心に信じて義とされ、口で告白して救われる

2015年08月15日
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」 (ローマの信徒への手紙10章10節) 昨日(8月15日)は、太平洋戦争終戦70年を記念する日を迎えました。  かつて、この戦争の悲惨さを体験した人もおられるでしょうし、体験していない人も、日本の国のだいじな節目を迎えます。改めて、平和のために祈りましょう。今、なお戦争による悲しみや苦しみを味わっている人々のために、お祈りしたいと思います。  さて、今日は、私の若い頃のささやかな体験から話をさせていただきたいと思います。  今から、42年前、わたしが37歳ぐらいのことでした。  大阪教区の尼崎の教会に勤務していた時代ですが、機会が与えられて、アメリカへ留学させてもらいました。  すでに子供が3人いたのですが、教会も子供も全部家内に押しつけて、気楽に一人で、1年間、ペンシルヴァニア州のフィラデルフィアという所にある神学校で学ばせてもらいました。 そこで、1学年が終わったところで、さらに1ヶ月、ヨーロッパの各地を歩きまわって、エルサレムに着き、そこにある聖ジョージ神学校で「聖職のための6週間コース」という研修プログラムを受けさせてもらって、帰国しました。  その間に、約1ヶ月の空いた期間がありましたので、ロンドン、パリ、ストラスブール、ウイーンと、列車で旅をし、国でいえば、フランス、スイス、オーストリア、イタリア、エジプト、ヨルダン、イスラエルと、行き当たりばったりの一人旅をさせてもらいました。  その時の私は、ジーパンにピンクのシャツ、髪は肩まで伸ばして、まさに当時はやりのヒッピーという格好でした。  スイスから国境をこえて、オーストリアに入り、各駅停車で移動している時でした。  この列車に乗り降りする男性も女性もチロル地方独特の衣装を身につけています。私は、列車の窓にくり広がる景色を眺めていました。  その景色は、まさに夢に見た、憧れの光景でした。  ジュリー・アンドリュース主演の映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見て、その背景に広がるオーストリアの山や草原、湖など、一度自分の目で眺めてみたいとあこがれていました。青い空、雪を頂いている山々、緑の草原、赤や黄色の花畑、そして、美しい湖。その光景が、延々と続いています。  私は、最初は、夢中になって写真を撮っていました。しかし、何時間も同じような景色が続くと、飽きてきて、写真を撮るのにも疲れて、ただ、ぼんやり列車の窓から外を眺めていました。どんどんと田舎の方へ入っていくと、列車の乗客もいなくなり、ただ、ゴトン、ゴトンと列車は、山や草原の間を進んで行きます。  そこで、ふと、自分の気持ちに気がついたのですが、こんなに美しい景色を見ていても、写真や絵ではない、本物のチロル地方の風景に触れ、空気を吸っていても、どうにも、心が晴れないのです。  心の底から満足していないのです。心が喜んでいないということに気がつきました。そして、頭の中では、家内や子どもたちに、この景色を見せてやれたらなあ、ほかの誰かが一緒だったらなあ、みんな喜ぶだろうなあと、そんなことばかり考えていました。見るともなしにぼんやり景色を見ているときに、その時に、なぜか、聖書の一節が、頭に浮かんできたのです。それが今最初に読んだ聖書の個所だったのです。  「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」という言葉です。なぜか、パウロが書いた手紙の一節、この言葉が浮かんできたのです。  「そうなんだ、目で見て、心で感じて、頭で理解して分かったと思っても、それだけでは救われないのだ、それを誰かに告白して、口で誰かに言い表して、はじめて救われるのだ、ほんとうの喜びに満たされるのだ」ということに気がついたのです。  どんなに美しい景色を見ても、どんなに感激しても、それを誰かと一緒に見て、「きれいだねーー」「美しいねーー」というと、一緒にそれを見た人が、「そうだねーー、きれいだねーー」と心から共感したときに、心が救われるものなのだ、ほんとうの喜びに満たされるものなのだということなのです。  美味しい料理をたべても、どんなに高い、立派なフランス料理のフルコースを食べても、一人で黙々と食べていても、頭では美味しいとわかるだけです。「美味しいねーー」と言って共感する人、とくにそれが愛する人であれば、何倍もの喜びに満たされるということです。あらゆることに、一緒に感動する、共に感謝する、一緒に喜び合うことができれば、それによって、はじめて「心が救われる」のだということに気がついたのです。  同時に、この聖書が言おうとしていることの意味に気づきました。神さまを信じようとする。礼拝に出席し、聖書を読み、洗礼を受ける、そして牧師や信徒の方々から、「あなたは、もう救われたのですよ」「救われているのですよ」と言われても、頭では、知識としては、体験としては、理解できても、それだけでは、まだ、心が救われないのです。その喜びを、誰かに口で告白する、誰かに自分の喜びを言い表して、共感し合う、そのことによって、はじめて心が救われるのだと、パウロさんは、言っているのです。  