命を与えるのは“霊”である。

2015年08月22日
ヨハネによる福音書6章60節〜69節 1 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命をえる。  ヨハネによる福音書の6章は、イエスさまが、ガリラヤ湖のほとりで、5千人の人々にパンを食べさせたという奇跡物語で始まりました。  16節から21節までは、イエスさまが湖の上を歩かれたという別の奇跡物語が挟まったいますが、それ以外、延々と、パンについての、ユダヤ人とイエスさまの対話が続いています。  イエスさまが、「わたしは天から降ってきたパンである。」「わたしは命のパンである。これを食べる者は、永遠の命を生きる。」 「このパンを食べなさい。求めなさい」と言われたのに対して、人々は、「朽ちることのないそんなパンがあるなら、わたしにください」と言って、話が噛み合いません。  さらに、イエスさまは、「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内には命がない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命をえる」と言われました。  さて、このようなやりとりが、延々と続いたわけですが、その話を聴いていた群衆や、ユダヤ人の指導者たちに、イエスさまが教えられたことがわかったのでしょうか。  ちゃんと理解されたのでしょうか。実際は、そうではなかったようです。 2 弟子たちもつまづいた。  それどころか、イエスさまについて歩いていた弟子たちの多くさえ、イエスさまが教えの意味がわかりませんでした。  60節〜62節にこのように記されています。  「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。』」  さらに、66節、67節には、  「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスさまと共に歩まなくなった。そこで、イエスは12人に、『あなたがたも離れて行きたいか』」と言われたとあります。  私ごとになりますが、わたしは、若い頃に、この聖書の個所を引用して、よく言い訳けにしたり、自分を慰めたりしていました。「イエスさまの話を直接聞いている、イエスさまの弟子たちでさえ、聞いても理解できず、去って行ったのだから、私などが聖書の話をして、分かってもらえるはずがない」と、安心したり、居直ったりしていました。  弟子たちが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と考えたのにはわけがあります。  人が人の肉を食べる、血を飲むということがあってはならないというのは、当たり前のことですが、ユダヤ人にとっては、さらに律法で厳しく禁じられています。(創世記9章4節〜、レビ記17章10節以下、同じくレビ記19章26節など)  とくに、人であれ、動物であれ、「血」は、命が宿る所であるから神に属するものと考えられていて、ユダヤ社会では、これを飲むことは、死に値するる罪でした。  それを知っていながら、イエスさまは、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい。それが永遠の命を得るための道だと言われたのです。  いくらイエスさまでも、その教えにはついていけないとばかりに、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスさまと一緒に歩まなくなった。頭を振りながら去っていったのです。  それどころか、いちばん近くにいる12弟子たちにも、「あなたがたも離れて行きたいのか」と言われるほどでした。イエスさまのこの教えによって、多くの人々がつまずきました。 3 命を与えるのは“霊”である。霊とは?  しかし、イエスさまには、ほんとうに知って欲しいことがあります。それは、63節の「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」という言葉です。  「霊」というものをほんとうに理解することは、難しいことです。前にも、話したことがあるのですが、もう一度知って頂きたいと思います。  「霊」を日本語の辞書で引きますと、「人間や動物の体に宿って、心の働きを司り、また肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい。」と書いてあります。  守護霊、霊能力者、背後霊、お盆の精霊などという言葉に使われています。  英語では、スピリット(spirit)と言います。  聖書の言葉では、ヘブライ語では、ルーアハ。ギリシャ語では、プニューマといい、「風、息」という意味を持っています。このルーアハ、プニューマは、聖書では、神から出る「働き」、「力」を表現するために「霊」に特別の意味を持たせて訳されています。さらに「神の霊」「人間の霊」「悪霊」などと訳されています。  詩編33編6節には、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。」と唱えられています。 「神の言葉」と「神の口の息」(ルーアハ)は、区別されない使い方がされています。そして、神の力、神の知恵、神の言葉、などと同じ意味を持って訳されています。 4 弟子たちには「霊」は降っていなかった。  新約聖書、とくに福音書をみますと、イエスさまがこの世に居られる間は、聖霊の働きはイエスさまに向かって強く働きかけられているのですが、弟子たちに聖霊が働いたというような兆候が見られません。  たとえば、キリストの処女降誕(「聖霊によって身ごもった」マタイ1:18)、イエスさまの受洗(「霊が鳩のように降った」マルコ1:10)、荒れ野への導き(「霊はイエスを荒れ野に導いた」マルコ1:12)、ガリラヤでの伝道の開始(「イエスは霊の力に満ちて」ルカ4:14)、イザヤの預言(「この僕にわたしの霊を授ける」マタイ12:18)、悪霊を追い出す(「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば」マタイ12:28)などがありますが、弟子たちに直接「霊」が降ったという記事は見当たりません。  