あなたがたはわたしを何者だと言うのか。

2015年09月12日
マルコによる福音書8章27節〜38節  今読みました今日の福音書から、イエスさまと、イエスさまの弟子たちとの関係について考えてみたいと思います。  とくに、神学者の間でテーマになっている「弟子たちの無理解」ということについて考えてみたいと思います。  12人の弟子たちには、それぞれにイエスさまとの出会いがありました。  ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、ガリラヤ湖で魚を獲る漁師でしたが、イエスさまに「わたしについてきなさい。人間を獲る漁師にしよう」と言われて、舟も網も捨ててついて来た人たちでした。  取税人マタイは、収税所に座っていて、イエスさまについてきなさいと言われて従いました。  ベトサイダ出身のフィリポは、イエスさまがガリラヤへ行こうとしておられた時に、イエスさまに会い、「わたしに従いなさい」と言われてついてきました。  ナタナエルは、このフィリポから紹介されてイエスさまに出会い、イエスさまに従う人となりました。(ヨハネ1:43)  その他の弟子たちも、それぞれにイエスさまに出会い、従った人たちでした。  弟子たち以外にも、多くの人たちがイエスさまに出会いました。イエスさまの教えを聴き、ある人は、病気をいやして頂き、目が見えるようになったり、耳が聞こえるようにしていただいたり、歩けるようになった人たちもいました。イエスさまを慕う婦人たちもいました。それぞれに、イエスさまとの出会いがあり、どこまでもついて歩く人もいれば、噂を聞いて驚くだけの人もいました。  イエスさまは、あるとき、突然、弟子たちに、  「人々は、わたしのことを 何者だと言っているか」とお尋ねになりました。  弟子たちは口々に言いました。 「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と、弟子たちが人々から聞いていることを口々に言いました。  そこで、イエスさまは、  「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」 とお尋ねになりました。  すると、弟子たちの兄貴分であるペトロは、「あなたは、メシアです。」と答えました。  マタイによる福音書では、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたと記されています。  人びとの噂では、漠然としたピントはずれの答えでしたが、ペテロの答えは、百点満点の答えでした。ピントが合った信仰告白をしました。  マタイ福音書では、この時、イエスさまは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と祝福されたとあります(マタイ16:17)。マルコ福音書では、「御自分のことを、だれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」とだけ記されています。  イエスさまに、「わたしに従いなさい」と言われて、弟子たちは、それぞれイエスさまに付いて来ました。  それは、イエスさまと、弟子たちとの最初の出会いだったということができます。第1回目の出会いでした。  そして、今、ペトロが代表して、「あなたはメシヤです。神の子です」と答えたのは、弟子たちとイエスさまとの第2の出会いだったということができます。  最初の出会いで、まだ表面的にしか理解出来ていなかった弟子たちが、イエスさまとは誰か、イエスとは何者なのかという問いに対して、イエスさまが、ほんとうに知ってもらいたいと望んでおられる答えに少し近づいた答えでした。  それでは、弟子たちは、ほんとうにイエスさまのことが理解できていたのでしょうか。  ところが、21節以下を見ますと、まだまだわかっていなかった弟子たちの姿が暴露されます。  そのことからしばらくして、イエスさまは、突然、弟子たちに、  「人の子、(つまりご自分は、) これから必ず多くの苦しみを受け、ユダヤの長老や、祭司長や、律法学者たちから排斥され、殺され、3日の後に復活することになっている」と、苦しみと死を復活を予告し、そのことを公然と弟子たちに教え始められました。  それを聞いたペトロは、イエスさまをわきへお連れして、いさめ始めました。たぶん、「主よ、とんでもないことです。死ぬなんてことを簡単に言わなでください。」というようなことを言ったのだと思います。  すると、イエスさまは、振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロをに向かって、  「サタン(悪魔よ)、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言って叱りつけられました。  イエスさまがこの世に来られた目的は、すべての人びとの罪を負って十字架に懸けられ、ご自分の命をもって、人びとの罪を贖うことにありました。