だれがいちばん偉いか
2015年09月19日
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて3日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、12人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、1人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。(マルコによる福音書9章30節〜37節)
1 弟子たちの無理解
私たちは、イエスさまという方は、いつも静かで、やさしく、穏やかで、愛に満ちた方だという印象を持っています。 しかし、聖書を読んでいますと、その反対で、いつも何かに向かって立ち向かい、戦っておられる方だったということに気がつきます。
イエスさまが戦っておられた相手は、第一に、当時のユダヤ人たちでした。とくにユダヤ人を代表するファリサイ派、律法学者、神殿の祭司や祭司長、というような、ユダヤ教の指導者たちでした。
マタイ福音書にはこのように記されています。
「ファリサイ派、律法学者のすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」(マタイ23:4-11)
ファリサイ派や律法学者に対して、イエスさまは、彼らは、偽善者だ、ものの見えない案内人だ、蛇よ、蝮(まむし)の子らよと、厳しく非難し、ののしっています。
ファリサイ派、律法学者たちは、先生、教師、父と呼ばれて挨拶されることを望み、上座、上席につくことを好み、口ではいいことを言うが、行いは少しも伴っていないと、指摘されます。
当時の社会の様子が目に見えるようです。彼らは威張って歩いていました。イエスさまは、いつも彼らと戦っていました。
第二に、イエスさまが戦っておられたのは、「弟子たちの無理解さ」との闘いでした。イエスさまがどんなに教えても、弟子たちには、大切な、肝腎のことが、なかなか理解されないのです。イエスさまは、「お前たちは、まだ分からないのか」と言わんばかりに、そのためにもどかしく、いらいらしておられる様子が伺えます。
2 だれがいちばん偉いのか
そして、今日の福音書には、その弟子たちの無理解さを表す、一つの場面が描かれています。
イエスさまは、弟子たちに、「わたしは、まもなく捕らえられ、祭司長、長老、律法学者たちにひき渡され、苦しみを受け、殺され、そして、3日の後によみがえるであろう」と、予告されました。
3度も、同じことを予告されたのですが、弟子たちには、この言葉のほんとうの意味が分かりません。というより、彼らは怖くてほんとうの意味を尋ねることができませんでした。
このようなイエスさまの生命にかかわるだいじな予告が、イエスさまから話された第2回目の予告の直後のことです。
イエスさまと弟子たち一行は、カファルナウムという町に着いて、一軒の家に泊まりました。
そこで、イエスさまは、弟子たちにお尋ねになりました。
「おまえたちは、途中で、なにか議論をしていたようだが、何を議論していたのだ?」と。
彼らは黙っていました。それは、途中で、口々に「この中で誰がいちばん偉いのか」と議論し合っていたからでした。
この議論が出てくる発想や感覚は、イエスさまが、いちばん嫌がっておられる、厳しく戒めておられる、ファリサイ派、律法学者たちの考えや生活ぶりと同じだったことがわかります。
「偉くなりたい」というのは、人間の欲望の一つです。人から尊敬される人になるということですが、その場合、地位や名誉を求め、権威や権力を欲しがります。先生とか社長とか、さまざまな職位名や肩書きで呼ばれることを好みます。
それに従って人びとは頭を下げ、柔順を誓い、さらに支配欲が強くなり、そして金銭の欲が絡んできます。自分自身も、まわりの人びとも、見る眼が変わり、価値観が変わってきます。どんなひとでも、人の前で胸を張って歩き、もてはやされ、「偉くなった」と言われることは嬉しいものだと思います。
3 イエスの教えの逆転
ところが、イエスさまは、弟子たちの議論していたこと、その胸の内を見抜いて、この世の普通の人にはあてはまらないような、まったく反対の生き方を求められました。
イエスさまは、12人の弟子たちに言われました。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と。(マルコ9:35)
いちばん先になりたい人は、いちばん後になりなさい。いちばん上になりたい人は、いちばん下になりなさい。多くの人びとに仕えてほしいと願う人は、誰よりも仕える者になりなさいと言われます。