ヨハネ福音書7章39節には、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」と記されています。  12人の弟子たちでさえ、イエスさまの存命中には、神さまの霊はあまり降されていなかったのです。 5 弟子たちに聖霊が降り、その時、教会が誕生した。  神さまの霊、神さまの力が働かなければ、神さまが、一人一人の心を開いて下さらなければ、イエスさまが言われる、 「わたしは命のパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」「わたしの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内には命がない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命をえる」と言われたことの本当の意味がまだわからないのです。  イエスさまが十字架にかけられ、葬られ、そして3日目に復活されました。その一週間後に、復活したイエスさまが、弟子たちが居る所に現れ、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、さらに彼らに息(プニューマ)を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と。  彼らに、始めて聖霊をお与えになったのです。ここに、弟子たちは使徒として任命され、新しいイスラエル、新しい教会がここに誕生したのです。  霊によって、聖霊によって命が与えられたのです。イエスさまが語っておられた天からのパンの意味も、イエスさまの肉を食べ、イエスさまの血を飲むことも、そして永遠の命が与えられる方法も、理解できるようになったのです。信じることができるようになりました。 6 サクラメントとは何か。  私たちは、神さまからの聖霊によって生まれた使徒たちの教会に属しています。そして、私たち一人一人も、「父と子と聖霊の御名によって」、すなわち聖霊、霊によって洗礼を授けられ、教会のメンバーとなりました。  私たちは、聖餐に与ります。  祈祷書の聖餐式の式文の中に、「聖奠」という言葉が記されているのをご存じでしょうか。あまり聞き慣れない日本語です。その意味はご存じですか。  この「聖奠」とは、どのような意味でしょうか。わたしたちはこの言葉の説明ができるでしょうか。  洗礼の準備または堅信式を受ける前のときに学ぶ「教会問答」にはこのように記されています。(祈祷書262頁、問14)  問14「救いに必要な聖奠とは何ですか」  答 「目に見えない霊の恵みの、目に見えるしるしまた保証でであり、その恵みを受ける方法として定められ    ています。」  これを一度や二度読んでも、または聞かされても、その意味がわかりません。  「聖奠」とは、英語では「サクラメント(Sacrament)」と言います。そのもとの意味は兵士が国王に対して忠誠を誓うための「聖なる誓い」また保証金を積むことや忠誠を示す宣誓をすることなどを意味します。教会用語として、聖公会では「聖奠」といいますが、カトリック教会では「秘跡」、プロテスタントの教会では「聖礼典」、ハリストス正教会では「機密」とそれぞれ違った言葉で翻訳されています。聖書には出てこない言葉ですが、初代教会の早い時期から用いられているキリスト教のだいじな奥義を表す言葉となっています。  私たちは、神さまから大きな恵み、賜物を受けています。 この「恵み」や「愛」や「聖霊」などは、言葉として口にしますが、目に見えないものです。私たちは、その存在や力を信じていますが、目に見えないものであり、手でしっかり掴むような確認ができません。それをもっと強く確信し、確かなものとするために、目に見える物を使って、これを通して、またはそのものに触れて、目に見えない神の恵みや愛や聖霊をしっかり受け取ることができる方法であり、保証となるもの、さらに、イエスさまご自身が「このように行いなさい」とお定めになったものを、サクラメント、聖奠と言います。 もっと具体的にいいますと、教会が行う「洗礼」と「聖餐」をサクラメントと言います。  私たち人間関係の中でもこのようなことがよく行われます。  たとえば、恋人同士の間で、「わたしはあなたを愛しています」ということを表すためにプレゼントをします。誕生日やクリスマスに特別の意味を込めて贈り物をします。どれほど愛していても「愛」というものを胸の中から取りだして、これを直接見せることはできません。そこで、言葉と共に、指輪やネックレスや花束など、いちばん喜んでもらえそうな物を選んで贈ります。これを受けた人は、これを見て、喜び、感動します。たとえその品物の価格や価値がそれほどではなくっても、その物を通して、これを頂いた人の心、愛を、愛されている喜びを受け取り、感動し、心から喜ぶのです。  目に見えない愛や思いを、プレゼントという目に見えるものを通して、愛の「しるし」、愛の「保証」として、その愛の大きさ、深さに満たされるのです。  これは別に恋人同士だけではなく、夫婦、親子、兄弟姉妹、友人関係、職場で、ご近所のおつきあいの中で、あらゆる人間関係の中で行われ、それによって、愛、友情、思いやり、感謝というような目に見えない心や気持ちを確認し合っています。それらはサクラメント的な行為をしているということができます。 7 サクラメントを通して霊を食べる。  私たちが、イエス・キリストの命と引き替えに示された神の愛を確信し、もっと、もっと確かなものとするために、「このように行え」と言って、聖奠、サクラメントを、聖餐式を行うことを定めてくださいました。  パンとぶどう酒は、目に見える「物質・物」です。しかし、このパンを食べ、このぶどう酒を飲むとき、それはキリストの肉を食べ、キリストの血を飲むことなのだと、イエスさまが教えて下さいました。  「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネ6:56)  「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6:63)  この言葉を頭に深く刻みながら、聖餐の与りましょう。目に見えない神の恵み、キリストの愛をしっかりと受け取りましょう。感謝と賛美の祭りをささげましょう。  〔2015年8月23日 聖霊降臨後第23主日(B-16) 四日市聖アンデレ教会〕