このパンを食べる者は永遠に生きる
2015年08月08日
ヨハネによる福音書6章37節〜51節
高校生ぐらいの時に聞いた話ですが、ある先輩が、英語の単語を覚えようとして、英語の辞書を全部丸暗記することを決心したそうです。アルファベットのAから始めて、その頁を覚えると、「よしっ」と言って、その頁を切り取って、丸めて口に放り込み食べてしまう。次の頁にかかり、次々と、英語の辞書を食べていったという話を聞きました。それを聞いた当時は、偉い人だと思っていましたが、今は、そうは思いません。その人は、最後の頁まで食べたかどうかもわかりません。
しかし、辞書の単語を全部覚えようとした意気込みはわかりますし、二度と辞書は見ないという退路を断って臨んだ意気込みはわかるような気がします。
物事を覚えるのは、脳の働きであり、知識を増やす、理解する、決心するのも脳の働きによることはわかっているのですが、口に入れて食べるというのは、その行為によっていかにも体中で受け取ったような気になります。
日本の宗教的祭儀や行事を見ても、ずいぶん古くから、神道でも仏教でも、供え物をささげてきました。そのささげ物は、多くの場合、食べ物や飲み物です。お米や野菜、果物やお菓子など、そしてお酒をささげたりしています。収穫感謝という意味もあるのでしょうが、多くは食べ物です。そして、神仏に供えたものを、「おさがり」と称して、人間が戴きます。
神仏への信心をこのような行為や習慣で、体で感じるというような方法をとります。
神さまを信じる、神さまのことを知るということは、どうしたら、信じられようになれるのか、どうしたら神のことが解るようになるのかと、よく訊かれます。
たとえば、人間同士が「信頼し合う」ということで考えてみても、親子、兄弟、友人、同僚でも、多くの場合、相手の人の言っていること、していることを見て、信頼関係が生まれます。その人の言動を見ていて、だんだんと絆が深まったり、信頼できなくなったりします。
それは、私たちが自分の目で見て、耳で聴いて、手で触って、脳の中で、知る、感じる、判断するというようなことを繰り返して、信頼できるという気持ちになるのだと思います。
ところが、神というものは、目で見ることはできません。神を見た者はいません。その声を耳で聴くこともできません。手で触ることもできません。それでいて、神のことを知りなさい、神を信じなさいと言われるのです。
私たちは、聖書に記された神、聖書が指し示す神さまを信じます。聖書の中の人々はどのようにして神さまを知るようになったのでしょうか。神さまを信じてきたでしょうか。
旧約聖書の中から、一つの出来事を紹介したいと思います。 旧約聖書に出てくる主人公は、ユダヤ民族またはイスラエル民族と呼ばれる小さな部族の歴史が舞台になっています。
族長アブラハムの子孫は、イサク、ヤコブと、受け継がれ、このヤコブ、ヨセフの時代のある時期にパレスチナ地方に飢饉が起こり、遊牧の民族であったユダヤ民族は、飢えに苦しみ、大国エジプトを頼って、エジプトに寄留しました。(出エジプト47:1〜6) エジプトに身を寄せたユダヤ民族は、最初は、優遇されていたのですが、時代が変わり、エジプト王も代が変わると、エジプト人から厳しい目で見られるようになりました(出エジプト記1:6〜14)。彼らは、重労働をさせられ、こき使われて、奴隷のように扱われるようになりました。
ユダヤ人の呻きや叫びの声が、神さまに届き、神さまは彼らの嘆きを聞いて、ユダヤ民族を助け出そうとされました。
そのために神さまは、モーセを選び、このモーセを遣わしてエジプトの地からユダヤ民族を脱出させようとしました。 当時のエジプト王ファラオは、だいじな労働力を失うこと恐れこれを許しません。いろいろな事件がくり広げられた後、モーセに率いられたユダヤ民族は、エジプトから脱出を果たしました。それから約40年間、神さまに導かれたユダヤ民族は、シナイ半島をさまよい、放浪の旅を続けました。
このエジプト脱出の出来事は、歴史的に見て紀元前1275年と言われていますから、今から3千3百年ぐらい前のことでした。約40万人ぐらいの民族の大移動だったと言われます。
神さまはこの出エジプトの流浪の旅を通して、ユダヤ民族に大きな試練を与えました。シナイ半島一帯は、荒れ野です。岩と石と砂ばかり、食べ物も水もなく、彼らはモーセに向かって不平不満をぶつけました。
「我々はエジプトの国で死んだ方がましだった。あのときは飢えていたけれども、まだ今よりはましだった。まだ肉も食べられた、パンも食べられた。あなたたちは、我々をこの荒れ野に連れ出し、私たち全員を飢え死なせようとしているのか」と言って詰め寄りました。
これを聞いた神は、モーセに言われました。
「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と」言われ、毎日、必要なだけ、マナと呼ばれるパンを天から降らせました。これによって、イスラエル民族は、40年間の流浪の旅を続けることができました。このことについては、出エジプト記に記されています。
これは、イエスさまがお生まれになる1270年も昔の出来事です。このエジプト脱出の出来事については、イエスさまの時代のユダヤ人には、自分たちの先祖に起こったこととして子どもでも教えられている歴史的な出来事でした。
このことを覚えながら、新約聖書から有名な一つの出来事について見てみたいと思います。
ヨハネによる福音書6章1節〜15節に、有名な「5千人の給食」と言われる奇跡物語が記されています。