イエスさまの時代、「仕える者」とは、食卓の席で給仕をする人のことでした。そして、それは多くの場合、奴隷の仕事でした。奴隷にとって、ご主人様の命令は絶対です。命令されたことには、すべて従わなければなりません。厳しい労働を強いられても、給料ももらえません。命さえも御主人さまのものです。そのような仕える人になりなさい、とイエスさまは教えられます。
イエスさまは、偉くなってはいけないと言っておられるのではありません。ファリサイ派や律法学者たちのように、見せかけや虚栄心や名誉心だけで、中味が伴わない、偽善者になることを見抜いておられるのです。偉いと思ってもらいたいため、上座、上席を選んだり、人に挨拶されることを求めたりすることの偽善性を指摘されます。
マザー・テレサは、亡くなってもう18年になりますが、この方は、1979年に、ノーベル平和賞を受けました。その他にもたくさんの世界的な賞を受け、亡くなった後には、カトリック教会から福者という聖人に次ぐ称号を受けました。世界中の人は、マザー・テレサの偉大さを知り、尊敬し、その業績に賞讃の拍手を送りましいた。
しかし、マザー・テレサは、人びとから「偉い人だ」と言われるために、その仕事をしたのではありません。
インドの最も貧しい人びとのために、食物を与え、病人を看取り、死んでいく人びとを見守ったのです。
それは、イエスさまが、この世で最も小さい人にしたことは、わたしにしたことであると言われた教えに従い、イエスさまに喜ばれるために、生涯をかけたのです。その結果として、この人を偉い人だと賞讃し、ノーベル平和賞が贈られたのです。
イエスさまは、人びとが、目の前の仕事、今しなければならない行動に没頭して、それを成し遂げ、その結果、人びとから「偉い」と言われることまで、否定しておられるのではありません。
イエスさまは、今まで、「偉い」と思われてきた価値観をぶちこわし、ほんとうに「偉い」人とは誰なのかと問いかけ、仕える者となりなさい。高い所から下りて低い者になりなさい。大きな者(何でも持っている人、何でもできる人)よりも、小さい者(何も持っていない、何も無い、何もできない) 取るに足りないような人になりなさい。
それがキリストに従う者の条件であり。神の前に偉い者として受け入れられる人になる条件だと教えられます。
4 子どものようになる
そして、一人の子供の手を取って、彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて、弟子たちに言われました。
「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ36、37)
低い者、小さい者の象徴として、小さな子どもを抱き上げて、このように言われました。イエスさまの時代の子どもは、今のように「子どもの人権」とか「児童憲章」とか「子育て支援」とか言われて、子どもを大事にしましょうというような時代と違い、人でありながら小さいゆえに人として扱われないような時代でした。
イエスさまは、「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言って、イエスさまと子どもとを同一視されました。
しかし、幼い子どもには、いろいろな面があります。ただ、可愛いとか、無邪気だというだけではなく、一方では、「泣くこと地頭にはかなわない」ということわざがあるように、泣きだしたら止まらないとか、人のことなど気にしないとか、わがままとかいう別の面もあります。そのような者になれと言われるのではありません。
どの子どもも、小さい、弱い、存在であり、子どもは生きていくためには、だれかの助けが必要な存在だということです。父親、母親、おじいさんおばあさん、保育士、誰かの手がなければ生きていけません。ゆえに、小さい者、弱い者だということです。
イエスさまは、一人の子ども、最も小さい者、弱い者、そして、いつも助けられ、守られなければ生きていけないということを、小さな子どもを抱きあげて、「この子のような者を受け入れる者にならなければ、神に受け入れられないのだ」と言われました。
イエスさまは、ここで、無理解な弟子たちに対して、一つの視聴覚教育をされました。
「誰が偉いのか」という問いに、名誉や地位や権力や業績や財産や知識など、そのようなものさえあれば、偉いと思われる社会にあって、最も小さい者、弱い者、何も持たな人、何かの助けがなければ生きていけない人を、受け入れる者になりなさい。
それも、イエス・キリストの名によって、イエス・キリストのために、受け入れなさい、そのように、受け入れた人は、神さまによって受け入れられるのだと言われます。
弟子たちが理解しなければならないことは、この世の物差しではかる「偉くなる」ではなく、神さまに受け入れられる者となることです。ほんとうに神さまを受け入れる者となることだと教えます。
私たちの「偉い」か「偉くない」かの物差しは、どこにあるでしょうか。