それに気がついた時、私は、美しい景色のことなど、ふっ飛んでしまって、聖書の意味が「そうなんだ」と分かったことに興奮してしまいました。  そうだ、このことを、この聖書の一節の「意味」を発見したことを、誰かに話したい、誰かに話して、共感してもらいたいと思いました。ヨーロッパのどこかに住んでいる人たちだったら、誰でも、わかってくれるだろうと思って、列車の中をキョロキョロ見渡しましたが、その車両には誰もいません。  ふと、前の方を見ると、いちばん前の席に、修女さんの帽子のようなものがちらっと見えました。そうだ、あの人だと、私の今の気持ちをわかってもらえるのではないかと思いました。  トコトコと歩いて行って、その尼さんの前に立ちました。  50歳を越えたぐらいの黒い修道服を着た修女さんでした。その人の前に座り、「英語がわかりますか」と尋ねました。  さらに、私は言いました。「あなたは、今、聖書をお持ちですか」と。その人は、びっくりした顔をしていました。  その時の、私の服装は、ジーンズにピンクのシャツ、髪は長い、どう見ても東洋人のヒッピーです。その尼さんは、けげんな顔をしながら「聖書を持っている」と言い、黒い鞄をゴソゴソと探して、小さな聖書を取り出しました。   「ローマ人への手紙10章10節を開いて下さい」と一方的に、興奮しながら言いました。 そこを開いて、読んでいました。 「その聖書の言葉の言おうとしている意味がわかったのですよ」と言い、私は、この美しい景色をずーーと見ていました。  頭では、美しい景色であることは十分分かっているのですが、頭では認めているのですが、しかし、何か心が晴れないのです。  それは、一緒にいて、美しいねと言って、共感する人がいないからです。  心が喜んでいなのです。そのことをずっと考えていると、急に、そのローマ書の10章10節が思い浮かび、神さまを信じるということも、同じことなんだということに、気がついたのです。  神さまを頭で信じて、洗礼を受けて、あなたは救われた、罪から解放されたと言われても、そのことを誰かに、自分の口で告白して、誰かに公に言い表して、はじめて救われるのだということが、わかったのです。  その聖書の言葉の意味がわかったのですと、一気にまくし立てました。英語でうまく通じたかどうかわかりません。  しかし、その修女さんは、最後まで、何も言わずに黙って聞いてくれました。私は、「わたしが言おうとしていることは、わかっていただけましたか。有り難う」と言って、自分の席に戻りました。  私は、誰かに話をしたので、勝手にすっきりした気持ちなって、解放されたような気持ちになって、また、列車の窓から、まだ続いている美しい景色を眺めていました。  10分ぐらい経ったでしょうか、しばらくすると、向こうから、さきほどの修女さんが、列車に揺られながらトコトコとこちらへ歩いて来ました。  そして、私の前の席に座って言いました。  「あなたの言っていること、よくわかりました。すばらしいことです」と言って、握手を求められました。そして、また、自分の席にもどっていきました。  私は、若い頃のこの旅行で、いろいろなことを体験し、学びましたが、40年経った今も、この出来事が忘れられません。   「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」  これは、聖パウロがローマの信徒の人々に書き送った手紙の一節です。覚えやすい「10章10節」ですから、お家へ帰って、ぜひ聖書を開いて、読んでみて下さい。   さて、宗教の目的は、どんな宗教でも、その目的は、「救い」にあります。私たちの心が、魂が救われることにあります。  私たちは、キリスト教の信者として、または信者になりたいと思っている者として、「あなたは救われていますか」と尋ねられると、何と答えるでしょうか。  キリスト教の教えについては、いろいろ話も聞いた、何冊か本も読んだ、だいたいわかっているつもりだと言います。  しかし、毎日の生活の中で、心から「信仰の喜び」にあふれているでしょうか。  美味しいものを一杯たべて、美しいものを一杯見て、きれいな音楽を一杯聴いて、「よかったねえ」と心から喜び合う、あの喜び、いや、それ以上の感謝や喜びを私たちは感じているでしょうか?   心から賛美に満ちて、心が救われているでしょうか?  教会のことを「信仰共同体」と言います。イエス・キリストを信じる者の集まりです。  まず、私たちが、「神さまに出会えてよかったねーーっ」「イエスさまを信じることができてよかったねーーっ」と、信じて生きる喜びを、共感し合い、喜びあっているでしょうか。もし、教会の中で、信仰の喜びを、お互いに共感しあうことがなければ、どうして、救いを実感することできるのでしょうか。  パウロは、フィリピの信徒への手紙2章以下に、次のように言っています。 「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」(2:17,18) テサロニケの信徒への手紙�� 5章16節以下にも次のように言っています。 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(16-18)  感謝と賛美の祭り、聖餐式を続けます。キリストの肉と血の恵みに与り、共に喜びの声を上げましょう。   〔2015年9月16日 聖霊降臨後第12主日(B-15)  於・明石聖マリア・マグダレン教会〕