いつものように、イエスさまの噂を聞いて、大勢の人たちが集ってきました。人里離れた所で日も暮れかかっています。イエスさまはそこに集まった人たちに食べ物を与えようとされました。弟子たちは、日も暮れかかっているし、こんなに大勢の人に食べさせるパンを買いにいくことなど、無理なことですと言いました。そこで、イエスさまは、人々を座らせ、そこに差し出された5つのパンと3匹の魚を取り、感謝して祈りを唱えた後、そこに居た人たちに分け与えて食べさせました。さらに、すべての人々が満腹するほど食べて、残ったパンくずが12のカゴに一杯になったと記されています。そこにいた人たちは、男だけで5千人いたということですから、想像することさえ難しい奇跡を行われたのです。
その場でパンを食べた人も、その場に居なくって噂を聞いた人たちも、イエスさまのところに集まり、後を追ってきました。もっとパンを食べたい、もっと奇跡を見たいと、いつまでも追いかけてきました。
そこで、イエスさまは、「あなたがたは、何のために、いつまでもわたしについてくるのか。もっとパンを食べたいからか、もっと「しるし」奇跡を見たいためなのか」と尋ねました。そして、人々に、「食べると無くなるパン、朽ちてしまうようなパンではなく、『永遠の命」を求めなさいと言われました。
ここから、イエスさまとユダヤ人の人々との論争が始まります。
人々は、「それでは、どうしたらそのような朽ちることのないパンや永遠の生命というものが手に入れることができるのですか」と言いました。さらに、
「ほんとうにあなたが神さまから遣わされた方だったら、もっとしるしを示してください。わたしたちが見てあなたを信じることができるように、奇跡を見せてください」と迫りました。
「わたしたちの先祖は、昔、モーセの時代に、荒れ野で、神さまからマンナを与えられて食べました。聖書には、天からのマンナを、彼らに与えて食べさせたと書いてあります」と言いました。千2百年前のエジプト脱出の出来事を持ち出して、イエスさまに迫りました。
これに対して、イエスさま、
「モーセが、天からのパン(マンナ)をあなたたちの先祖たちに与えたようなものではない。わたしの父である神さまは、天からの「まことのパン」をお与えになったのだ」と言われました。そして、
「神のパンとは、わたしのことだ。天から降って来て、世に命を与える者、それはわたしだ。わたしが命のパンだ、命のパンそのものである」と言われるのです。
それでもユダヤ人たちは、なお、イエスさまのことを認めようとしません。彼らは言いました。
「そんなパンがあるのなら、そのパンを、いつも食べられるように、わたしたちにください」と言いました。そんな結構な、便利なパンがあるのなら、そのパンをいつでも食べられるようにして下さいと言ったのです。
すると、イエスさまは、
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、決して渇くことはない」と言われました。そして、さらに、
「あなたがたは、わたしを見ているのに、わたしは、同じことを何回も言っているのに、わたしを信じようとしない」と言われます。
「わたしが、この世に来たのは、人々を救うために、神さまがわたしをこの世にお遣わしになったのだ。神さまのご意志を、神さまのみ心を、行うために来たのだ。神さまから遣わされた者として、わたしを受け入れ者を一人残らず救うために来たのだ」と、言われます。
さらに、「わたしをお遣わしになった神さまの御心とは、神さまが、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父である神さまの御心は、神の子であるわたしを見て信じた者が、皆『永遠の命』を得ることなのだ。わたしが、その人を終わりの日に、かならず復活させるからだ」と言われました。
いまだかつて、神さまを見た者は一人もいません。神さまのもとから来られた方だけが、父である神さまを見たのです。この神さまから遣わされた御子であるイエスさまを信じた者だけが「永遠の命」を得ることができるのです。
イエスさまは、天から、神さまから与えられた命のパンです。
どうしたら救われるのか。どうしたら永遠の命を得られるのか。どうしたら、天国、神の国を得ることができるのか。
わたしたちは、それを得るために具体的な方法を求めます。
誰でも死ぬことはわかっているのですが、どんな人も死の恐怖を持っています。病いへの恐怖、今、結婚や就職や仕事のこと、いろいろな人間関係、何かにこだわっている、などなど、生きている限りさまざまな問題を抱えています。それらの問題から解放されたい、魂の解放を願っています。
永遠の生命を得るということは、それらのもろもろの魂の束縛から解放されることです。
そのためには、どうすればよいのですか。具体的な方法を教えてくださいと、私たちは言います。
イエスさまは、「わたしを受け入れなさい」、「神さまが遣わされたわたしを、神の子と信じなさい」といわれます。
それは、ただ、頭の中で、知識として受け取る、丸暗記したり、理解しようとするだけでなく、体中で受け取りなさい。
イエスさまは、「わたしをパンであるわたしを食べる」という仕方で、わたしを受け入れなさい。「キリストの肉と血を、目に見える形で、食べなさい」と言われます。
「父である神さまの御心は、子であるイエス・キリストを見て信じる者が、皆、永遠の命を得ることにあります。そして、イエスさまが、その人を終わりの日に復活させることにあります。」
聖餐式を続けましょう。
〔2015年8月9日 聖霊降臨後第11主日(B-14) 加悦聖三一教会〕