「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」

2015年09月05日
マルコによる福音書7章31節〜37節  今、読みました今日の福音書、マルコによる福音書7章31節〜37節から、ご一緒に学びたいと思います。  マルコによる福音書には、15の奇跡物語が記されています。今日の福音書は、その中の一つですが、この奇跡が起こった時、人々は、すっかり驚いて、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を、聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と言って、賛美の声をあげたと記されています。  ここで、起こった出来事を振り返ってみますと、ガリラヤ湖のほとりでの出来事でした。  イエスさまの所へ、人々が「耳が聞こえず、舌の回らない人」を連れて来ました。聾唖者というか、言語に障害のある人を連れてきたのです。  この人は、自分では何も語れませんから、この人を連れてきた廻りの人々は、「この人の上に手を置いてくださるように」と、イエスさまにお願いしました。  「手を置く」とは、その当時、一般の呪術師や魔術師が、治療行為をする時に、頭に手を置いたり、患部、病気のある部分に手を置いて癒やすということをしていましたので、イエスさまにも、同じようにしてやってほしいと願ったのです。  すると、イエスさまは、この人だけを、群衆の中から誰もいない所に連れていって、指をその人の両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。  イエスさまが、この人を、誰もいない所に連れ出されたというのは、神さまの神聖なわざは、一般の人々の目から隠されるべきだと考えられたのでしょうか(マルコ5:37、8:23、列王記上17:19、列王記下4:4)。または、神さまとイエスさまが一対一で向き合う、または、この障害を持つ人とイエスさまが一対一で向かい合う、他の者が誰も関わることを許さない厳しさが示されているのではないかと思います。  イエスさまは、両耳に指を指し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。(マルコ8:23 ベトサイダの盲人)  そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。これは、「開け」という意味のアラム語です。  「天を仰いで」というイエスさまの動作は、5千人の人々にパンをお与えになったとき、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせた」(マルコ6:41)という場面を思い出します。  そして、「深く息をつき」という言葉は、奇跡を行う人として精神的興奮をあらわしておられるように感じられますし、さらに、言語障害者として今まで生きてきたこの人の苦しみへの共感と深いあわれみの気持ちがあらわされていると受け取ることができます。  この「エッファタ」「開け」という神の言葉によって、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。何かの理由で起こっていたこの人の言語の障害が、今、それが解放されたのです。  その後、イエスさまは、人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされました。しかし、イエスさまが口止めをされればされるほど、人々は、かえってますます言い広めたとあります。イエスさまの評判は、止めようもなく広がっていきました。  そして、このイエスさまの「力あるわざ」を見聞きした人たちは、たいへんな驚きと称賛の声を上げました。  「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」  この言葉は、イザヤ書35章5節、6節(本日の旧約聖書)を思い出させる言葉です。マルコ福音書の編集者は、明らかにこの言葉を引用しています。 そのとき、見えない人の目が開き   聞こえない人の耳が開く。   そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。   口の利けなかった人が喜び歌う。   荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。 イザヤ書のこの個所が書かれたのは紀元前720年頃です。  この時代には、北イスラエルはアッシリアに攻め込まれ、北イスラエルの主だった人たちは、アッシリアに捕囚として連れ去られ、イスラエルの民は、政治的にも経済的にも宗教的にも困窮退廃していた時代でした。  その中で、イスラエルへの帰還と回復が、預言者イザヤによって予言され、このように宣べられました。  主である神さまは、王として栄光をあらわされる時が来たと言って、神の栄光が回復されることを説きました。それは、自然界の回復であり、目や耳の不自由な人の回復です。神さまが栄光を表される時、その徴候(しるし)として、砂漠に花が咲き、目の見えない人の目が開き、耳の聞こえない人の耳が開き、口が利けなかった人が喜び歌うと、預言しました。  今日の福音書の出来事、耳が聞こえず舌の回らない人を癒やされた奇跡の出来事を見た人たちには、預言者イザヤのこの預言を思い出させる出来事だったのです。  人々は、このようにして、神を賛美し、イエスさまを讃えました。この方こそ、イザヤが預言したその通りのことを行われた、この方こそ、私たちを解放して下さる方だと受け取り賛美したのです。  最初に、福音記者マルコは、15の奇跡物語を伝えていると言いました。そのうちのマルコ5章25節以下には、12年間出血が止まらない女性をいやしたという奇跡物語があります。その時には「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。  また、同じくマルコ10:46以下では、エリコの町で、イエスさまは、盲人バルトロマイに出会い、その盲人が「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った時、イエスさまは、「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われ、盲人の目が見えるようになったという奇跡物語があります。  このように、いずれも癒やして頂いた人の信仰が、イエスさまが奇跡を行われる切っ掛け、動機になっています。  しかし、今日の福音書の耳が聞こえない舌がまわらない人は、自分の信仰を言い表すようなことは何も言っていません。舌がまわらない人だったので、何も言えないのは当然です。 あえて言えば、この人を、イエスさまの所へ連れてきた人々の信仰、思いだったのかも知れません。この人々は、イエスさまと、耳が聞こえず舌の回らない人を、仲介した人々ということができます。  この奇跡物語では、この仲介した人々の役割が大切だったことを見落としてはなりません。  イエスさまが奇跡を行われた動機は、この人たちの熱心さに応えられたのではないでしょうか。  そのことから、2千年経った今の、教会の役割を指摘されているような気がします。  今日(こんにち)では、イエスさまと、まだイエスさまを知らない人々の間を仲介する「教会」の役割、さらにそのメンバーである私たち信徒の役割が指摘されているのではないでしょうか。 教会は、病める人を、魂の平安を求める人を、イエスさまのもとに連れて来る働きをするために、イエスさまによって立てられたものです。癒やして下さるのはイエスさまご自身です。そのイエスさまとの出会いを備えるのが教会の使命だということを忘れてはなりません。  イエスさまに出会い、イエスさまによる癒やしを救いを見聞きした人たちは、言いました。  「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と。  私たちが、自分の人生を振り返って、その半ばであれ、その終わりにおいてであれ、すでに神さまから、イエスさまから与えられた恵みを一つ一つ数えながら、「この方のなさったことは、すべて、すばらしい」ということができたなら、信仰者に与えられる最高の幸いであると思います。  今日の福音書から、そのことを学びたいと思います。   2015年9月6日 聖霊降臨後第15主日(B-18) 於・下鴨キリスト教会