逆らわない者は、味方なのである。

2015年09月25日
マルコによる福音書9章38節〜48節  イエスさまは、「わたしは、間もなく、必ず多くの苦しみを受け、長老や、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される。そして、3日の後に復活することになっている」と、これから御自身の上に起こる命に関わる重大な出来事を、弟子たちに予告されました。これは、第1回目の予告です。(マルコ8:31)  すると、ペトロは、イエスさまを、わきへ連れ出していさめ始めました。イエスさまは、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のこを思っている。」と言われました。  そして、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。  自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」と、イエスさまに従う者の大切な心構えを教えられました。(マルコ8:32〜35) そして、イエスさまは、弟子たちに、「わたしは、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて3日の後に復活する」と言って、2回目の予告をされました。(マルコ9:31)  弟子たちは、まだこの言葉の意味が分かりませんでした。  反対に、怖くて尋ねられなかったと記されています。  それどころか、2回目の予告をなさった後にも、弟子たちは、歩きながら「この中でだれがいちばん偉いのか」と論じ合っていたと言います。(マルコ9:33〜34)  その時には、イエスさまは、弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われ、さらに幼い子どもを指して「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と教えられました。  弟子たちは、イエスさまが、最も大事なことを予告し、教えておられるのに、なかなかイエスさまの心の中を理解することができません。  イエスさまの予告の重大さと共に、イエスさまの心の中を悟ろうとしない弟子たちの鈍感さ、無理解が浮かび上がってきます。  さらに、今日の福音書ですが、ここでは、12人の弟子たちの一人、ヨハネが、イエスさまに、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と、したり顔で得意気に言いました。  現在でも、芸能人や有名人の名前をかたってお金儲けをしようとする話をよく聞きます。  歌手や役者の名前をかたったり、紛らわしい名前で宣伝したりして、人集めをする。  ちょっと昔の話ですが、美空ひばりにあやかって「美空びばり」と名乗って地方で公演していたという話を聞いたことがあります。  有名人の人気の威力を利用しようとする人たちが絶えません。  いろいろなブランド品の偽物が横行するのもその類いだと思います。  イエスさまの時代にも、そのような現象が、あちこちに起こっていました。  「そのとき(世の終わりの時)、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。」(マルコ13:21〜23) と、イエスさま自身、語られたことがあります。  このように、どの時代にも、にせ預言者やにせキリストが現れて、人々を惑わすことがありました。  ここで、弟子たちが問題にしているのは、イエスさまに従わずに、イエスさまの名によって、悪魔払いをしていた人物がいたということです。  弟子たちはこれを見とがめて、イエスさまに訴えました。  イエスさまが、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられたのに、弟子たちは、自分たちの心の中にあるエリート意識に気がつきません。  すべての人に仕えるべき弟子たちには、外の人たちにも開かれた姿勢、寛容の精神が求められています。  弟子たちは、イエスさまが教えられたその直後であるのに、自分たちの特権意識と閉鎖性、さらに排他性を暴露することになりました。 そこで、イエスさまは言われました。  「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。  わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と。(マルコ9:39〜41)  わたしについて歩かなくても、わたしの名によって、わたしの名を使って良いことをしているのなら、それでいいではないか。わたしたちに逆らわない者なのだから、わたしたちの味方なのだと言って、弟子たちの狭い考え方、排他的な考えを戒められました。  誰であろうと、イエスさまの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水でも飲ませてくれた人には、その人が誰であろうと、神さまは、必ず相応の報いを与えて下さると言われます。  それどころか、反対に、イエスさまを信じようとする人、それがどんなに貧しくても、弱い立場の人であっても、小さい者であっても、この人をつまずかせる者は、罰を受けると言われます。(マルコ9:42)  そして、今日の福音書の9章43節〜48節には、恐ろしいことが宣べられています。  「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」  「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。  「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。」