にあえいでいました。ローマ帝国の支配の下で、ユダヤ民族全体が貧困を強いられ、一人ひとりが食べていくということは深刻な問題でした。  直接、パンが与えられるかどうかだけではなく、自分たちにパンを保証してくれる指導者、政治家、革命家が現れることを待ち望んでいたのです。  そこで、押しかけてきた群衆は、イエスさまに、そのような革命家的救済者のイメージを求めて、追いすがってきたと言うことができます。  これに対して、イエスさまは、食べてしまったら無くなってしまうような、朽ちるパンではなく、永遠の命にいたる食べ物を求めなさい、そして、わたしは、それを与えるために来たのだと言われました。  そうすると群衆は、「どうしたらそれが得られるのですか、神さまが喜ばれるような行いをすれば良いことは知っています。そのためには、なにをしたらよいのでしょうか」と、さらに尋ねました。  イエスさまは言われました。  「神がお遣わしになった者を信じること、わたしこそ神に遣わされた者なのだ。わたしを信じなさい。それが神の業である」と。  人々は言いました。「わたしたちが、見て、あなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくれるのですか。その証拠を見せて下さい。奇跡を見せて下さい」と迫りました。  そして、かつて、モーセの時代、出エジプトの物語にある、天からマンナと呼ばれるパンが降ってきた話を持ち出して、「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました」と言いました。  彼らは、永遠の命と言われるのなら、それを得るためのノウハウを教えて下さいと迫りました。  もう12年ほど前にベストセラーになった本で、養老猛司さんが書いた「バカの壁」(新潮新書)という本があります。この本のタイトルは、その年の流行語大賞になった本でした。  この本の中におもしろい話が紹介されていました。  ある時、北里大学の薬学部の学生に、イギリスのBBC放送が制作したある夫婦の妊娠から出産までを詳しく追ったドキュメンタリー番組を見せました。そして、その感想を学生たちに求めた結果では、男子学生と女子学生とでは、はっきり違う反応が出たといいます。ビデオを見た女子学生のほとんどは「たいへん勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、これに対して、男子学生は皆一様に「こんなことはすでに保健の授業で習って知っているようなことばかりだ」という答えでした。同じものを見ても正反対と言っていいくらいの違いが出てきたと言います。  「どこからその違いは出てくるのか。その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だということにある。要するに、男というものは出産というものに実感を持ちたくない。女の学生は、将来自分たちが出産することもあると思っているから真剣に細かいところまでビデオを見る。自分の身に置き換えてみればそこに登場する妊婦の痛みや喜びといったものも感情まで伝わってくる。これに対して、男子学生は、出産に対して、「そんなの知らんよ」という態度で、目の前の情報はこれまでの知識をなぞっただけのものになってしまう。つまり自分が知りたくないことについては、自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在する。」(14頁)  養老先生の受け売りで申し訳ないですが、「知っている」「わかっている」ということほどこわいことはないと言われます。 さきほどの男子生徒のような姿勢の学生ほど、「説明して下さい」といってくるそうです。話してわかるものなんてない。説明しようとしても説明できないことが一杯あると言われます。  さて、聖書の話に戻して考えると、イエスさまという方を、どのように受け取るか、イエスさまについて、どれほど、どのように、わかっているかということについて、問われているのです。  そこに居る弟子たちや、群衆や、ユダヤ人の一人一人に向かって、そして、私たちに向かって、「あなた方は、わたしのことをどのように思っているのか」と問われているのです。  「永遠の命」を得るということは、神の国、天国を求めるということと同じ意味です。現在の言葉で言いかえれば、ほんとうの救い、ほんとうの幸せを求めるということです。  イエスさまが問いかける問題は、パンだけがすべてではない、お腹を満たすことだけがすべてではない、食べること以上に大切なことがあるでしょう、美味しいものを探し求めて飽きるほど食べられれば幸せかというと、必ずしもそうではないでしょう、と言われるのです。  人が生きていくのに衣食住さえ整っていれば幸せだとは言えない。人間の魂の問題、心の問題は、どのようにして満たされるのかと言われています。  イエスさまは、「永遠の命を求めなさい」と言われす。  しかし、人々の意識には、その気持ちがない。わかった、わかった、知っていると言って、または、知りたくないと、それ以上の情報に対しては遮断してしまっています。  イエスさまは、魂の救いのためには、神さまからのパンが必要だと言われます。肉体を維持するために、パンや魚や野菜が必要なように、魂を養うパンが必要です。  イエスさまが、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と言われました。すると、人々は言いました。  「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節) と言いました。そんな便利な、朽ちることがない、結構なパンがあれば、わたしたちにくださいというわけです。  すると、イエスさまは言われました。  「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と。  かつて、モーセは、荒れ野でマンナと呼ばれるパンをイスラエルの民に与えました。イエスさまも、神さまからのパンを、魂を養うパンを与えて下さるために、この世に遣わされました。さらに、イエスさまは、モーセを超える方として、自らがパンであると言われます。  「わたしは命のパンである」と。  神からのパンを与える人であると同時に、自分自身がパンであると言われます。このような言い方をした人は他にはいません。  ユダヤ人の、かつての経験と知識からでは、「わたしは命のパンである」と言われる意味が理解できません。  しかし最も明解な「知る」方法を、むしゃむしゃと食べるという仕方で示してくださったのです。  わたしを信じなさい。わたしを受け入れなさい。わたしを食べるように、わたしを受け入れなさい。そして、実際にわたしを食べなさいと言われます。  私たちは、今から主の聖餐にあずかります。イエスさまが「わたしは命のパンである」と言われたこの言葉を思い出しながら、イエスさまの肉と血に与り、イエスが共にいて下さることを体中で感じ、体中で受け入れる瞬間を味わいましょう。共にこの恵みに与りましょう。 〔2015年8月2日 聖霊降臨後第10主日(B-13)下鴨キリスト教会〕