すべての人びとを救うためには、「苦しみを受け、死んで、3日目によみがえらなければならない」と。そして、イエスさまは、そのためにこの世に遣わされたのです。  そのことがわからなければ、イエスさまのことを、ほんとうに理解したことにはなりません。 弟子たちが、旧約聖書にある歴史上の人物、すなわち、預言者エリヤの生まれ変わりだ、洗礼者ヨハネの生まれ変わりだ、其の他のどんな預言者の生まれ変わりだと言い、過去の経験と知識にある「メシヤ、救い主」の姿を当てはめてみても、イエスさまがこれからなさろうとする出来事の意味が分からないと言われるのです。  「わたしは、苦しみを受け、死んで、よみがえるだろう」という予告、イエスさまご自身に、これから起こる出来事の意味を、弟子たちは理解できなかったのです。  「あなたはメシヤです」と信仰告白をしたペトロとその他の弟子たちに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱って言われました。  サタンとは、悪魔のことです。悪魔とは「誘惑する者」です。神さまに近づこうとする者を、引き戻そうとする力です。 イエスさまは、神さまのご計画、神さまのみ心に従って、苦しみを受け、十字架につけられて死のうとしておられます。  これに対して、ペトロの行為は、イエスさまをいさめて、思い止まらせようとすることは、神さまのご意志に背かせようとすることです。  神さまのみ心に従おうとする者を誘惑する者です。ペトロは、「ヘビ」の役割を果たそうとしていることなのです。  イエスさまは、ペトロに「サタン、引き下がれ。お前は神さまのことを思わず、人間のことしか考えていない」と、怒鳴られたのです。 ペトロをはじめ弟子たちの「無理解」を叱り、「まだ分からぬのか」と言われたのです。  イエスさまは、このような予告を3度も繰り返し、そして、それ以後、エルサレムに向かって、十字架に向かって真っ直ぐに歩まれました。  それでは、弟子たちが、ほんとうにイエスさまを正しく理解し、受け入れられたのは、いつだったのでしょうか。  それは、イエスさまが十字架につけられ、3日目に復活されたという出来事があり、よみがえったイエスさまにお会いしてからでした。  イエスさまが捕えられ、裁判に掛けられ、鞭打たれ、唾され、侮辱され、茨の冠を被せられ、十字架を担いでゴルゴタの丘に引いていかされ、手と足に釘打たれて十字架につけられ、息を引き取られました。  弟子たちは、なすすべなく、ただそれを見ているだけでした。十字架上で、苦しみもだえ、遂に息を引き取られました。弟子たちは、3日目の朝、お墓に行ってみると、お墓は空っぽになっていました。空っぽになったお墓を自分たちの目ではっきりと見、よみがえったイエスさまが弟子たちの所に現れ、聖霊を受けた時、弟子たちは、始めてイエスさまの思いを、神さまのみ心を、完全に知ることが出来たのです。第3の出会いを、果たすことができたということができます。  かつて、イエスさまがご自分の死を予告なさった時、  「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8:34-35)と、弟子たちに教えられました。  そして、弟子たちは、キリストの十字架を仰ぎ、復活したイエスさまにお会いした後、この時、はじめて自分たちが、キリストの福音のために、十字架を背負い、次々と、その生涯を、命を、ささげ、イエスさまに従う者となることができたのです。殉教の死を遂げました。  弟子たちは、最初から、いっぺんにイエスさまを理解することはできませんでした。しかし、2度、3度と、イエスさまとの新しい「出会い」を体験し、その度に深められ、そして最後に本当の出会いを体験することができました。  さて、イエスさまと弟子たちの出会いが、イエスさまに、喜ばれながら、叱られながら、ほんものの出会い、すなわち「イエスさまに従う者」になっていったように、私たちと、イエスさまとの関係も、日毎に新たにされなければ、ほんとうのイエスさまに出会う喜びに満たされることはできません。  私たちのイエスさまとの出会いは、日に日に深められているでしょうか。どうなっているでしょうか。  イエスさまの方は、私たち一人一人のことをよくよくご存じなのですが、私たちの方からは、初対面の挨拶を交わした頃と少しも変わっていない、名刺を交換したり、履歴書を交わしたりしたころの知識や理解と少しも変わっていないというような表面的な出会いに終わっていることはないでしょうか。  イエスさまが、「人びとは、わたしのことを何者だと思っているか」と弟子たちに尋ねられたように、私たちに向かって、今、「あなたは、わたしを何者と思っているのか」、「ほんとうに、ほんとうのわたしに出会っていますか」と、尋ねておられます。私たちは、何と答えるでしょうか。      〔2015年9月13日 聖霊降臨後16主日(B-19) 下鴨キリスト教会〕