と恐ろしいことが記されています。  もし、身内であっても、たとえ、手や足や目のように、自分の身体の一部であっても、あなたに罪を犯させるものであれば、切り捨てなさい。五体そろって地獄に落ちるよりもましだと言われます。罪とは、神さまの意志に逆らうこと、イエスさまに背くこと、イエスさまに従おうとする気持ちを、引き離そうとする力、働きです。  ここに、「地獄」という言葉が出てきます。  ギリシャ語では、ゲヘナという言葉です。これは、ヘブライ語で、「ゲヒノム」と呼ばれ、火刑の場所、虐殺の谷と呼ばれた実際にあった地名からきています。  エルサレムは標高790メートルにある台地で、北に更に山が迫り、他の3方は、谷になっています。  とくに南側の谷は深く、「ヒンノムの谷」と呼ばれていました。  歴史的にも、昔は、その谷の下で、異教の神の祭りや火あぶりの刑が行われてきました。  この谷には、長年、エルサレムの人々が、生活廃棄物や死体を落とし、燃やし続けていたため昼夜かまわず悪臭と共に火が燃えていたと言われています。  ふつうの人は、その谷に降りることはなく、「ヒノム谷」の名前、「ゲヒノム」は、「地獄」を意味する地名になっていました。  わたしたちが、地獄というと、仏教絵画の火の池とか血の池とか針の山とか、人を食う鬼の図を思い出しますが、イエスさまの時代には、具体的な場所を思い出す言葉であったようです。(44節、46節が欠けていますが、48節の「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」が入った写本があります。)  ここで、語っておられるイエスさまの脅しのような言葉は、単に「たとえ」として語られたものではありません。  まだイエスさまの思いを、胸の内を分かろうとしない弟子たち、理解できない弟子たちに、きびしく詰め寄っておられるのです。「だいたい」とか「まあまあ」とか、漠然とした判断を求めるのではなく、「あれか、これか」の決断を迫っておられます。  イエスさまを見たくない、イエスさまがこれから歩んで行こうとされる思いに、目を閉ざそうとする。  そのような「閉ざす目」を失ってでも生きるか。イエスさまを振り払って、拒もうとする手を失ってでも生きるか、イエスさまに背を向けようとする足を切り落としてでもほんとうの生命を得たいと思うのかと迫っておられます。  弟子たちの心の頑なさ、鈍感さに業を煮やして迫っておられます。  結局、イエスさまが苦しみを受け、十字架にかかり、死んでよみがえる、イエスさまが予告された事実を体験するまでは、弟子たちは、ほんとうに気づくことはできませんでした。  しかし、弟子たちは、イエスさまが十字架に掛けられて死に、よみがえって現れ、息を吹きかけられて、聖霊によって前に押し出されて、そこで初めて、イエスさまの心を自分たちのものにすることができました。  あの「ペンテコステ」の出来事を思い出して下さい。  「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 「人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。  すると、ペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。  「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。  わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の9時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」とペトロは語り始めました。  「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。  このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たち(ローマの兵士たち)の手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」  人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。すると、ペトロは彼らに言いました。  「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」  ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。  ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に3千人ほどが仲間に加わったと記されています。  彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒言行録2:1〜42) と、使徒言行録は伝えています。  私たちは、イエスさまの死も、復活も、聖霊が与えられていることも、知っています。  そして、イエスさまの名によって、洗礼を受け、大きな、何にも替えられない大きな恵みを受けていることも、知っています。  それでもなお、聖霊を受ける前の弟子たちのように、頑なになり、無理解を装っているような生活をしていることはないでしょうか。  イエスさまは、私たちの前に立って、「わたしに従っていますか」「わたしが十字架を背負ったように、あなたも自分の十字架を背負っていますか」「この世の小さい者の一人に、わたしの名のゆえに、一杯の水を飲ませてくれていますか」と尋ねておられます。  そして、「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50) と言っておられます。      〔2015年9月27日  聖霊降臨後第18主日(B-21)  四日市聖アンデレ教会〕